アグネス論争を読む
一九七二年、香港から来日し、十七歳でたとたどたどしい日本語で『ひなげしの花』を歌ってデビュー。その後カナダの大学へ留学、マネージャーと結婚。一九八七年十一月に長男和平君を出産。
翌年二月九日、『なるほど!ザ・ワールド』子連れで初出勤。三月十五日、育児雑誌『ピーアンド』に「ママはオマエを自分の手で育てたいので、オマエを連れて仕事に行きます。オマエとママにとっては、ただ、毎日の楽しいおでかけなのよね」と書く。同月二十日、超ベテラン歌手の淡谷のり子が『おはよう!ナイスディ』で「芸人は夢を売る商売なのに、楽屋に子どもを連れて来たりすると芸が所帯じみてよくない」と発言。四月二十八日、『サンデー毎日』の「電気じかけのペーパームーン」で評論家の中野翠がアグネス批判。六月十七日、『週刊朝日』が「講演料一七〇万円・アグネス先生キタルで、学園緊張。響く『ひなげしの花』今日も総勢六人」と報道。二十四日、『週刊朝日』が訂正記事。七月九日、作家の林真理子が『週刊文春』の「今日も思い出し笑い」でアグネス批判。九月十一日、アグネスが『中央公論』の「アグネスバッシングなんかに負けない」で反論。翌年二月十九日、アグネスが参議院で参考人として意見を述べる。四月十日、林真理子が『文藝春秋』の「いい加減にしてよアグネス」で反論。五月十六日、平安女学院短大教授の上野千鶴子が『朝日新聞』の「論壇」で「働く女が失ってきたもの」を書きアグネス擁護。十九日、コピーライターの竹内好美が『朝日ジャーナル』の「『会社に託児所』を要求しない働く女の論理」で両派を批判。
電気じかけのペーパームーン
中野翠
私は喫茶店に子どもを連れてくる母親というのに、なみなみならぬ嫌悪感を抱いている。私はタバコが好きだが、すぐそばに子どもがいる所でタバコを喫うほどの度胸はない。ガマンする。耳元で泣きわめかれても、子どもは泣くものと承知しているので、文句はいえない。ガマンする。母親とチラッとでも目が合ったら、「おや、かわいいお子さんですこと」的な微笑の一つも返さなければ人非人に思われるんじゃないかという強迫観念にも襲われる。
私にしてみれば、つかのまのくつろぎを求めて入った喫茶店だ。お金払って、他人にそこまでサービスしなくてはならないいわれはない。喫茶店は大人の場所なんだ。不健康であって構わない場所なんだ。大人は不健康でなければくつろげないことだってあるんだ。子どもを連れてくるほうがまちがっている……と怒りを燃やしつつ、小心の私は何もいえず、すごすごと別の喫茶店へと避難する。
アグネス・チャンがテレビ局の楽屋に赤ん坊を連れてきて育児をしているという記事を読んだとき、ハッキリいって、私は「喫茶店に子どもを連れてくる母親とたいして変わらない」と思った。
彼女は、楽屋は空気がきたないからという理由で、空気清浄機まで持参しているそうだ。私は、そばにいあわせて、タバコを喫えず、「かわいい」のひとこともいわなければならないテレビ関係者の人たちに同情した。ところが!その後のマスコミを見ると、これは美談らしいのである。快挙らしいのである。驚いた。さらに、アグネスが「職場に(テレビ局に)託児所ができて、みんな赤ちゃんを連れてくるようになるといいな」といい出し、それを何か進歩的な思想のように取り上げているのには、もっと驚いた。
アグネスは本気で「職場に託児所を」と考えるのなら、それをテレビ局に望む前に、まず自分の会社(最近、夫を社長にして独立した)で実現してみたらどうか。託児室を設け、すすんで子どもを抱えた女性を社員として雇う努力をしてみたらどうか。芸能人というのは特殊な職業だが、世間的基準で見れば、テレビ局にとって彼女はいちおう「出入り業者」という立場なのだからね。少なくとも、「もし自分の会社だったら……」と視点を変えて考てみることはムダではない。そうやって「職場に託児所を」という思想の現実性や正当性を試してみることはムダではない。
彼女の発言が、そういうきびしさの中から生まれたものなら、私は(大人の世界をたいせつにしたい私としては、同意できないが)、一つの主義主張として注目したいと思う。けれど、彼女の発言にはそういうきびしさは、感じられない。「私、むずかしいことは何もわからないの。そういうことは、私以外の誰かが考えればいいの。ただ、私は世の中がこうだったらラクできていいなぁと思ってるの」というノリで発言しているとしか思えない。このノリだったら、誰だって清く、正しく、美しいことがいえる。ただ、大人は恥ずかしくて口にできないだけだ。
べつにアグネスの個人攻撃をするつもりはない。私が不思議でたまらないのは、マスコミが彼女を働く女のオピニオン・リーダーか何かのように美化し、祭り上げていることだ。恥ずかしい。中でも朝日新聞は、アグネスに対して妙に好意的だ。同じことを松田聖子がやったとしたら、どうだろう。断言するが、完全に黙殺したはずだ。
