風 葬 の 教 室

山  田  詠  美 

 鳥獣戯画という素敵な絵を社会科の教科書で見たことがあります。先生が黒板に私の名前を書いています。きしきしと音がして、私の名前は、もう既に、先生のはくぼくに踏みにじられました。指定された上履きを、まだ用意していなかったので、私は学校に来るお客さんが履くスリッパを履かされています。私は、本当はスリッパの中のばい菌が恐い。そればかりを気にして、下を向いて、足をもぞもぞとさせていると、先生は、幸福な思い違いをして、やさしく私の背筋を撫でてくれます。私は不思議な気持の良さが体じゅうを走るのを感じます。鳥肌がふつふつとたってきて、泣き声をあげなくてはと思い、ようやく前を向きます。教壇の上は、とても見はらしが良い。私は、新しいお友だちの顔をぼんやりと見下ろします。その時、私は、突然、耳が聞こえなくなります。皆、笑ったり、つつき合ったりしているのでしょう。口を誰もが、ぱくぱくと動かしていて、おなかをすかせた雛鳥のように見えます。
 五年三組の新しいお友だちです。本宮杏さんと、みんな仲良くしてあげてください。先生は私のことを皆にお願いします。本当は、先生は私に皆のことをお願いするべきではないのかな。私には、こんなに大勢の人々の中からお友だちを選べるのですから。けれど、皆には、そんな楽しみがないのです。私を受け入れるか拒否をするか、その二つの楽しみしかないのです。
 もとみやあん、もとみやあん。誰もが、唇を私の名前に形作っています。今にも大合唱が聞こえてきそう。けれど、私は、ぼんやりとそこに立ち尽くしているだけです。私は、この人たちを嫌っていないのだから、皆、私のことも嫌いにならないといいなあ、と漠然と考えています。私は、嫌われないことが一番好きです。それが、とても楽なことだと思うからです。私は、私と同じ年齢の子たちに好かれるのが、とても面倒臭い。でも、嫌われるのはもっと嫌です。学校の生活がうまく運ばなくなりますから。学校での生活は眠る時間より長いのです。私ぐらいの年齢の子にとっては、一番、時間をかけていることが人生です。病気の子はベッドの中がその人の人生なのでしょうが、健康な私は、学校を人生にするしかないのです。
 窓際の一番後ろに座ってちょうだいね、本宮さん。先生は、ポンと私の背中を叩きます。私は押し出されたシャボン玉のように、教壇を降りなくてはなりません。スリッパが脱げそうです。私は、足の親指を丸めて、それを防ぎながら床に降ります。弾みをつけて、教壇から飛び降りるのです。ぱん! と床は鳴ります。その途端に、私の耳は、よく聞こえるようになります。
 あんって変な名前だよね。かわいいじゃん。勉強できっかなあ。お友だちの声が一斉に私の耳に飛び込んで来るようになるのです。その瞬間、私は自分が、ああ、学校のものになった、と思い途方に暮れるのです。
 夏休みの間に私と私の家族はよその土地に引っ越します。父や母は何やかやと雑用に忙しくしていますが、それが私にまでまわってくることはありません。私は、この時、人生とは何の関係もない純粋な悦楽を味わう時間を持つことが出来るのです。私の夏休みは、何ものにも付属していません。ぽっかりと開いた空間です。私は、幸福です。前の学校の宿題もありません。新しい学校から、何をしておけと命令されることもありません。あの何の役にも立たない夏休みの図画工作に手を煩わせることもありません。
 私は蝉の声を聞いて毎日を過ごします。都会から田舎に引っ越した時は、とくに自分の体が敏感になっていくのを感じます。私は、ひとりで、野原などを歩きます。そうすると、あまりの暑さに目の前は暗くなる。草や木から、音もたてずに湯気が立ちのぼっているのを感じます。そうして、色々な緑が私を見詰めるのです。それらは、私を小さな者だと思っているようです。私は思わず立ちすくんでしまいます。蝉の声は私の汗をせかします。太陽は、たったひとつの黒い点である私の頭を焦がします。すべてが、ちっぽけな私に向かってくるように感じます。
 空を青いと決めたのは誰でしょう。じっとりとした草木が私に寄り添う中で、私の天井は真っ赤です。私は、自分よりも、まわりの動かない物たちの方が、はるかに生きていると感じます。私は自分を何もないように感じます。私は汗をかいていますが、それが一体何でしょう。草の汁の味の方が、ずっと強いのです。暑さの中で呆然とたたずむ私に影法師はありません。私の父や母や姉や家や成績も、もう、この世界にはないのです。じんわりと新しい汗は滲みます。新しいからと言ったって新鮮なわけでは決して、ない。私は、この時、明らかに草や木に殺されているのです。
 ふらふらと私は歩き続けて、溜池のはしに座り込んだり、橋の欄干にもたれかかったりしながら、ようやく自分を取り戻して、昼さがりの墓地を優雅に通り抜けて、家に戻ります。
 「まったく、もう! 自分の部屋は自分で片づけなさいよね」
 「駄目よ、ママ、この子は放浪癖あんのよ。私、杏が橋のむこうの林のあたり、ふらふらしてたの見たことあるもの」
 「あそこ、人さらい出るわよ。ひとりでうろついたら駄目よ」
 母や姉の無頓着さは、私を涙ぐませる程です。被女たちは、私が、つい先程まで、恐怖と恍惚とで記憶すら失ってしまっていたのを、まったく知らないのです。ああ、生き返った。私は溜息をつきます嗅ぐの配置や食事の心配で声を荒だてている母と姉を見て、私は安堵します。そして、ぐうたらだと姉にののしられながら、床に転がって、ごろりと昼寝をしてしまうのです。
 そんなふうに私は新学期までの日々を過ごします。私はつかの間の無邪気を楽しみながら、孤独を味わい尽くします。そして、時には、木や草の中を歩きまわり、すすきで足の皮膚を切り、唾を塗った血止め草で傷口に蓋をして、蝉の音色が変わるのに気付き、膝を抱えて秋が始まりつつあるのを嘆くのです。
 休み時間に、最初、遠まきに私を見ていたクラスの子たちは、その中の勇気あるひとりの質問に私が、何の恥かしさも見せずに答えるや否や、一斉に私を質問責めにしたのです。
 私は、それにひとつひとつ答えました。私は、彼らに自分に関する資料を与えてあげようと思う程に親切でした。皆、へえとか、ふうんとか声にならない声をあげていました。頬は赤く染まっていて、いかにも興奮しているようでした。その内、ひとりが言ったのです。
 「気取ってるよ」
 私は、その声の主をまっすぐに見詰めました。額に傷のある坊主頭の男の子でした。彼は私の視線にたじろいだ様子でした。
 「東京の言葉使ってるよ」
 ここの子供たちだって、はっきりと解るような方言を使っているわけではありません。ただ言葉に抑揚がないのです。それが、いかにも田舎臭かった。でも、私はそれを軽蔑したりするようなことは決してありません。ただし、素朴で暖かいなどと受け入れる気もありませんでした。言葉が人間の印象を決めるのだから用心しなくてはと思うだけでした。
 「転校ばかりしてたから仕様がないの」
 「大阪に行った?」
 「行ったわよ」
