- (放っておくか)
- 嘉兵衛は、何度もおもった。
- かれはディアナ号に船もろとも拿捕されたとき、両国のあいだをまとめるべく決心したが、その覚悟が、この事態のなかでともすればくずれた。
- (オロシヤめ、思い知ったか)
- という1)えたいの知れぬ感情が、嘉兵衛の理性を突きくずした。勝手に他国人を連れてゆくということは、誰がどう屁理屈をつけても、正当もしくは正常な行為とは言いくるめられない。
- その2)没義道なやり方への憎しみが、嘉兵衛の肚の底にわだかまっていて、かれ自身、その感情をどうなだめても、(a)かま首をもたげてしまうのである。
- しかし、結局は、
- (3)この艦を救ってやろう)
- と、思いなおした。
- 難破からディアナ号をまぬかれさせることによって、4)日本人の心のあかるさが、ロシア人につたわるであろう。そうすれば、ロシアでの交渉もうまくゆくのではあるまいか。
- 嘉兵衛は、近づいてくる島が水晶島であり、その沿岸が遠浅であることを知っていた。このままでは(b)海が浅くなってしまう。艦は乗りあげて横倒しになるにちがいない。
- 嘉兵衛は5)一個の船霊のようになって、駈けだした。
- あるいは、危機にある船を牛耳っている怪奇な化身になったというべきかもしれない。ともかくもなまのままの人間でなかった。なまな人間としての船長・船頭は、危機のなかの船を操ることができないのである。
- 危機を感じたときの船長とは、乗組員の信頼を一瞬で得、その心をつかみ、古代の族長が、音階順にならべられた銅鼓を打ち鳴らし
- て神にささげる音を創造するように、乗組員個々に必要な能力を限度以上に発揮させ、個々に身の危険をわすれさせて動きまわらせね
- ばならない存在である。
- この場合、艦長リコルド少佐には、(c)その点が欠けていたかもしれない。
- 嘉兵衛は、
- (いい人物ではあるが)
- と、先刻そのことを察していた。かれは、たがいの体をなであって話さねばならぬような不自由な言語障壁のなかで、
- 「この場合、艦をこうしなければならない。それも、すぐにだぞ」
- というようなことを悠長に話しているゆとりがなかった。さらには、双方、(d)日本語とロシア語に堪能であったとしても、艦について絶対的な指揮権をもつ艦長に対し、客が(正確には捕虜が)指図するなど、できるわけがない。
- 嘉兵衛の目の前にそびえているのが、艦首からかぞえて三本目の後 檣である。そこへ登るには、網のようなリギン(索具)がついている。
- 嘉兵衛は、うまれついての西洋帆船の水夫のようにそれに登った。
- 途中、トップとよばれる半円形の台がある。それへ両足をのせ、左手で索具を固くつかんで艦の動揺から身を守りつつ、
- 「ぜんぶの帆をおろせえっ」
- と、さけび、腕をふって帆桁を下へおとすしぐさをくりかえし、さらには、
- 「碇、碇、碇、碇を入れろ」
- と、叫んだ。いうまでもなく日本語の号令である。
- 6)ふしぎな現象がおこった。すべての乗組員にそれが通じたことであった。
- ひとつには、暴風のもとで、(e)座礁の危険のある状況のなかで船乗りとして何をすべきで何をしてはいけないかをたれもが知っていたことである。ロシア語であろうと日本語であろうと、叫んで身ぶりをすればわかることであった。
- しかしその命令を発している男が、艦長でも当直将校でもなく、捕虜にしたばかりの日本人であるということに、ロシアの水兵たちは違和感を抱かなかったのであろうか。
- 抱かなかったらしいことは、何人もが勇敢にマストに登りはじめたことでも察せられる。おそらくかれらは、前日から嘉兵衛を見てごく自然に「隊長」とよんでいたことでもわかるように、海を棲処としてすぐれた指揮能力をもつ男ということが、かんで理解できていたのかとおもえる。
- 嘉兵衛は、縮帆して帆桁をおろすという命令が実行されつつあるのを見とどけると、こんどは碇を投げ入れる作業をトップの上からやかましく督励した。
- 碇は、一つでは足りず、船体はそれをひきずって風と潮のために水晶島にむかって流された。海底は、岩石やら砂やらが入りまじって状態が定かでないが、碇掻きがわるいとは思えない。ディアナ号は、二つ目の碇をほうりこんだとき、(f)船体が停止した。艦は、難破をまぬかれた。
- それを見とどけると、嘉兵衛は7)いたずらを働いた少年のようにこそこそと8)甲板上から消えた。
- リコルド艦長の名誉を傷つけては、かれの今後の指揮に支障をきたすのである。
- リコルドは、嘉兵衛を優遇して艦長室に同居させていた。嘉兵衛は艦長室にもどると、荷物のなかからたばこをとりだし、煙管に詰めた。かれはたばこ盆まで持ちこんできていた。吐月峯、そして呉須の絵付のやきものに、灰まで入れてある。
- 疲れが、出てきた。
- 「9)波の上……か」
- とつぶやいたのは、自分の疲れを舐めて癒そうとする衝動で、べつに意味のあることばではない。淡路の都志を出て以来、波の上でくらしてきた。二十三歳のとき江戸ゆきの樽廻船に乗りこんだときからかぞえると、二十一年の海上生活になる。
- その間、日本列島の外縁は、ほぼまわった。もっとも、四国の土佐沖や薩摩や大隅の沖は知らない。
- 知りすぎている航路は、日本海である。嘉兵衛にとって加賀の沖はにが手だった。そこで何度かひどい風をくらい、逃げこむ湊もまわりにないという目に遭った。加賀の沖で死んだと思えばいいのだ、と自他をなぐさめているのである。「何でも思いよう一つだ」というのが、嘉兵衛たち江戸期の庶民の処世哲学でもあった。
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