それでようやく私はさとったのだった.「子ども」は、今や聖域の中のイキモノなのだ。今や「子ども」は「平和」「健康」と並んで、現代日本の三大神様−−−けっして相対化されることのない絶対的正義になっていたのだと。
今夜も思い出し笑い
林真理子
コペンハーゲンから成田へ向かう飛行機の中で、「週刊朝日」を読んでいた私は、腰が抜けるぐらい驚いた。なぜこれほど驚いたかは、週刊朝日の最終ページに載っていたこの一文を読んでいただこう。
「<編集部発>6月18日18時15分▽アグネス・チャンの来訪を受けた。「えーっ、アグネスが来たの。サインほしい!」。若い記者が二人、後についてきた。シッ、シッ、シッと追い払う。今日はもっと真剣な話なのだ。▽アグネスの京都外国語大での講演を報じた6月26日号アクション・グラビアは、彼女をひどく悲しませた。長男の和平ちゃんを同行したのを「今日も総勢六人」と見出しで謳ったのが特にショックだったという。▽いつもは、アグネス母子とマネジャーで夫の金子力さん、それにもう一人の計四人で行動している。講演の日は、招いた側の配慮で警備の人がふえたが、全くの例外だった。▽「私の子育て法が気に入らないのなら.茶化さないで.正面からそう書いてほしかった」と、アグネスは率直だった。「講演料も……、お金のためだけでやってると思われるのが、とても悲しいです」。▽一日の出演料は、一応東京で八十万円、地方で百万円ということになっているが、公共性の高い催しはただ同然で引受けてきた。信州大や麗沢大が現在、彼女を非常勤講師に迎えているのも、そんな誠実なところを評価してのことだ。▽取材した側とされた側、気持ちの小さな行き違いが、憎しみを生むことがある。アグネスの率直な訪問がそれを防いでくれた。こんど、サインください、三人分」
私はこの文章を、最初非常に手の込んだジョークだと思った。だってそうでしょ、六人が四人、今回は百七十万円だがいつもは百万だからって、これほど恐縮する必要があろうか。四人で出かけて百万という数字も、私にとってかなり異常なことに思われる。
たとえば私の場合、月に一回か二回、講演をお引き受けしているが、どこへ行くのも必ず一人である。出版社主催の場合のみ、担当編集者が同行してくれることがあるが、北海道だろうと沖縄だろうと一人で行く。費用を二人分負担してもらうのは心苦しいし、常識として、働くというのは一人ですることだと思っているからである。子どもを連れ、夫を従え、親子三人で仕事場に行けるならば、なるほど彼女が、よくテレビや雑誌で言っているとおり、「ちっともたいへんじゃない」だろう。おまけにベビーシッターまで同行してくれるというのだ。
金額もすごい。自分のことを言うのはナンだが、私のところには毎日四、五本の講演依頼がある。若手の中では、人間スピーカーといわれる私でさえ、彼女の何分の一かの金額だ。どうせ大したことを喋れるわけでもない。それでももらいすぎだと、密かに恥じている私にとつて、百万しかもらっていないという言いかたは、驚きに値するものであった。
さらにつきつめていくなら、「公共性の高い催し」というのは、おそらく大学の講師や、文化交流団体の講演を指しているのであろうが、彼女はそれによってステータスを高めてきた。立派にモトはとっているはずだ。それについて、これほど恐懼する必要があるのだろうか。
彼女については、言いたいことが山のようにあるのだが、何より私が知りたいのは、この文章を書いた方の、ジャーナリストとしての姿勢である。
なぜなら、こういう意地の悪い視線を持つことも、ジャーナリズムというものの見識であるだろうし、それはそれで、おたくの雑誌の特徴であると判断したからです。世の中には揶揄という表現方法があります。シニカル、パロディというものも、ペンがもつ一つの個性です。それについては何も申しあげるつもりはありません。私も物書きの端くれとして、同じようなことをたびたびしているはずです。
しかし、そのスタンスが今回のように、ぐらぐらと揺れてしまうことに、私は嫌悪の情を禁じ得ないのです。可愛いタレントさんが、ある日あなたのところを訪問して抗議をした(しかも親子づれで)。あなたはすぐに、ゴメン、ゴメンと謝り、こんな文章をお書きになる。サインをくださいね、とおっしゃる、あのグラビアで、あなたはいったい何を言いたかったのですか。「文化人」を気取るアグネス・チャンの本性を暴きたかったというなら「総勢六人はいつもは四人、講演料百七十万は、いつもは百万ということでした」と、事務的な訂正文を載せるべきです。