 皆、どっと、笑いました。そして、行ったわよ、行ったわよ、と、私の口真似をして、さもおかしそうに顔を見合わせるのでした。
 転校生を迎えた子供たちは団体行動が大好きです。私が、たったひとりで見知らぬ人間を受け入れている勇気など欠片も持たないのです。行ったわよ、行ったわよ。私は自分の強さに感心します。そして、まわりの子たちをなんだか可愛いと思い始めます。
 私が、自分と彼らとの違いを認識している間、彼らも全員で同じことをしているようです。私のスカートの丈やソックスの折り方などに女の子の視線が注がれているのを感じます。そんな時、彼らの視線は手をつなぐように絡み合って助け合っているように私には思えます。
 「スカートに縦にボタンが並んでるよ」
 「わあっ、格好いい」
 「髪の毛、ずっと伸ばしてるの?」
 「自分で編むの?」
 私は洋服のことばかり考えている姉と、少女趣味の母親のいいようにされていたので、いつも可愛らしい格好をしていました。それが女の子たちの関心の的になったようです。こんなことは大したことじゃないのに、と思いながらも、私は彼女たちを嬉しがらせてあげようと綺麗に編んだ髪の先を指で弄んでいました。私の小指の爪は姉に悪戯されて、赤いエナメルをほどこされているからです。
 「いけないんだよ、いけないんだよ、爪なんか塗ってちゃ、怒られるよお」
 「そうなの? じゃあ、明日から、とってくるね」
 私はそう言って笑いました。初日の大サービスです。女の子たちは溜息をつきました。これで、この教室では心地良く、当分の間は過ごせそうです。私は、そういうものに憧れる女の子たちの田舎臭さを一瞬にして読み取っていたのです。指の爪に嫉妬をすることなど思いもよらない彼女たちの純朴さに私は感謝していました。
 「女臭いよなあ」
 男の子たちは口々にそう言いました。けれど、私は、彼らがそれを決して嫌いではないのがよく解ります。
 「だって、私、女よ」
 私のその言葉に皆、一斉に大笑いしました。当り前のことに、どうして、こんなに笑えるのだろうと、私はきょとんとした表情を浮かべて見せました。けれど、私は本当は少しも驚いてなんかいませんでした。彼らのやることは、私には容易に予測がつくのです。彼らには、人生経験がたりないのです。転校生になったこともなければ、転校生を迎えた経験もあまりないのです。
 「おっ、可愛い女の子が入ったな」
 体育の先生が私を見るなり、そう言いました。女の子たちが一斉に騒ぎました。先生は陽に灼けた顔をほころばせて歯を見せました。
 「こら、女子、やきもちを妬くんじゃないよ」
 先生の言葉に女の子たちは、また叫び声をあげました。どうやら、この若い先生は女の子たちの間で人気があるようでした。男の子たちにも、まるで友だちのように接するこの先生は吉沢先生というのでした。男の子たちとふざけている時の先生は、やんちゃで、少し不真面目で、それが、とても素敵でした。私は、姿の良い先生だなあと思いました。授業を教えている時の先生は、恐いくらいに真剣で、教育熱心な姿勢を漂わせているのですが、休み時間になると、男の子たちと友だち同士のように遊んでいるのでした。若くて、格好が良くて、少し厳しいけれども、いつも子供たちのことを考えていて、その上、たびたび口にする冗談もおもしろい。こんな先生が女子にもてない訳がありません。私も、いいなあと思いました。けれど、こういう男の人は、うちの姉にはいちころでまいってしまうだろうと私は思いついて、おかしくてたまりませんでした。そういう種類の男の人でした。
 「そんな先公なんかお断わりよ」
 私が吉沢先生のことを姉に話すと、彼女は煙草を吸いながら、あっさりとそう言いました。
 「何ですか、その言い方は」
 台所で母の声が聞こえました。姉は、ふん、と鼻を鳴らしながら、本を読んでいました。姉は、まだ高校二年生でしたが、もう既に何でも知っているようでした。父も母も彼女を不良少女だと認めてしまい、それまでは争いごともあったようですが、皆、あきらめていました。彼女は、誰に反抗するでもない不良少女だったので父も母も好感を持ってしまったのかもしれません。私は、そんな姉が大好きでした。
 「あんた、もう学校、慣れたの?」
 姉が私にそう尋ねました。私は頷きました。この数日間で、クラスのお友だちが、私を受け入れたことを、感じていたのです。私は自分を主張するでもなく、変にものおじするでもなく、砂場の砂をかきわけるようにして、新しい教室に自分の居場所を作りました。誰も、私の大人びたアクセントを笑うこともなくなり、私の身綺麗な格好に感嘆することもなくなりました。私は、徐々に教室の部品として、上手く動くことが出来るようになり、周囲を軋ませることもありませんでした。そして、その退屈な平和が私の学校に対して望むものでした。
 学校の生活は、私を邪魔することがなかった。私は眠っている時のように、心地良く教室の隅に座っていました。私は毎日、とても気持が良かった。給食の時に薄い牛乳を飲まされる以外に私の嫌いな時間はありませんでした。私を縁側の猫のようにうつらうつらとさせてくれるもの。それらに対して、どうして不平など言えるでしょう。
 前の学校よりも遅れている授業。目に映るものだけに反応しているような素直なお友だち。私の午後、窓際の私の机にさすぬるま湯のような暖かい陽ざし。それは夏の野原のそれのように私を脅かしたりはしない。物欲しそうな、けれども決して卑しくはない瞳で、私の身につけているものを見詰める女の子たち。明らかにそれと解るようなつたないやり方で、好意を隠しながら私をからかう男子たち。
 その愛すべきものたちのひとつに先生の私への接し方があります。先生方は私を好きだった、というよりは私に好かれたがっていました。私を見て、ともすれば頬の緩みがちになる彼らは意識して、少しばかり厳しい態度を他の生徒の前で私に示しましたが、私は気にしませんでした。私は注意を受けると、素直な返事をして下を向きました。そして、先生にだけ解るように睫毛を少しばかり震わせるのです。私は少しも反省などしていませんでしたが、こうすることによって彼らの良心を刺激してあげたのです。良心の呵責というのはある意味で心地良いことだと知っていましたから。私は、いつも自分自身のままでいることを意識していましたが、時折り、こんなふうに人の心を楽しませてあげるのです。人を心地良くさせてあげることは自分も心地良くなることだ。私は、その法則を覚え始めたばかりだったので楽しくて練習をくり返していたのでした。
