
教材観 展開 若い詩人の肖像
教材観
青春の憂鬱。
「えたいの知れない不吉な塊」。これが全てを言い表しているだろう。なんせ「えたいが知れない」のだからどうしようもない。ただ、焦燥とか、嫌悪とか、二日酔いとか、思い当たるふしはある。何に追い立てられているのか? 何を嫌っているのか? なぜ次の日に体調を崩すことを知りながら毎日酒を飲むのか? 肺尖カタル、神経衰弱、借金がいけないのではない、と言っているが、それらがいけないのである。何かに焦燥し自己嫌悪に陥り、それを紛らすのに酒を飲むが、それでは何も解決せずますます焦燥は激しくなるのでというふうに悪循環に陥ってしまう。その結果、肺尖カタルになり神経衰弱になり借金も増えていく。このようにして、不吉な塊が、私を居たたまらずさせるのだ。
「そのころ」の私は、「みすぼらしくて美しいもの」に強くひかれた。例えば、壊れかかった街の裏通り。みすぼらしいけれどどこか親しみがある。華やかな表通りが京都とすれば、そこはまるで京都から遠く離れた異郷の地のようであるという錯覚を起こそうとする。そこでゆっくり静養したい。つまり、なにかに追われ疲れきって、現実から空間的に逃避したかったのである。
また、金はなく、二銭や三銭のもので、贅沢なもので、美しいもので、無気力な私の触覚に媚びてくるものが私を慰めてくれた。花火の安っぽい絵の具の色は、けばけばしく強い刺激で疲れ切った精神に病的に侵入してくる。びいどろや南京玉は、それをなめて叱られた幼児のあまい記憶が落ちぶれた私を慰めてくれる。つまり、現実からの時間的な逃避である。
「生活がまだ蝕まれていなかった以前」の私が好きであったのは、例えば丸善の高級小物であった。そこで、いっとういい鉛筆を一本買うぐらいの贅沢をした。お洒落な消費であった。しかし、そんな浪費が積もり積もって今の借金生活に陥った。私にとって丸善は借金取りの亡霊のように思えた。
「そのころ」私は友達の下宿を転々としていた。「何か」が私を追い立てるのだ。そしてお気に入りの果物屋「八百卯」に立ち寄る。その店の果物屋固有の美しさ、夜の店頭の周囲だけが妙に暗いこと、目深にかぶった帽子のような廂、店頭の電灯の驟雨のように浴びせかける絢爛などが気に入っていた。(京都で学ぶ生徒にとって、寺町は身近な場所である。「八百卯」も「丸善」も行くことができるし行ったこともある。地の利を生かさない手はない。写真を見せたり、梶井のお気に入りの店が「八百卯」なら、私のお気に入りの店を紹介してもいいし、生徒のお気に入りの店を紹介させてもよい。絶好の動機付けである。)
その店で、私は檸檬を買った。レモンヱロウの単純な色はその単純なゆえに、丈の詰まった紡錘形の恰好は丈の詰まった充実感ゆえに、冷たさと匂いは肺尖カタルで熱があった上に深呼吸ができなかったゆえに、不吉な塊に悩まされ続けた私には快かった。その感じを、すべての善いものすべての美しいものを重量に換算した重さに象徴した。これは「共鳴」である。心とは不思議なものだ。
その勢いを借りて、あの丸善にやすやすと入れるように思えて、ずかずかと入っていく。しかし、だんだんと憂鬱になってくる。そこで、袂の中の檸檬を思い出す。そして、画集を積み上げその頂上に檸檬を置くという第一のアイデアを実行する。画集の山は不吉な塊の原因とも言える丸善に代表される華やかで贅沢な美しさ象徴している。檸檬はすべての善いものすべての美しいもの象徴である。丸善vs檸檬。埃っぽい丸善の空気を檸檬が緊張させて、カーンと冴えかっている。丸善を檸檬が吸収した。檸檬の勝利である。
ところが、不意に第二のアイディアを思いつく。檸檬を爆弾に見立てて、画本の山に置いたまま丸善を出て、丸善が大爆発するのを想像するのだ。それは私をぎょっとさせた。せっかく不吉な塊を凌駕したのに、なぜ爆発させる必要があるのだろうか。第一のアイディアでは不十分だったのだろうか。ここで重要なのは、くすぐったい気持ちである。密かな楽しみのためにそわそわする気持ちである。第二のアイディアは第一のアイディアとは違う方向を目指すものである。諧謔心というか、不吉な塊がゾンビのようにむくむくと甦ってきたのである。このあたりは、伊藤整の『若い詩人の肖像』を読むことによって解読されるだろう。