最後に、彼女の言っていることは確かに正論ですが、非常にラクチンで責任のない正論です。口の悪い友人に言わせると、まさに『女子どもの正論』だそうです。こういう正論に対して、人はなすすべがありません。反論しようものなら、平和が嫌いで、子どもを大切にしない人で、国際交流に無頓着な人間というレッテルを貼られてしまうからです。しかし私などは困ったことに、この文句のつけようもないキレイごとに対し、うっとうしさを感じる一人なのです。あなたもその一人だったはず。何があなたを変えてしまったのでしょうか」
アグネス・バッシングなんかに負けない
アグネス・チャン
事の始まりは、私が昨年十一月に生まれた長男の和平を仕事場に連れて行くようになってからです。自分の手で子供を育てたい。母乳をあたえたい。そういう自然な気持ちから、今年二月の仕事復帰の日から和平と一緒に動くようになりました。そのことをマスコミが取り上げ、「子連れ仕事人」と呼ばれるようになり、思いがけない賛否両論が起こったのです。
それでも、最初のうちは、あくまで私たち親子と仕事の現場の人たちとの間の問題でした。その点、仕事先の人たちはこちらが恐縮するほどによく理解してくれて、和平がいることを面倒臭がるどころか、むしろ来ることを楽しみにしてくれるほどでした。それが、芸能界の先輩から「所帯じみてて貧乏臭い」「芸のためにならない」と注意されたことがきっかけで、子連れが正しいか間違いかという議論に発展していったのです。
しかし、子連れ仕事に反対する人たちも、私たちのやり方にいろいろ不満はあったのでしょうが、私たちが具体的に「子連れ」でトラブルを起すこともなかったので、正面から批判することはありませんでした。
そんな時、反対のための最適の材料を提供する出来事が起ったのです。六月、空梅雨で、東京の水不足が心配された頃のことでした。
私は「京都外国語大学」から創立四〇周年記念の特別講演の仕事を依頼されました。講演のテーマは「国際人とは?」。外国語を学んでいる学生たちのために、「世界各地を見てきたアグネスの目で、自由に話して下さい」といわれて、準備をすすめていたのです。
なぜ急に、みんながアグネス・バッシング(叩き)を始めたんだろう。私なりに考えてみました。一連の記事を読んでみると、二つの原因があるように感じました。
ひとつは私が芸能人なのか、文化人なのか身分不明であることのようです。「ひなげしの花」でデビューした女の子が、いつのまにか大学講師までやっている。どうなってるんだ。いったい彼女にどんな資格があるんだ。
この疑問に関して、私も実は明確には答えられません。香港という複雑なバックグラウンドを持つ土地に生れ育ち、十七歳で来日。日本、カナダ、中国、アフリカの人々とかかわって来たことが、世の中の興味を引いたのかも知れません。自分の目で見たもの、耳で聞いたこと、それを歌や話を通じて与えられた場所で精一杯表現していくのが私の仕事です。世の中の苦しみを正しくつたえ、自分よりめぐまれない人たちを愛そうと訴えていきたいのです。この「愛」と「平和」のテーマを臆面もなく口に出してしまうので「女子どもの正論」と言われてしまうのかもしれません。
たしかに平和な世界をつくることはむずかしく、人を愛することも簡単ではありません。でも心をこめてメッセージを送り続けていれば、きっと力になってくれる人たちがあらわれると私は信じています。一人の声では何もできないけれど、賛同してくれる人がふえれば、一つの社会現象にもなるのです。この姿勢はたとえある一部の人たちの気分を害したとしても、続けていく義務があると思っています。それが中国やアフリカ、アメリカの現状を見てきた私の責任でもあると思っています。
私は身分不明で、肩書きの付けにくい人物かもしれません。でも肩書きがなくたってかまいません。はっきりとメッセージが伝われば、エネルギーは無駄ではないのです。時には歌、時には話、そしてエッセイを書くことも、大学で教えることも、すべて私のメッセージです。正論には男、女、子供、大人の区別はないはすです。私は人類のための正論はひとつしかないと思っています。表現は幼いところがあるかもしれませんが、意気込みは一人前だと思っています。もっともっと形にしていくためにがんばるつもりです。
アグネス・バッシングのもう一つの原因は、私の子育て法にあるようです。
私は和平が一歳半になるまでは、一緒に仕事に連れて行きます。子供は一歳半まではBABY、そのあとはBOYだと私は考えています。中国では「三歳定八十」といい、日本では「三つ子の魂百まで」といいますが、私は子供の一生にとつて一番大切なのは、乳児期から、この一歳半までだと信じています。だから、完全にオッパイから離れて一人で歩けるようになり、片言で話せるようになるまでは出来るだけ一緒にいてやりたいのです。同じ年頃の仲間づくりをしたくなる頃までは、私は和平を自分の目の届くところで見守ってやりたいのです。