 さて、私を注意した後で、良心の呵責という甘い汁をちゅっと吸った先生方は、廊下でたったひとり歩いている私にすれ違ったりした時など、思い切り慈愛に満ちた表情を浮かべて見せるのでした。私は暗い気持から脱出する時に瞳をよぎるばねの存在を先生に知らせるべく天真爛漫な笑顔を浮かべて見せるのでした。姉にいつもぐうたらと呼ばれている私に、そんなばねなど持てる筈もありませんでしたが、私は、そうすることによって彼らに自己弁護のきっかけを与えてあげるのです。心の中で、先生というのも素朴なものだ、と感じていました。私の心をそんなふうにしてつかもうとする先生方よりも、耳の裏側に香水を塗って学校に行く私の姉の方が、はるかにプロフェッショナルのような気持がしました。彼女は、学校に行く時は、はすっぱな匂いの香水を使っていましたが、恋人とデートする時は、母が菓子作りに使うバニラエッセンスを代わりに使ったりするのです。こういう方が、男を夢中にさせたりするのよ。姉はこう言っていましたが、そう言って髪をかきあげる時の指の爪が甘ったるい匂いをふりまきながらも、計算ずくのように磨かれているのを、私は見つけて苦笑せずにはいられませんでした。
 私は人間には大人と子供という分け方があるのだといつも思います、それは、もちろん実際に年齢をとっているかどうかということとは関係がありません。あの人は子供、あの人は大人。私は自分にとって少し簡単すぎると思われる授業の時は、いつも人々を大人と子供に分けて遊んでいました。
 クラスのお友だちには子供が多い。そんなふうに思って教室を見まわし、時折り、私は大人を見つけて驚くのでした。斜め後ろに座っている男の子もそのひとりでした。
 アッコと呼ばれるその子は、本当の名前をあつひこというのだったと思います。私が、先生のお話を聞かずに視線をうろうろとさせていると、同じように心ここにあらずの調子のアッコと目が合ってしまいます。彼は、私の視線に決してうろたえずに唇を少しへの字に曲げて、上目遣いで挑戦的な表情を作って見せるのです。女の子、しかも私のような女の子を、おふざけを含ませることなくまっすぐに見つめることの出来る少年に、私はとても驚きました。




 私は、そんなふうに気持の良い人生を送っていました。まずまずだわ。私は秋から始まった新しい生活をやっと軌道に乗せたように感じて満足していました。けれど、子供に囲まれた私の居場所は、決してこのまま安定することはないだろうという不安に怯えてもいました。そして、事態は、私の恐れていた通りになっていくのです。
 原因は吉沢先生でした。彼が、私を好きなことは知っていました。彼の私を見る目や、私にかける言葉にかぶさる意図的な甘い覆いだけで充分に私は彼の自分への好意に気付くことが出来ました。私が、もっと積極的に、それに気付いているような振りをすればよかったのかもしれません。彼は私を好いていることを他のお友だちの前で、あからさまに表現し過ぎました。そして、それは私のもっとも恐れていることだったのです。
 私は彼が授業の最中に私を誉め過ぎるのを聞いて冷汗を流していました。何故、アッコのように振る舞うことが出来ないのでしょう。何故、自分の好意を私だけにではなく、他の人々にも認識させたいのでしょう。私の水のような人生が徐々に壊されていくのを感じます。
 最初に立ち上がったのは、学級委員をしている恵美子という女の子でした。その前に、もう既に、女子の間では、陰惨な空気が充分に流れて出口を見つけているような感じでした。私は、そのことに気付き始めると、体育の時間が苦痛になりました、けれど、見学をすることは、益々、吉沢先生の気を引くことだと解りきっていたので、私は隅の方で目立たないように準備運動をしたりしていたのです。
 ところが吉沢先生は、そんな私の心配をよそに、私の所にやって来て、分別のない態度に出るのです。それも、少しも嫌らしさのない、あの仕様のない「快活」という様式で、私に好意を示すのです。
 快活な若い先生を子供たちが嫌える筈がありません。私は吉沢先生をずるいと思いました。女子のいき所のない嫌悪は、私に向けられるしかないではありませんか。他人の迷惑を考えない人の好さには、対処の仕様がないではありませんか。
 「いい気になっちゃってさ」
 例によって、男子が私の髪を引っぱっている最中に、恵美子はそう言いました。男の子は、はっとしたように私の髪を離しました。彼女の言葉は、この教室で私に向けられた最初の反逆の言葉だったのです。
 この瞬間、私の髪のりボンや赤いスカートや真っ白なソックスなどは、人々の憧れの対象ではなくなりました。その内に、自分の薄茶の長い髪や、濃い睫毛や、細いけれども、彼らの嫌悪の原因になることは目に見えている、と私は直感しました。そして、それが進んで、私の吐き出す言葉やそれをくるんでいる空気もそうなっていくだろうとも予想出来ました。困った事態になりつつある。私はひそかに震えました。
 恵美子が、とりわけ吉沢先生を好きなことを私は、最初から見抜いていました。彼女は、先生を怒らせない程度に口ごたえをして、彼の気を引き、彼の目が自分の方に向けられてから初めて好意をあらわにする、という態度をとっていました。私は、それを見ていてなかなか、上手いやり方をする、と感心していました。けれど、それでは彼のような男の気を引くことは出来ません。
 恵美子は、自分を主張することがとても上手な子でした。私とは正反対の姿勢をいつも崩しませんでした。おまけに、とても成績がいい。いつも、クラスのお友だちの気持を引きつけて離さない子でした。私に、最初に親切にしてくれたのも彼女です。転校生に親切にするという、誰も逆らうことの出来ない美徳を恥かしげもなくやってのけるような子でした。私は彼女を決して好きにはなりませんでしたが、感謝していたのは事実です。こういう子がひとりいると、私のような子は生き易くなりますもの。
 けれど、反面、野暮な彼女を馬鹿にしていたふしもあります。先生の質問に、腕をまっすぐに伸ばして、しかもその腕を耳にぴたりとくっつけて手を上げて見せる彼女。私は何故あんなことをためらいもせず、やってのけられるのかと、あきれていました。
 そんな恵美子が決定したことです。皆が、私を仲間はずれにするのに、たいして時間はかかりませんでした。いい気になっちゃってさ。それが彼女の最初の「泣き声」でした。
 翌日、学校に行くと、私は自分のまわりの空気が急に膨張して、私の居場所をせばめていることを肌で感じました。おそらく私は平穏な人生から見捨てられつつあるのでしょう。お友だちは誰も私に、おはようと声をかけてくれません。私は、平静を装って席に着きました。けれど、心の中は不安でいっぱいです。子供のすることは予測がつかないからです。
 ひとりの男の子が私の側を通り過ぎざまにくっせえ、と言いました。私は、その男の子の顔を驚いて見詰めました。昨日まで、私の髪を引っばっていた子です。
 「女くせえんだよ」
 私は何も言わずに、教科書を開いて授業の準備をしていました。すると、かわるがわる男の子たちが私の側に寄ってきて、鼻をつまんで手をひらひらとさせ、嫌なものを追い払う仕草をするのです、私はむっとして、最初に彼らを、そしてその次に恵美子をにらみました。女の子たちが恵美子のまわりで、くすくすと笑っています。男の子は何をしても大丈夫という自信をみなぎらせて、私の席の横を行ったり来たりします。彼らは、自分たちが恵美子の視線に守られているのを知っているのです。私は、女によって保護されている男のだらしなさを見たような気がしました。