展開
導入
1.教師が音読する。
2.導入問題と初発感想文を書かせる。
えたいの知れない不吉な塊について
1.私の心を始終おさえつけていたのは「えたいの知れない不吉な塊」であることを確認し、その正体を考える。
- 1)手掛かりになる言葉を確認する。
- ・焦燥、嫌悪、宿酔
- ★「〜といおうか」と断定できないでいる。
- ・肺尖カタル、神経衰弱、借金
- ★「いけないのではない」と否定しているが、認めたくないものほど強く否定することから考えると、これも原因のひとつに間違いない。
- 2)なぜ焦燥するのか、何を嫌悪しているのか、なぜ毎日酒を飲んでいるのか。それらと肺尖カタル、神経衰弱、借金はどのような関係にあるのかを問いかける。
- ・何かに焦燥し自己嫌悪に陥り、それを紛らすのに酒を飲むが、それでは何も解決せずますます焦燥は激しくなるのでというふうに悪循環に陥ってしまう。その結果、肺尖カタルになり神経衰弱になり借金も増えていく。
みすぼらしくて美しいものについて
2.そのころ私が強く引きつけられたものは「みすぼらしくて美しいもの」について
- 1)「みすぼらしい」と「美しい」が相反するもので、「みすぼらしくて美しいもの」は矛盾を含んだものであることを確認する。
- 2)例に挙げている場所が「壊れかかった街の裏通り」であることを確認し、どのようなところかイメージさせる。
- ・みすぼらしいけれど、どこか親しみがある。
- ★時間が得れば、イメージワークしてみると面白い。
- 3)なぜ、そのような場所が気に入ったのかを問いかける。
- ・華やかな表通りが京都とすれば、そこはまるで京都から遠く離れた異郷の地のようである。
- ・不吉な塊のある京都から脱出したような錯覚を起こそうとする。
- ・そこでゆっくり静養したい。
- ・現実から空間的に逃避である。
- 4)例に上げているものが「花火の安っぽい絵の具の模様」「おはじき」「南京玉」であることを確認する。
- ★実物を見せる。
- 5)なぜ、それらが好きであったのか、問いかける。
- a)花火が打ち上がった様子ではなく、花火の筒に書いてある絵であることを確認する。
- ・けばけばしく強烈な刺激である。
- b)見るのでなく、なめた味が好きであることを確認する。
- ・幼児のあまい記憶が大きくなって落魄した私に蘇ってくるから。
- ・現実からの時間的な逃避である。
- ★実際におはじきを口に入れてなめて見せると生徒の注意を引きつけられる。
3.「生活が蝕まれていなかった以前」私が好きだった所について説明する。
・場所で言えば丸善である。
・そこは高級雑貨を扱う当時としては知識人が行く店である。
・そこで、いっとういい鉛筆を一本買うという贅沢をしているうちに借金がかさみ、今では重苦しい場所になってしまった。
果物屋について
丸善跡(三条麸屋町) |
前丸善 |
現丸善 |

寺町通りと八百卯 |

八百卯 |
八百卯の檸檬 |
4.河原町界隈の地図を配布し、テキストを読みながら果物屋の場所を確認し、写真を見せる。
5.僕のお気に入りの、シブイ喫茶店を、写真を見せながら紹介する。
6.果物屋の特徴を説明する。
・黒い漆塗りの台の上にさまざまな色の果物が積まれている、色のコントラストの鮮やかな「果物屋固有の美しさ」。
・店頭の周囲だけが妙に暗く、廂が深いので一層暗く、店頭の電灯の光が美しい。そこだけが闇の中に浮き上がった美しさ。
檸檬について
7.実際に檸檬を手にして、その感想を聞く。
8.檸檬のどんな所が気に入ったのかを考える。
1)「いったい私はある檸檬が好きだ」という表現に注意する。
・「いったい」とは、そもそも、もともとという意味。改まって言う言い方でここでは異様に感じられるが、よほど感動しているのが分かる。
・『言語の感覚』で学習した「共鳴」である。私の振動数と檸檬の振動数が一致して感動した。
2)気に入った所を抜き出し整理する。
1)レモンイヱロウの単純な色
2)丈の詰まった紡錘形の恰好
3)冷たさ
4)匂い
5)重さ
3)その中で特にどこが気に入ったのか問いかける。