私は香港人のせいか、結婚して子供が生まれても、働くのは当り前と考えていました。仕事をやめるかどうかよりも、どうやって両立させるかだけが、私にとつての問題でした。人に預けっぱなしにしたくないので、考えたすえに子連れ仕事が始まったのです。決して楽ではないが、やりがいのあることです。
子育ては人それぞれです。私は自分の子育てが百パーセント正しいとは思っていません。模索しながらも、精一杯努力した結果が今の姿になったのです。できるだけ他人に迷惑はかけないように注意していますし、これからも気をつけたいと思います。ひとつの実験だと思って、見ていただけれは幸いです。
いい加減にしてよアグネス
林真理子
私はかなり気が重くなってきた。彼女についての資料を読むにつれ、空しい感情はさらに強くなる。この種の人間に、おそらく何を言っても通じるはずはないのだ。著作や発言からすると、アグネス・チャンという人は、善意と愛を信じるやさしい女性なのであろう。世界中の人々はみんないい人たちばかりで、みんながコミュニケーションをきちんと持ちさえすれば、必ず平和はやってくるといろんなところで言っておられる。それはまさに新興宗教と同じだ。口あたりのいいスローガンで、人々を祈伏しようとする。「神を信じますか」と、街頭で話しかけてくる人間を言いまかすことが不可能なように、この愛と平和の申し子の女性に、何を言ってもすべてが徒労に終わるであろう。
こういう鈍感さ(私はあえてそう言う)に、うち勝つものは何もないのだ。たとえば、例の子連れ出勤問題にしても、彼女は無邪気にこう言っておられる。「仕事先の人たちはこちらが恐縮するほどによく理解してくれて、和平がいることを面倒臭がるどころか、むしろ楽しみにしてくれるほどでした」(「中央公論」87年10月号より)「子どもを連れていったことで、職場の雰囲気がなごやかになりました」という発言も、何度か見聞きした。こういう感想しか持てない人間に、「仕事場で子連れは是か非か」などという議論をふっかけてもぽかんとされるだけであろう。
私は小説を書いているぐらいだから、人の心の裏をよむことに、たけているところがある。もし私が子どもを出産し、出版社や講演会に連れていったら、たいていの人がちやほやしてくれるに違いない。また連れてきてくださいね、と愛想のひとつも言うだろう。しかし私は、その表情から、全く別の感情をすばやく察することができる。他人の子どもというものに、すべての人が愛情や好意を持ちはしないというところから「迷惑」や「社会生活」という議論はスタートするのだ。
私の知り合いに、アグネスとかかわった人たちが何人かいる。テレビや雑誌の仕事に従事する彼らが、本当に嬉々として和平ちゃんをあやしていたか、来てもらって心から喜んでいたかというのは、おおいに疑問の残るところだ。
「いやぁ、ケガでもされたらどうしようかと、気が気じゃなかったよ」という、ある人の言葉は、もしかしたら反対に、私への迎合かもしれぬ。が、人間というのはこうしたひとすじ縄ではいかないものだということは、ある程度の大人なら誰しもが知っていることだ。「みんなが喜んでくれている」という単純さは、ふつうの人はまず持たない。しかしその単純さを武器に、宗教めいたことをしてしまうところが、アグネスという人物の不思議さでもあるのだ。ふつうの大人、ふつうの芸能人が口にすれば、せせら笑われるか、偽善とののしられるであろう言葉が、いつまでも少女のような容姿を持つ女性から、たどたどしい日本語で語られると、ある人々は許してしまう。許すどころではない。あたかも素晴らしい啓示のようにもてはやすのだ。
私と中野さんがそれぞれの原稿を書いたきっかけは、参議院の調査会に彼女が出席し、女性労働と育児に関して意見を述べたことだ。こうなると個人の趣味とか、タレントの子育てパフォーマンスとは次元が違う。私たちが女の物書きとして、多少意見を言わせてもらったことが、どうして「噛みつく」とか「コワイ女がいびる」になるのであろうか。こういう男社会のからかいが、アグネス問題を、低レベルのものにしているのである。アグネス・チャンのことになると、参議院も、大学も、信じられないほど軽薄に大甘になる。前置きが長くなったが、私はここで日本人、特にある種のインテリがどうして彼女にこれだけ弱いのか少々考えてみたいと思う。つきつめて彼女を論じていけば、現在の日本の姿が見えてくるはずだ。
「アグネス・バッシングなんかに負けない」というエッセイは、見事なまでの被害者意識につらぬかれている。「この夏、平和な我が家に突然台風がやってきた。その名はレジー・メリー。私をめぐって書かれた『真実を歪めた記事』が発端となって、この台風は次第に悪質な個人攻撃の形をとりはじめた」