 とうとう私は我慢が出来なくなり、懲りずにやってきたひとりの男の子に言ったのです。
 「あんたの方が余程、くさいわよ」
 男の子は顔を真っ赤にして一瞬、立ち止まりました。私は自分が失策を犯してしまったことに気付きました。その男の子の家は魚屋さんだつたのです。私は、悪気のあるおふざけが険悪なものに変わっていくのを感じました。女の子たちも、笑うのを止めています。皆の心の中にある嫌悪の詰まった箱の蓋が、ぱちん、ぱちんと開いていくのが解ります。私は自分自身で導火線に火をつけてしまったのでした。
 悪いことは重なるもので、その日は三時間目に体育の授業がありました。私はそれまでにおなかが痛くならないだろうか、と強く望んだのですが駄目でした。それに、保健室などで休んでいたら、吉沢先生が心配して様子を見に来るに決まっています。
 私は、観念して体操着に着替え始めました。
 思った通り、体育の授業は悲惨でした。
 「お、杏のリボンは今日も可愛いなあ」
 私は、吉沢先生に飛びかかって、口を塞ぎたい気持でした。状況を把握出来ない子供は本当に困ります。ひいき、ひいき、と、私にだけ聞こえるように、両隣りの子たちが囁きます。私は、別に吉沢先生に特別な感情を持っているわけではないのです。好きでもない男に好かれて困っているのです。誰か助けて、と叫び出したい気分でした。
 「じゃあ、誰でもいいから二人組になって柔軟体操!」
 吉沢先生の呑気な声が響きます。皆、素早い動作で相手をつかまえ、二人組になりました。その敏捷過ぎる動作が何を意味しているのか私には、すぐに解ります。相手をみつけられずに、もじもじと立ち尽くしているのは私ひとりなのでした。誰もが、私のその姿を見たくて、いつもより熱心に先生の言うことに従っていたのです。私は、ひとりきりで地面にしゃがみ込み柔軟運動を始めました。
 庭の土が時折り吹く風で舞い上がります。砂ぼこりが目の中に飛び込んできて痛い。私は体じゅうの力が脱けたような気持になります。なんだか、疲れてしまう。
 「本宮、おまえ、ひとりでやってんのか」
 その快活な声が、私を飛び上がらせます。吉沢先生は、黙っている私の所に来て、私の背中を頼んでもいないのに押すのです。お願いだから止めてください。私は、そう叫びそうになるのを必死にこらえていました。女子たちが嫉妬を私に向かって投げつけてくるのを感じます。それは、どろまんじゅうのように、私にぶつかると、どろりと溶けて体にはり付くのです。
 私は本当にやる気を失くしていました。吉沢先生が背中合わせに私の腕を組み、私の背筋を伸ばした時など、皆の好奇の目にさらされながら、男に犯されるというのはこんなものかしらとあきらめつつ感じていた程です。
 やっと先生の背中から解放された私は、アッコの姿を捜しました。それこそ必死の思いでした。彼はいました。困った表情を浮かべていました。それは、女の子を守ってあげられなかった自分に困っているというような感じでした。私は、彼に無理に笑って見せました。けれど、彼は私の笑顔に引きずられることもなく、本当に困っているのでした。




 それにしても、今さらのように感じるのは恵美子の吉沢先生への執着心です。彼女の先生へのその思いが、今やクラス全員を動かしているのです。彼女が先生を好きなことを誰もが知っているのです。そして、同じように先生に憧れている女の子たちも、恵美子なら許せるのです。そして、私では許せないのです。私が身綺麗で可愛いから。きちんとしたアクセントで言葉を喋るから。そんなふうに私は自信を持つことなど出来ません。だって、私は知っているのです。彼女たちは漠然とした危機感を持っているのです。私が吉沢先生を自分のものにしてしまったら、彼女たち全員の存在価値が崩れてしまうのです。恵美子なら大丈夫。けれど、杏では駄目。動物的な勘を彼女たちは働かせているに違いありません。そして、男の子たちもそれに便乗して、小さくて愛らしいものや気を引かれるものを手で握りつぶしたり、滅茶苦茶にしてやりたいという欲望を満たそうとしているのです。
 私は自分が生贄になりつつあるのを感じています。これこそ、私が危惧していたことなのです。水のような人生。私はそれだけを望んでいたのに。教室には、いつもある種の宗教がはびこる。私は、何度もくり返してきた転校の中で、それを実感していました。私は不良になれる姉の年齢を、羨しく思います。私は歯がゆい思いをして、学校に通わなくてはならないでしょう。登校拒否をするには、私の家族は大人でありすぎるのですから。
 誰もが、何故、私をのけ者にし、ただ教室に座っているだけの私に不快感を与えようとするのか、本当のところ、解ってなどいないのです。ただ痒いような気がする。皆が感じていたのは、これだけだと思います。そして、それを誰かが引っ掻く。すると、本当の痒さか生まれる。だから、また引っ掻く。すると、もうたまらなくなって一斉に爪を立てる。もう爪たちは掻かなくてはいけないという強迫観念に駆り立てられ、わけも解らずに、ただただ憑かれたように指を動かさざるを得なくなるのです。
 掻きむしられた私に最初に出来ることは、平静を装うことです。私は、持ち前の(   )を精一杯使って平静を装うことに努力しました。泣いてみせた方が本当はよかったのでしょう。けれど、私にはそれが出来なかった。
 私は、何事もなかったように普通の顔をしていました。それが、皆に、まだまだやれるというような目安になってしまったようです。本当は、皮膚一枚を剥がされれば、泣き声の塊である私のことなど、誰も気がつかなかったのです。気がつくべきである先生方ですら。もっとも、私は、そんなごたいそうなものを子供である先生方に期待してはいませんでしたから、失望もしませんでしたが。
 けれど、世の中の子供たちの親である人々が思う先生という存在が、どれ程、場合によって姿をちょくちょくと変える頼りないものであるかは、誰も知らないのではないかと思います。
 子供たちに指導をするという先生の役割。それをいったい誰が彼らに与えたのでしょう。彼らが教え子を変えていくことは出来ます。子供たちは無責任であるから、自分たちでさまざまな決定をするよりは先生にそれをゆだねる方を選びがちです。その方が、楽ですもの。それを先生の教えという美しい言葉で飾るには、子供たちは、あまりにも利口です。利口というより、やり口をわきまえていると言った方がよいかもしれません。そういう子供たちの本当の姿を知らずに、先生の教えという聖書を信じているのは当の先生方と一部の御両親だけだろうと私には思われます。もちろん、どこかには真の大人である先生も存在しているのかもしれませんが、転校の多い私ですら、まだ出会ったことはありません。
 私が、こんな生意気を言うのも、教室に充満する痒みの錯覚が、先生にもうつっていくものだというのに気づいてしまったからです。
