ポスト「舞姫」



「悪人礼賛」 中野孝次 (第一学習社「現代文2」収録)

 作者は、善意と純情が嫌いである。善意の善人ほど始末に困る者はなく、悪人の方が始末がよくつき合いやすい。なぜなら、悪人は、聡明で、基本的グラマーがある。その悪のグラマーさえ心得ていれば、相手は危害を加えてこない。
 それに比べて、善意や純情の犯す悪は、退屈であり、一切の責任は解除されるものと考えている。却って迷惑を被ったこちらが感謝しなければならないという奇怪な義務を負ってしまう。
 善意から起こる悪は、無法、無文法で、警戒の手か利かず、どこから飛んでくるかわからない一撃におびえなければならない。欺かれる愚かな善人さえいなければ、聡明な悪は得難い美徳である。
 友情は、常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し永続すると言われている。しかし、作者は、真の友情とは、相互間の正しい軽蔑によって永続性を持つと考える。それは、ニーチェとワーグナーの友情の破綻、伯牙に対する鐘子期の友情から証明できる。友情は、九分の侮蔑と一分の畏敬の上に成立する。
 無私、無欲、滅私奉公という人間は、何をしでかすかわからないので厳重な警戒が必要である。それに対して、金好きで、女好きで、名誉心が強く、利得になることならなんでもする人間は、さばさばしていてつき合いやすい。なぜなら、こちらに金がなく、女でなく、ほかで名誉をつかんでくれて、こちらに利権がなければ関係ないからである。
 作者は偽善者として悪名が高いと言われるが、本望である。自分だけでなく、一人でも多くの聡明なる悪人、偽善者が増加することを希求している。そうなれば、不当、不法なルール外の迷惑を被る者はなく、整然たるルールを守るフェアプレーのみ行われる世界になる。


なぜ、豊太郎の優柔不断な優しさが、悲劇的な結末を招いたのか。
なぜ、相沢の豊太郎に対する友情が、悲劇的な結末を招いたのか。
なぜ、エリスの盲目的な愛が、悲劇的な結末を招いたのか。

もどる