和平ちゃんを囲む楽しい一家に、牙をむいて襲いかかる台風に私はたとえられたわけだが、ここで彼女は大きな間違いを犯してはいないだろうか。アグネスはその時、単に子どもを産んだばかりのやさしいお母さんではないのだ。新聞やテレビで、「子どもを職場に、職場に託児室を」と言い始めていた彼女は、公の判断というものに身をゆだねられる。反対の声があがったとしても何の不思議はないはずである。ものを書く、発言するということは、さまざまな大きなリスクを負うことだ。この私とて、アグネスを非難すれば、「噛みつく」「コワイ女がいびる」と書かれる。とんちんかんな学者からは、中国人差別と言われる。だが、そういうデメリットを覚悟で、人は言いたいことを口にしようと決意を固めるはずだ。しかしアグネスは、そういう意見をすべて「個人攻撃」としか見られない。この女性は議論するという厳しさに全く慣れていないのだ。
「日本人ではないから」「芸能人という別のジャンルの人だし」、この程度のものかと思いつつ、片方では「まれに見る国際人」と彼女をもち上げる。この二重構造の不思議さ。日本人はどうしてこれほど、アグネス・チャンという人間を甘やかすのか。
アグネス・チヤンという人は、実に巧みに二つの世界を生きている人である。テレビの中では頭のいい社会意識にめざめた女性、新聞や雑誌に出る時は、愛らしいタレントの表情になる。この二つの世界は相乗効果をあげ、どちらも彼女に利益をもたらしているようだ。彼女がいくら否定しようとも、おむつのCMは「子連れ講演」で話題を呼ばなければこなかったものだろうし、テレビでの知名度がなければ、講師を依頼する大学もなかったであろう。お断わりしておくが、私は「芸能人のくせに、知的分野に首をつっ込んで」という、一部のマスコミが根底に持っている偏見はないつもりだ。
『朝日ジャーナル』の例のコラムなどは実はこれに基づいているものであって、「可愛いタレントが必死でやってるものを、なにもいい大人が目くじら立ててあれこれ書かなくても……」という態度がつい、からかいに出る。私のまわりにもそういう人が実に多い。しかし、発言する時の彼女を、私は同じ場所に立つ人間だと思っている。だからこそ、あまりにもレベルの低い発言や行動をとられると、非常にがっかりもするし、腹もたってくるのである。
カナダ留学後、何年かパッとしなかったアグネスが再び脚光を浴びるようになったのは、ローマ法王に会える論文入賞であり、北京のコンサートであったと記憶している。ここで彼女は「世界平和を訴える知的タレント」ということで売り出してきた。マネージャー氏と結婚する時は、わざわざ香港、日本で二回の式をあげ、「国際結婚をし、ふたつの文化を手にした人」という演出をした。この、中国と日本というふたつの祖国は、その後の彼女の切り札となる。ある時は、中国人として、日本人の贖罪意識をつつき、ある時は「和平には半分日本人の血が混じっています」と、日本人しての連帯を口にする。また我々日本人がいちばん弱い「国際人」という言葉も、彼女は巧みに使った。
少女の頃から「アメリカでは」「ヨーロッパでは」という言葉を吹き込まれて育ってきた日本の女は、同時にかの国の女の厳しさも学べと強いられたところがある。常に前向きに生き、キャリアを積もうと切磋琢磨している欧米の女性に比べ、あなたたち日本の女は甘ったれていると、いろんな人がいろんな場所で書いてきた。そこで突然もたらされた知識が、アグネス・チャンの、「中国では、お母さんが赤ちゃんを職場に連れてくるのは当然です」というやつだ。
そんなことができたら、どんなにラクチンであろう。そんな素敵なことが許されたらどんなにいいだろうかと、一部の女が思ったとしても不思議ではない。いや、一部どころではない、赤ん坊をかかえて働いているすべての女はそう考えただろう。しかし、ふつうの女だったら、「ちょっと待てよ」と思う。この世の中には、要求できること、要求できないことも確かに存在しているのではないか。地域の保育所をもっと完備せよ、零歳児保育を充実させろというのは、当然要求すべきことだろう。しかし、自分の子どもを職場に抱えていって、仕事の合い間におっぱいをあたえ、また自分の席に戻ってくるというのは、働く人間としての自負心が許さない。それはあまりにも甘ったれた夢物語だと思う。
が、そういうふうには考えない女たちもいただろう。そういう女たちにマスコミが、「国際人」アグネスのイメージを提供した。そして子連れうんぬんの話はますます信憑性を持ってきたわけである。単なる野放図な欲望に、知的な、革新的ないろどりがあたえられたのだ。もう一度問いたい。「国際人」というのはいったい何なのだろうか。世界を駆け足でめぐって、その中から自分に都合のいい事実だけをピックアップすることなのだろうか。それとも国籍をいくつも持てば、それで国際人なのか。あるいは語学ができることなのか。日本においては「国際人」ということが、そのまま商売になる。そして純朴な人々は、「国際人」の言うことに耳を傾ける。彼らの言うことを信じる。私がアグネス・チャンに言いたいのはそこなのだ。