 私たちの担任の先生は女性でした。時折り、ヒステリーを起こして、怒鳴りちらすという欠点はあるにせよ、あまり存在感がないために誰にも嫌われていないというタイプの女性でした。私にも、転校生に対して、どの先生もが普通に見せるような思いやりを示してくれる、言ってみれば、邪魔にならない人でした。私のことを好きでも嫌いでもなかったと思います。と、言うより、生徒の中に好きな子を見つける程、熱心に仕事をしているという雰囲気ではありませんでした。そういう先生には、とりわけ嫌いな子供もいなかったという訳です。
 ところが、この先生が、いけないことに、教室内での私の立場を徐々に感じ取っていってしまったのです。彼女の元に、子供の作る私への嫌悪の波が寄せていってしまったのです。子供たちに迎合した方が楽であることを悟っている彼女はどうしたか。やはり、楽な道を選びました。つまり、事あるごとに私を叱り始めたのです。
 その叱るというのは、もちろん、悪いことをした私をたしなめるためではありませんでした。私に小言を言うことを習慣化させようとする意図によるものでした。そして、それが本当に習慣になってしまった時、彼女は、私にも心があるということをすっかり忘れました。本宮さん。彼女が私の名前を呼ぶ時、私は両耳をつかまれて、高高と持ち上げられた可哀想なうさぎです。その後に、彼女は、必ず私を否定する言葉を口にするのです。そうすることは、教室での彼女の立場を快適なものにするのでした。彼女を憎むことは、私には出来ません。私が水のような人生を望んだのと同じように、彼女も波に逆らわない安楽な生活を望んだのですから。
 (  )。それは、人から感情を抜くものだと思います。そして、私の体はだるくなります。私は頬杖をつくことを覚えました。私の心は、いつもしゃがみ込んだままです。立ち上がるのが億劫です。私には、黒い幕を下ろして何も見ないようにするだけで精一杯です。




 ある日、女子たちが恵美子の席に集まって何やら騒いでいました。私が、側を通り過ぎると、あからさまに彼女の机をとり囲んで隠すのです。どうやら、彼女たちは、恵美子が、吉沢先生に手紙を書くのを手伝っているようでした。私は、ご苦労なことだなあと思っただけでした。あの鈍感な先生に、いくらロマンティックな手紙を出したって通じるものですか。それに、子供特有の傲慢さを剥き出しにした恵美子に彼が心を動かされる筈がないと思います。彼女には、あの手の男の人の気をそそるようなものなど、何もないのです。私にはあると思います。細い首や噛み締め続けたために赤く染まった唇など、自分が強いと思っている男の人の心をつかんでしまう頼りなさがあります。本当は、私は、やがて姉のような不良になるだろう運命を背負っているのですが、単純な子供には解らないらしいのです。
 私は通り過ぎる時に、そんなことを考えていたので、くすりと笑ってしまったのかもしれません。恵美子と一番仲の良い女の子が、私のおさげを引っぱりました。
 「あんたねえ、いい気になるのもいい加滅にしなよ」
 「なってないもん」
 「笑ったでしょ。今、恵美ちゃんのこと笑ったでしょ」
 私は困ってしまい黙っていました。本当は、私自身のことを考えて笑ったのですが、笑ったことには変わりはありません。
 「吉沢先生には好かれてるかもしれないけどさ、私ら、あんたのこと大嫌いだからね」
 「悪いけど、私ら、全員、あんたのこと嫌いだからさ」
 別に悪くありません。私には、吉沢先生に好かれることも、彼女たちに嫌われることも、重大事ではないのです。私は、そのことによって、自分の生活が乱されることだけが恐いのです。あの不気味な宗教に巻き込まれることだけを惧れているのです。私が欲しいものは、吉沢先生にも、彼女たちにもないのです。
 「言っとくけど、吉沢先生は恵美子が最初に好きになったんだから、でしゃばらないでよね」
 あきれました。このいかにも田舎臭い少女たちは、人が人に魅かれるのに順番があると思っているのです。ひとりの女の手のブラウスからは黄ばんだメリヤスの下着がのぞいています。こんな女の子に、魅かれる男がいたら、お目にかかりたい。私の姉なら、そう言うことでしょう。私は、少し同情すらしました。
 恵美子が涙をこぼし始めました。この女の子ときたら、どうしてこんなに都合良く泣くことが出来るのでしょう。彼女は、何が悲しいのでもありません。ただ、私を悪者にしたいためだけに泣くのです。私は、うんざりしました。もしも、私が男だったら、決して、こんな女の子を好きにはならないでしょう。
 「あーあ、恵美ちゃん泣いちゃった」
 「可哀想だよね」
 「その目付きが気にくわないんだよ」
 そう言った女の子が私をつき飛ばしました。私は尻もちをついたまま、またもや始まった儀式を絶望して受け止めていました。
 「大嫌い」
 「男ったらし」
 「あんたなんか死んだ方がいいんだよ」
 「前の学校に帰ればいいんだ」
 もしも、彼女たちが年齢を取った時、これらの言葉を覚えているでしょうか。いいえ、そんなことはないと思います。覚えていたら、恥かしさに生きてはいけないでしょう。もしも、恥を知った大人に成長出来ればの話ですが。
 別の女の子が私の足を蹴りました。もうひとりの女の子が私の髪を引っぱりました。私は叫び声を上げることもしませんでした。ただ、私の体には触れて欲しくないと、そればかりを思っていました。
 死んじまえ。
 死んじまえ。
 死んじまえ。
 皆、口々に叫んで、私を蹴りました。この人たちは、私が死ぬことを願っているのかなあ、と私は、漠然と感じていました。
 「こらあ! 何してる」
 教室に慌てて飛び込んで来たのは、あろうことか吉沢先生でした。彼は、あせって私を抱き起こし、服の埃を払うと、怒りで声を震わせながら怒鳴りました。
 「おまえら、自分たちが何をしているのか解ってんのか!」
 もちろん、解っていますとも。私は心の中で、そう呟きました。あなたの生徒たちはあなたを理由にして、私を殺そうとしていたんです。それは決して大袈裟ではありません。あの死んじまえという叫びが、教室じゅうに伝言ゲームのように広がったら、私は混乱の内に殺されていたでしょう。本物の殺気を感じていたから、私は抵抗しなかったのです。
 「恵美子、お前、学級委員のくせに何やってんだ。おれは許さんからな!」
 本当に何も解っていない人です。彼のこの言葉が私を救うことになる筈がないのに、何故気がつかないのでしょう。私は、情けなくなってしゃくり上げました。私が泣き出したのを見ると、吉沢先生は私のリボンを拾い、肩を抱いて、私を保健室に連れて行こうとしました。私は怪我らしい怪我はしていませんでしたが、顔にまで上履きの跡が付いていて、ひとまず、どこかにいって休まないと授業が受けられない状態だったのです。私は吉沢先生に連れ去られました。後に残された子たちの顔を振り返って見る勇気はありませんでした。私は、彼らを恐れていた訳ではありませんが、彼らに取りついた狂気が、私をどんなふうに扱うかを予想するのが恐かった。そして、その狂気の張りついた獣のような瞳が並ぶのを正視する勇気がなかったのです。