1)「単純」であること。えたいの知れない不吉な塊という複雑怪奇なものを解消するには単純なものが必要であった。
2)「丈の詰まった」こと。凝縮して中身が濃く充実している。
3)肺尖カタルで熱があったのでその冷たさは心地よかった。
・熱を自慢したのは、結核になることが一流の作家の条件であるかのように当時は思われていた。
4)肺尖カタルで深呼吸したことがなかったので、匂いを嗅ぐために新鮮な空気が身内に入る。また、カリフォルニアという遠い土地が想像でき、現実から逃避できる。
5)すべての善いもの美しいものを重量に換算したもののような感じ。
・形が手のひらにすっぽりおさまり、しかも見た目よりずっしり重いので、存在感がある。
4)檸檬による私の気持ちの変化を説明する。
・檸檬一個で、今まで私を悩ませ続けていた不吉な塊がいくらか弛んで、幸福になった。
・心の不可思議さ。
9.食べ物や形や色に関する心理テストをする。
1)好きな果物
・蜜柑、夏蜜柑、グレープフルーツ、林檎、メロン、葡萄、梨、パパイヤ、柿、バナナ、桃
2)嫌いな色
・グリーン、茶、紫、青、赤、オレンジ、白、黄色
3)色から連想する人
・赤(兄)、青(恋人)、白(憧れの人)、ピンク(友達)
4)形から連想する物
・丸(家庭環境)、三角(自分の将来)、四角(結婚)
檸檬vs丸善
10.丸善に入る前と後の気持ちを擬態語に注目してまとめる。
1)檸檬によって不吉な塊が弛んで幸福になった。
2)やすやすと入れるように思えた。
3)ずかずか入って行った。
4)幸福な感情はだんだん逃げていった。
5)憂鬱がたてこめてきた。
11.第一のアイディアについて

20年ほど前、若気の至りでこんな写真をとったら50点やると言ったら本当に多くの生徒が行った。 |
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- 1)「本の色彩をゴチャゴチャに積み上げて、この檸檬で試す」を読解する。
- ・「試す」とは、画本の上に檸檬を置く。
- ・「本を」積み上げるのでなく、「色彩」を積み上げる。檸檬は、単純な黄色。私は、色を意識している。
- ★板書するか、実演する。
- 2)その結果、画本の「ガチャガチャした色の諧調」を、単純な黄色の檸檬が吸収して「カーンと冴えかえっている」を読解する。
- ・擬態語に注目する。
- ・ここでも、色を意識している。
- 3)どんな意味があるのか、問いかける。
- ・画本(丸善)=以前私を引きつけたもの=えたいの知れない不吉な塊の原因
- ・檸檬=すべての善いもの美しいもの
- ↓
- ・えたいの知れない不吉な塊を檸檬が吸収した。
12.第二のアイディアについて
- 1)それは何かを質問する。
- ・「それをそのままにしておいて、外へ出る」だけでなく、その後に起こることを考える。
- ・檸檬が爆弾になって丸善を爆発させる、と想像すること。
- 2)その時の私の気持ちを表す部分を考える。
- 1)その奇妙なたくらみが私を「ぎょっとさせた」理由を質問する。
- ・自分でも意識しないで不意に起こったので驚いている。
- ・しかも、恐ろしい思いつきであった。
- 2)「くすぐすったい気持ち」とはどんな気持ちか質問する。
- ・心がワクワクしている。
- ・きまりがわるい。てれくさい。
- 3)「微笑ませた」理由を質問する。
- ・一種の満足感がある。
- 3)どんな意味があるのかを問いかける。(最大の課題)
- ・せっかく、檸檬で不吉な塊を吸収したはずなのに、なぜ爆発させる必要があるのか。
- ・建設的な想像から、破壊的な想像になったのはなぜか。
- ・あくまで、想像である。私にとっての「想像」の意味は何か。
13.結論を出さずに、第二のアイディアの意味を保留する。また、不吉な塊の正体と思われる、焦燥や嫌悪の原因も結論が出ていないことを確認する。
14.それら残された疑問を解く一つの鍵として、伊藤整の『若い詩人の肖像』を読むことを説明する。
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