個人攻撃と言われついでに、本音を言わせてもらえば、日本がこれほど甘ちゃんの国でなかったら、アグネスなどという人が生きていけるはすがないではないか。
たどたどしい日本語で、テレビに出ているだけで、お金はどっさりもらえる。彼女は金額が不満らしいが、どうしようもないことを一時間ちょっと喋って、百万円はもらえる。「国際コミュニケーション論」というタイトルをつければ、高校生の研究発表レベルの内容で、講師ともてはやしてくれる。「外国人だから」と、すべてのことは大目に見てくれて、しかも「外国人だから」ともてはやしてくれる。(これはアグネス以外は白人種に限られるが)日本というのはありがたい国である。アグネスに感謝してもらいこそすれ、日本人があれこれ言われる筋合いはないはずだ。
それからもうひとつ、「私たち働く女は、とても困っています」式の言い方はやめなさい。巷の働く女性たちと、あなたと一緒にするのは、彼女たちに対してとても失礼だ。
私もとてもあなたにはおよびもつかないが、講演会へ行けば、何十万というお金を手にすることができる。一冊本を書けば、(運がよければ)何百万というお金が入ってくる。そういう私やあなたが、働く女としての被害者の傘の中に入ることは卑性なことではないか。 ましてや、付き人がいて、ベビーシッターを連れて職場にお出ましになるあなたが、どうして子育ての苦労を国会で訴えたりするのであろうか。夫に気を使う必要もない。まわりの人は、内心どう思っていようと、あなたとあなたの子どもにべろべろばあという世界。結構なことではないか。それなのにあなたは、さらに世の中を変えろと訴え続ける。そんなあなたには、もはやさまざまな責任がある。そしてそういう場所にあなたを引きあげた、我々にも責任がある。 「子どもはいろいろな場所に連れていったらいい。そこで泣いたら、まわりの大人が、べろべろばあーをしてあげるべきです」などと国会で本気で言われたら、我々大人はどうしたらいいのだろうか。たいていの人は忙しくて、他人の子どもの機嫌をとるひまなどない。やっとひと息入れようと、友人とちょっと値のはるレストランへ行けば、そこにぐちゃぐちゃと手づかみで食べる子どもがいたら、やはり疲れる。あなたも子どもを断わられると、「すっごく泣きたくなる」かもしれないが、こちらとて涙がこぼれてきそうである。私には守らなくてはならない大人の世界というものがあるのだ。これがこの原稿となったわけである。
最後に締めくくりを、曾野綾子さんのこの文章でさせていただきたい。いまから二年ちょっと前、アグネスはエチオピアの難民キャンプを訪ねた。その時見たものを、彼女はまた例の調子で書いたわけだ。
「私が出会った人はみんな礼儀正しかった。いい人たちばっかりだった。無表情で感謝の心がないと書いた曾野綾子さんは、いったい何を見てきたんですか」
曾野さんの文章から、「私が外国の紀行文を書く時のルールは、たった一つです。それはある日、私がそこにいた時、こうだった、と書くだけです。それがその国の普遍的な状況だと言う言い方は、私はしないことにしています。私は学者ではないので、普遍化ができないのです。しかし私は、自分の目に映ったことをあなたから違うと言われると『ああそうですね、違っていました』と言うわけにもいきません。あなたは私の書いたものが、自分の見聞きしたものと違う、と非難しておいでですが、私は違うほうが当然だと思います。僅かな時の差、運命に似て出会う人々が違うこと、それを見る人の心や眼や、それらすべてが違うのですから、見えるものが違うのも当然でしょう。しかし『どこそこの人は皆いい人です』という式の言い分は、あなたがおっしゃる分には少しもかまわないのですが、大人は少し困ります。なぜなら、そういうことはこの世にないからです」
働く女が失ってきたもの
上野千鶴子
アグネス・チャンさんが、職場や講演に幼い息子を連れて歩いていることを、マスコミ界きっての子女、林真理子さんと中野翠さんが週刊誌などで批判している。最近の朝日ジャーナルの「メディア時評」はこのやりとりを「コワイ女が二人でアグネスをいびるの巻」とやゆぎみにとりあげた。それらの発言を「あれはいじめね」「子どもを持てない女のひがみよねぇ」という「低レベル」の論争におとしめるのはフェアではない。アグネスさんも月刊誌で「アグネス・バッシングになんか負けない」と、必死で抗弁しているが、不用意な発言も目立つ。それよりアグネス擁護の声が小さいのが気にかかる。ここは買ってでも、アグネス擁護にまわりたい。