 人間が獣の瞳を持った時、そこには道徳も、常識も、感情すら存在しなくなることをどれだけの人が知っているでしょうか。そこにあるのは習性だけです、そして、その習性をまっとうさせるために湧き起こる欲望だけです。私は不本意でしたが、吉沢先生に肩を抱かれて教室を出るしかありませんでした。
 恵美子を始めとする女の子たちが私を見詰めているのを感じます。その視線は、あまりにもぎらぎらとしているので、私の背中に油膜のように張りつく程です。それは、ここから逃げ出さなければ、体じゅうをくるんで、私の皮膚呼吸を止めるでしょう。そんなの嫌です。私は息をしていたい。
 吉沢先生は本気で私を心配しているようでした。この人には、いつも悪気はないのです。けれど、いくら、悪気がないからといって、彼は私の選んだ男の人ではない。私は、彼の大きな手が自分の一層に必要以上にくい込んでくるたびに、むずかる赤ん坊のように体を揺らしました。
 「負けるんじゃないぞ。先生だけは味方だからな」
 吉沢先生は、こう言って私を励ましました。私は、なんだか悲しくなって、再びしゃくり上げ始めました。先生は自分の言葉に私が安堵したのだと思ったのでしょう。思いやりを込めたやさしい手付きで私の背中をさすり続けていました。
 保健室で、私は体操着に着替えてベッドに横たわっていました。吉沢先生は保健の先生によくよく色々なことを頼んだらしく、私は、病気でもなく怪我もしていないというのに薬を飲まされ、埃にまみれた洋服、ついでに、靴の跡の付いたスリップまで脱がされ、無理矢理、寝かされたのでした。
 私は、消毒液の匂いの漂う静かな部屋で色々なことを考えていました。何だか、自分を取り巻くすべてのことが馬鹿馬鹿しかった。世の中は、何故、こんなにも愚かしいことで成り立っているのだろうと考えると、おかしくもないのに微笑みが洩れるのでした。私は、子供の世界に合わないのじゃないかなあ、などとも思えてきました。すると、年齢によって住む世界を決められてしまうのは、ひどい差別のような気がしてきます。保健室で、具合も悪くないのに横になる。私に、こんな陳腐なことをさせるのは、どこの誰なのでしょう。私には、誰に、そんなことをさせる権利があるのか解らない。踏みにじられてしまったリボン。あんな可愛いものが何故、憎しみの対象になってしまうのでしょう。私は、リボンのことを思うと泣けてきてしまいます。ああ、人生って疲れます。こんな毎日が人生を形造ってしまうのなら、私にはいらないような気がします。本当に、私、疲れているみたい。清潔なベッドが私を眠りに誘います。寝ている間に消毒液の匂いがすべてを消してくれると良いのですが。




 ママ、パパ、おねえちゃん。
 先立つ不幸をお許し下さい。
 杏は、人生には似合わない子です。
 私は、その夜、勉強机に座って、ここまで書きました。二行目の「先立つ不幸」という意味は、よく解りませんが、死ぬ時は誰もが、こう書くのだという知識ぐらいは、私にもあります。そして、その次のひと言は、とても、決まった、と私は感じました。私は、そこまで書いて、休憩して、死ぬ方法をあれこれと思案しました。毒なんてものは、家のどこを捜してもありません。私は臆病だから、ナイフで刺すというのも出来そうにありません。それに血が出たら、母が部屋を掃除するのが大変です。息をしないでいようかとも思うのですが、私の意志は体に対して、あまりにも親切です。苦しかったら、すぐに息をしてしまうでしょう。やっぱり首を吊るのが一番だ。後で、下に降りて、縄を捜してこなきゃなあ、と思いました。でも、縄なんて、私の家にあるのかしら。父のネクタイを使うと、後で叱られそうだし、そこまで考えて、私はくすりと笑ってしまいました。死んでしまったら父に叱られようが、どうしようが、こっちのものだということに気がついたのです。とにかく、そのことは後まわしにして、遺書を書き上げることが先決です。
 私が死ぬからには、誰かが損をしなくてはなりません。原因不明で自殺するなんて、まっぴらです。誰かのせいで死んだことにならなければ、私が浮かばれないではありませんか。私は、恵美子の名前は絶対に抜かすことは出来ないと思いました。でも、私をいじめたのは、彼女ひとりではありません。クラスの女の子全員。でも、そう書いてしまうと、衝撃度が薄れるような気がします。女子全員の名前を書く。私は、別な紙に、そうメモしました。男子全員も。私は、メモにそう書き加えました。ただし、アッコを除く。
 それから、彼らが私に対して、どういう行いをしたかも、書かなくてはいけません、これを書かないと、世間をあっと言わせることが出来ません。どういうふうに私をいじめたかを書く。メモに、また付け加えました。その理由は。私は、困りました。吉沢先生のことを書かなくてはなりません。すると、吉沢先生が、悪の根源のようになってしまいます。あの快活な好い人が、世間にそう思われるのは、しのびないなあ、と私は思いました。だって、彼は、いつだって無意識なのですから。
 理由なし。私は、また付け加えました。悪気のない人つて、なんて得な性格なのだろう。私は、吉沢先生の白い歯を思い浮かべました。世渡りがうまいんだわ。私は呟いて、先に進むことにしました。
 一番、私が望むのは、私が死んだ後で、恵美子を初めとするクラス全員が、後悔を引きずって生きていくことです。私が得ることの出来なかった平穏な人生を彼らに与えてたまるものですか。眠っていても、必ず悪夢で目が覚める。そういう状態に追いやらなくてはなりません。一生、恨んでやると終わりに書くこと。私は、またもや、メモしたのですが、考えてみたら、この遺書が読まれる時には、私の一生は終わっているのですから、文脈がおかしいことになります。あなたたちは、一生たたられるだろう、と書く。私は、思わず吹き出してしまいました。これでは、怪奇映画ではありませんか。死んだ後も、あなたたちを許さないでしょう。これが妥当でしょう。
 誰かに決して許されることなく一生を終える。これ程、恐しいことが世の中にあるだろうか、と私は考えます。私は、私が死んだことを知った時の恵美子を、想像してみます。万が一彼女が、そら涙を流して泣き女に変身する場合も考えて、先手を打たなくてはなりません。泣いてすむと思わないでください、と書く。
 ここまで、メモしてきて、何だか、私は疲れてしまいました。アッコの姿をふと思い浮かべます。彼は私が死んだら、きっと泣くでしょう。泣き女の一群には決して加わらずに、もしかしたら涙すら流さずに泣くかもしれません。私をとうとう助けることが出来なかったと、後悔をしながら成長していくのです。傷ついた大人。私は、将来の彼の姿を見たいような気持になり、慌てて首を横に振りました。
 本当は、私だって、こんなに短い一生を終えるのは嫌なのです。だけど、仕様がない。私は、あの教室のために死ぬのです。あの人たちの宗教を否定するために命を絶つのです。あの子たちは、私を否定した。私に死刑囚の真似事までさせて辱しめた。