林真理子さんは月刊誌の中で、大へん冷静な正論を書いている。「子連れ出勤」が「許されたらどんなにいいだろう……。しかし、仕事の合い間におっぱいを与え、また自分の席に戻ってくるというのは働く人間としての自負心が許さない」。彼女の「正論」は、プロの職業人として「許されないこと」という「正論」である。歯を食いしばって、職場で男たちと肩を並べてきた女の例の「正論」である。この「正論」から見れば、アグネスさんのやっていることは「甘ったれ」た非常識、横紙破りにちがいない。だが、こういう「正論」で、女たちはこれまで何を失ってきただろうか。「正論」はしばしば抑圧的な働きをする。ルールを守れ、と叫ぶのは、ルールに従うことで利点を得る人たちである。女たちはルールを無視して横紙破りをやるほかに、自分の言い分を通すことができなかった。女たちが要求してきたのは、「仕事も子どもも」「有給の育児休暇を」「託児室つきのコンサートを」と、どれも前例にない非常識だった。
アグネスさんは、山口百恵さんのように「結婚退職」も、松田聖子さんのように「育児休業」もしなかった。それはアグネス一家が「共稼ぎ」だから当然、という見方もあるが、昔から「共稼ぎ」の芸能人家庭は、お手伝いさんを雇って子育てを切り抜けてきた。庶民には手の届かないベビーシッターも、アグネスさんの収入ならいくらでも調達できるはずである。だがアグネスさんはそれをやらなかった。周囲がどぎもを抜かれる中で、芸能界で初の「子連れ出勤」という「非常識」をやってのけた。もちろんアグネスさんという「特権階級」と「ふつうの女たち」とを同列に論じることはできない。だがアグネスさんが世に示して見せたのは、「働く母親」の背後には子どもがいること、子どもはほっておいては育たないこと、その子どもをみる人がだれもいなければ、連れ歩いてでも面倒をみるほかない、さし迫った必要に「ふつうの女たち」がせまられていることである。
いったい男たちが「子連れ出勤」せずにすんでいるのは、だれのおかげであろうか。男たちも「働く父親」である。いったん父子家庭になれば、彼らもただちに女たちと同じ状況に追いこまれる。働く父親も働く母親も、あたかも子どもがないかのように職業人の顔でやりすごす。その背後で、子育てがタダではすまないことを、アグネスさんの「子連れ出勤」は目に見えるものにしてくれた。
アグネスさんの代わりに、こんな「代理戦争」を買って出るのは、かえって彼女には迷惑かもしれない。だが、女による女の「子連れ出勤」批判を、高見の見物して喜んでいるのはいったいだれであろうか。この「代理戦争」の本当の相手は、もっと手ごわい敵かもしれないのである。
電気じかけのペーパームーン2
中野翠
朝日新聞5月16号の「論壇」というコラムで、平安女学院短大助教授の上野千鶴子さんがアグネス擁護論を展開していた。上野さんは、アグネスの代わりとなって、私たちと「代理戦争」をしたいのだそうだ。「代理戦争」とは大げさな。いったい、なぜ、そんなに興奮するのかわからない。他の人ならともかく、上野さんはフェミニズムのたいへんな論客らしいので、面白いから少しだけ挑発に乗ってみる。
上野さんの文章を要約させていただくと、こういうことになる。@林真理子が文春5月号に書いたアグネス批判は「正論」である。しかし、この「正論」は女たちにとって抑圧的な働きをする。
Aなぜなら、女たちはルールを無視して横紙破りをやるほかに、自分の言い分を通すことができないからだ。
Bアグネスは、あえて横紙破りをして、「『働く母親』の背後には子どもがいること、子どもはほっておいては育たないこと、その子どもをみる人がだれもいなければ、連れ歩いてでも面倒をみるほかない、さし迫った必要に『ふつうの女たち』がせまられていること」を世間にアピールしてみせた。
@Aの趣旨は要するに「アグネス批判は正しい。正しいが、女たちにとっては損になる発言だから黙っていたほうがよかったのに」ということか?そうとしか考えられない。私は女の代表として発言しているわけでも、女の解放をめざして生きているわけでもないので、こういう政治力学的なお説教されると、とても困る。上野さんは、女の代表として発言し、女の解放をめざして生きているのだろう。とりあえず、上野さんと私は、そこが違う。上野さんは「女たちは」という言葉をたびたび使って書いているが、私はめったに「女たちは」といういい方をしない。「私は」と書く。私は、「女一般」というものにあまり興味がないし、女たちもいろいろだと思うからだ。上野さんは「女たちは」というところからスタートし、私は「私は」というところからスタートする。出発点からしてズレているのだ。上野さんは学者なので、それでいいと思うが、たまには「私は」で押してゆく文章を書いてみるといい。そう簡単に「女たちは」という言葉は使えなくなると思う。