 だから、私は彼らに一生かかっても拭いさることの出来ない恥を残したいのです。もしかしたら、馬鹿げていると思われるかもしれません。死ぬ気になれば何だって出来るという人もいるかもしれません。でも、私の目の前に、死ぬ気になって出来ることなど何ひとつないのです。死んでしまった方がやりとげられることだってあるのです。
 どうにかこうにか、私は、遺書を書くための準備メモだけを書き終えました。これで、粗筋は完璧です。あとは、間違いのないように文を考え、綺麗な字で最初の三行に続けていけばいいわけです。私は、下に降りて縄の代わりになるような物を見つけてこようと思いました。
 階段を降りて、台所にいくと、隣りの居間では、姉と母がお酒を飲みながら、話をしているようでした。私は物音を立てないように、流しの下の戸棚を開けて、首を吊れそうなものを物色していました。二人のお喋りが聞こえてきます。私は、この声を聞くのも、今日が最後かと思うと、なんだか感慨深い気がしていました。
 「杏は、もう寝たのかしら」
 「あいつ、最近、落ち込んでんだよね。クラスの連中がいじめるらしくってさ」
 「まあ、くだらない」
 「くだらないでしょ。ガキ連中がさ」
 私は流しの下にしゃがみ込んだまま、動けなくなりました。無頓着にもほどがある、と私は思いました。居間に飛び込んで、私の今の心情を告白したいと思ったのですが、じっとこらえました。二人の話は、まだ続いているのです。
 「あなたも小さい頃、よくいじめられたわねえ」
 「そう、そう、笑っちゃうわよ。でも、私は、全然平気だったわ。いじめっ子連中をひとりひとり殺していったもの」
 「ま、物騒な」
 「まさか、本当に殺しゃしないわよ。自分の心ん中で殺していったのよ。ひとり死に、二人死に、全員が死んだ時には、私、クラスの人気者になってたわね。だいたいねえ、いじめるなんて品格のない人間の考えることよ。世の中、ちゃんと悪は滅びるように出来てんだからさ」
 「高校生が、お酒飲んで煙草吸ってセックスするのは悪じゃないわけ?」
 「そりゃ、世の中の道理ってもんよ、ママ」
 「杏は大丈夫かしら」
 「明日あたり、シュークリームでも焼いてあげれば?」
 「そうね。カスタードと生クりームどっちがいいかしら」
 「あんころもちはカスタードが好きだけど、両方混ぜてよ。ママのは絶品だからどっちもいいわ」
 「おおい、いい加減にもう寝なさい」
 寝室からの父の声に飛び上がらんばかりに驚いた私は、音をたてないように部屋に逃げ帰りました。心臓が、どきどきと伸び縮みしています。机の上には書きかけの遺書があります。私が死ぬ決心をしているちょうど同じ時に、母と姉は、私のためにシュークリームを焼く相談をしているのです。愛情というのは、私とは別の所で動いているのです。私は泣きそうになりました。もしも、明日、シュークリームを焼いた時に、私がいなかったら、あの人たちはどうするのでしょう。
 死ぬという重大な決意をしている私には何の関係もなく彼らの日常生活は流れて行くのです。そして、その日常には私も組み込まれているのです。私は愕然としました。そこから、私が、ある日、突然欠けてしまったら。そうしたら、彼らの日常生活は成り立たないのです。誰かが日常生活を故意に乱すこと。それは、まるで、クラスのお友だちが私にしてきたことと同じではありませんか。私は、家族に対して、その最も嫌悪すべきことを行おうとしているのです。
 私はベッドに腰かけて、しばらく呆然としていました。これじゃあ、死ねない。私は呟きました。私は、自分が死ぬことによって、何人の人間が日常生活を送れなくなるのかを数えてみました。父、母、姉、それに杏をとりわけ可愛がっている父の実家のおばあちゃん。杏のベッドにもぐり込もうとする猫のジジ。
 正直に言って、私は自分が死ぬことなど少しも恐くない。けれども、後に残された人々のことを考えると恐怖で体が震えます。私は、その時、生まれて初めて(  )という言葉を噛みしめました。私は自らの手で自分を消してしまおうと決意した時に、(  )という足枷の存在に気づいてしまったのです。私は、ただの一個の人間ではなかったのです。目に見えない足枷によって身動きのとれない幸福な奴隷だったのです。
 私は泣きました。涙がいくらでも溢れてくるのでした。死ぬと決心したその時よりも、生きなくてはいけないのだと気づいた時の方が人を泣かせるだなんて。私は不思議に思いながらも泣き続けました。それは段々と心の中の色々なものが溶けていくような泣き方なのでした。世の中の悲しいものが流れていくようなそんな頼りない涙が私の目に湧いてくるのです。私に何も解らなくさせよう。そんな意図を持っているかのように涙は後から後から湧き上がってくるのです。それらは、やがて私の上下の瞼をはり合わせて、私を眠りの中に誘い込もうとするでしょう。あらゆる所に誘惑は存在します。眠ってはいけない。私は、何度もそう思いましたが、甘い悲しみに打ち勝つことは、とうとう出来ませんでした。




 翌朝、私は、すっかり生きる気力を失くしたまま、目を脹らして登校しました。書きかけの遺書は誰にも見られないように机の引き出しに入れて鍵をかけておきました。
 体全体が、とても重たかった。昨夜のひどい疲れのために、教室すら小さく見えてしまったくらいです。男の子たちが寄ってきて、うんこ、うんこ、と私をはやし立てましたが、私は彼らにうつろな視線を送ることしか出来ませんでした。恵美子たちは、私を見て相変わらず、ひそひそ話をしていましたが、私はそれを気にする気力も失っていました。私が、あのような一夜を過ごしたことも彼女たちには何の関係もないことなのだなあと、うすら寂しい気持で、授業の準備をし始めていただけでした。
 担任の先生は、出張でお休みでした。代わりに、別な男の先生が一時間目の理科の授業を受け持つということでした。
 授業も三十分以上過ぎた頃でしょうか。私は、ふと我に返りました。いつもと違う先生の授業に教室じゅうが沸きたっているようです。どうやら、彼は、始終、愉快なことを言って、皆を笑わせているようです。私も暇だったので彼の話に耳を貨すことにしました。
 「蚊はなあ、だから、皮膚から出される二酸化炭素めがけてやって来るんだぞ。皮膚も口と同じように息を吸ったり吐いたりしてるんだ。だから、二酸化炭素を沢山吐き出している奴は蚊に刺されやすいんだ、ほら、先生の手を見てみろ。虫刺されだらけだろ。お酒や煙草ばっかやってるからだ」
 「先生、可哀想!」
 誰かが言って、皆、どっと笑いました。馬鹿馬鹿しい。私はひとり鼻白んでいました。姉なんか煙草もお酒も、どんどんたしなんでいるけど、蚊に刺された跡など、どこにもありません。ところが、先生の次に続けた言葉が私を釘付けにしました。
 「何が可哀相なもんか。先生は蚊に刺されるのが楽しくてたまらん。だから、お酒も煙草も止めないんだ。いいか、蚊がぶうんと来て、先生の腕に止まるだろ。普通の人だったら、そこで、ぴしゃりと叩いて蚊をつぶしちまう。だけど、先生は、自分に止まった蚊をそれからじっと観察してるんだ。蚊はいい気になって気持良さそうに血を吸ってるんだ。見てると、蚊の腹が、どんどん赤く染まって膨れていくのが良く解るよ。腹がぼんぼんに張ると、蚊は、ふらふらと先生の腕から離れて行くんだ。だけど、腹いっぱいだから、満足に飛べない。そこを一気にぱしんと叩きつぶすのさ。ちょっとばっかり剌されたって、長いこと刺されていたって痒いのには代わりないんだからな。それなら殺し易い方を選ぶべきさ」
 「やだあ、先生って残酷う」
 皆、笑いました。私は身動きすら出来ずに、先生を凝視していました。私は、昨夜の姉の言葉を反芻しながら、先生の言ったことと重ね合わせていました。全然平気だったわ。いじめっ子をひとりひとり殺していったもの。
 私の頭は、がんがんと鳴り続けていました。心の中に立ち込めていた霧が急速に晴れてゆくのを感じます。何故、こんなことに気づかなかったのでしょう。昨夜の私は、余程、動転していたと見えます。何も自分が死ぬことはないではありませんか。もう一度、姉の言葉が甦ります。まさか、本当に殺しゃしないわよ。自分の心ん中で殺していったのよ。
 私は、目頭が熱くなるのを覚えました。涙を湧かせることに昨夜以来、慣れ切った私の瞳は、その時も、それをしようと私の瞼を絞り上げましたが、私は必死でこらえました。かすかに滲むものは、同じ液体でありながら、昨夜のものとは、明らかに、違うのでした。
 気持良さそうに血を吸った後の蚊をつぶすことを想像してみます。私は教室を見渡しました。あ、あ、あ。こらえ切れない笑みが口許を緩ませるのを止めることが出来ません。血を吸うのは気持良い。そして私は、その気持良さをつぶして、もう一段上の快楽を手にすることも出来るのです。これは、もしかしたら、すごいことなのではないかと思うと、私は、自分自身の大それた思いつきに、衝撃を受けていました。震える肩を悟られないようにと膝に握りこぶしを押し付けて下を向いていました。のびのびと投げ出されたアッコの足が見えます。彼の足は大きいなあ。私は感じて、訳もなく嬉しくなります。私は、この時、自分が生きていることを久し振りに思い出しました。アッコの上履きは汚れています。先週、持ち帰って洗わなかったのでしょう。駄目ねえ。私は、そう思い、それに触れたい(  )に駆られました。その瞬間、私が入れられていた教室という牢屋は、みるみる内に色を変えて行きました。(  )。これ以上の人間が生きていることの証しがあるでしょうか。それも食べることにでも、眠ることにでもなく、好きな男の人の靴というささやかなものに対する(  )が、私の胸を詰まらせるなんて。私は自分が、動物ではなく、人間であったのだということを実感していました。
 その授業が終わり、休み時間になると、私は、もう、すっかり生きていました。私は三つ編みを弄びながら、トイレに行こうと立ち上がりました。
 「よく平気な顔してると思わない?」
 恵美子が、通り過ぎようとした私を見て、女の子に話しかけました、私は、立ち止まって、声のする方を振り返りました。私は、しげしげと、しばらくの間、恵美子の顔をながめていました。恵美子はぎくりとしたように肩を引きました。私は、自分では、まるで無表情を装ったつもりでしたが、どうやら薄ら笑いを浮かべていたようです。
 「へらへらしちゃってさ」
 彼女は、一瞬の間を置いて、私に言いました。明らかに、うろたえていました。だって、笑顔が歪んで醜かったのですもの。私も同じように微笑みを浮かべています。けれど、私の方が、ずっと吉沢先生の気を引く笑いを作ることが出来るのです。恵美子の頬は次第に赤く染まってきました。毛細血管の隅々にまで、血が通い始めていくのが見えます。
 「ブス」
 彼女は、愚かにも私に向かってそう言ったのです。私は笑い出しそうでした。
 「どっちが?」
 私は、そう言い残すと、あっけに取られている恵美子と彼女を取り巻く女の子たちに、一瞥をくれると、実に平然とした様子を装って、トイレに向かって歩き出しました。本当は、少し恐くて走りたかったのですが。
 私は、今、自分の中に新たな感情が生まれたのに気づいています。それは、責任という言葉に続いて、私の心の根底に常備されることでしょう。私の生み出した人の殺し方は、(  )という二文字だったのです。人を殺すというのは適切でない言い方かもしれません。男の人の靴に欲望を覚える私が人間なら、私は彼女たちを自分と同位置になんて、置きたくはありません。私は、自分たちを人間だと思っている愚かな者たちを、まず動物にまでおとしめます、そしてから、じわじわと殺して行くのです。
 いつでも殺人を犯せる能力を持っていると思うことは、私の生き方を変えました。たとえば、雨の日に体育の授業は、教室で行われる。くどくどと役にも立たない体育理論を説明しながら、生徒の席を歩きまわる吉沢先生。彼が私の席の横を通り過ぎる時になど、私は自分の足を机の脇にはみ出させて、わざわざ、ソックスを折り返したりして吉沢先生をどきりとさせます。あるいは、リボンを結び直して先生を見上げて、彼の目を細めさせたりもします。私は彼に好かれているのです。先生がそれをあらわにする時の女子たちの顔を見るのが、私の最高の楽しみになりつつあります。顔を真っ赤にさせて、怒りを抑えている。でも、そんなこと、私には関係がありません。この年齢で、男の人をとりこにしてしまったからと言って、それが特別な能力のせいだとは、思いません。ただ、まわりの女子たちは、彼を魅き付ける程のものをもたない。それだけのことなのです。私の本当に好きな人は彼ではありませんが、尻っぽを振る犬のような可愛らしいものにそのくらいのことをしてあげても良いと思うのです。私が、そうやって先生を魅き付ければ魅き付ける程、一方では死んで行く誰かがいるのです。そして、そのことは、笑えることではありませんか?
 恵美子は、ここのところ沈みがちです。私を苛めれば苛める程、吉沢先生の気持が、私に傾いて行くのに気づいたのでしょう。愚かな人。すべて彼女が自分で引き起こしたことです。私は、彼女に同情すら感じてしまう程です。けれど、私は、自分を死の直前まで、追いやった人間を許すことが出来ません。だから、私は、吉沢先生の気持を自分から離しません。私は恵美子の死に行く様子を微笑みながら見ています。
 私の心には墓地がある。けれど、私は死骸に土をかけてやる程、親切ではありません。死んだ人を野ざらしにしておくことを風葬と言うのだそうです。それは残酷な風習でしょうか。私は、そうは思いません。
 私は今でも、野原を歩くのが好きです。私は地面を踏みしめて、草や木の匂いを嗅ぐのが好きです。私は、人生に茫漠と広がる死の寝床の存在を感じます。それは、とても心地良いのです。私の心は、相変わらず、とりこになる。けれど、草や木は私を殺すには、あまりにも若いただの生きものなのです。
 

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