Bの点に関しては、これは上野さんの美しい誤解というものである。べつにわざわざアグネスに教えてもらわなくても、働く母親の苦労(と喜び)は、まともな人なら誰でも少なからず察しているものだ。アグネスの行動によって、「はい、目がさめました、おそれ入りました、不肖わたくし初めて働く母親の背後に子どもがいることに気がつきました」というバカな男も、もしかして全国で10人くらいはいたかもしれないが。しかし、それは場違いなミーハーごっこというものである。アグネスが抱えている現実と、巷の働く母親が抱えている現実は、あまりにも違う。さらにアグネスにとっては私生活が商品なのである。上野さんは「アグネスさんという『特権階級』と『ふつうの女たち』とを同列に論じることはできない」と書きながら、実際には同列に論じるという罠にはまっていると思う。
最後の数行は、ひどく思わせぶりで、いったい何がいいたいのかわからない。「女による女の『子連れ出勤』批判を、高みの見物して喜んでいるのはいったいだれであろうか。この『代理戦争』の本当の相手は、もっと手ごわい敵かもしれないのである」っていうの。
こんな曖昧なほのめかしではなくて、ハッキリ書いたらどうなんだろう。「手ごわい敵」っていったい誰?おかげさまで推測するしかないが、たぶん「手ごわい敵」というのは「男社会」とか「男マスコミ」といいたいのではないか。林真理子や中野翠は、彼らの陰謀にノセられている、それにも気がつかないお調子者だ、といいたいのではないか。大げさな。なぜ、何でもかんでも男と女の対立構図として描き出したがるのか、私には理解できない。もしかして、この人も「女は弱者」という神話を信じているのかもしれない。私はあいにく、そういう信抑を持つていない。そこも違う。上野さんは、きっと、この違いが断固許せないのだろうな。
そしてもうひとつ、条件つき擁護派がある。つまり基本的には@を支持するが、アグネスのやりかたを手ばなしで認めるわけにはいかない。現実のルールのなかで、もっと地道に、ひとりでも多くのふつうの母親たちが恩恵を受けられるように、遵法闘争を積み上げていくべきだというものだ。この立場は一見いちばんまっとうな「正論」なのだが、実は私にはいちばん不可解だった。この「正論」こそ、世の男たちに「アグネス問題」が、「所詮、コップのなかの嵐」と、苦笑される大モトではないかと思うのだ。
アグネスが特権的であることは批判派・擁護派ともに認めている。特権的だからこそ、仕事先に子ども連れで行っても、保育室を用意してもらえる。ふつうの人ではこうはいかないだろう。それをアグネスは、「あたたかい理解と協力」と言って、批判派を剌激しているが、たしかにテレビ局が、アグネスの育児法に賛同したわけでも心から働く女性の権利の拡大を認めたわけでもないはずだ。多少の手間がかかることになっても、タレント・アグネスを出演させたほうがソロバンに合うと、彼女の商品価値を値ぶみしただけのはずだ。それがアグネスの特殊性といっていい。しかし、この特殊性や、自費でベビーシッターを雇える特権を、例外的だからという理由で、マイナス点として数える意味はいったいどこにあるのだろう。むしろ、アグネスの特殊性や特権は、働く母親の環境整備のためにプラスの方向に働くはずだし、働かせるべきなのだ。
簡単な話、はじめのうちは、「泣く子と視聴率には勝てない」と思っていたテレビ局側が、「みんな和平をかわいがってくれて、のぞきにきてくれる」ようになり、職場に子どもがいたり保育所があることに慣れただろうし、前例と既成事実をつくった功績は明らかなのだ。いつになるかわからないけれど、この先、「特権的」なアグネスを迎え入れたテレビ局に、保育室が常設され、専従の保母が雇用されるようになる可能性もある。これはマイナスだろうか。さらに、ニコニコ笑顔のアグネス母子を眺めた若い女の子たちが、「アグネスってカッコいいわァ。私も子連れで会社に行きたいな」「妊娠したから退社するつもりだったけど、連れてっちゃえばいいんだ」と、軽薄無邪気能天気に、揃って子連れ出勤という暴挙に出る可能性もある。あわてふためいた会社が、しぶしぶ会議室のひとつに畳を入れ、保母を雇う。そのうち、軟弱な若い父親社員が、「今日はぼくの番なんです」と赤ん坊を連れてくるようにだってなる。いつのまにか、なしくずし的に、職場内保育所ができてしまう。
これは悪いことだろうか。
条件つき擁護派の最終目標は、「母親が母親であることをやめずに仕事をつづけること、そのための環境整備」のはずだから、アグネスの特殊性こそ、むしろ有効な戦力になり得るはずなのだ。もしかしたら、アグネスのしたことは、何万人の署名より有効だったかもしれない。あえて言えば、アイドルを支える層を動かすには、アイドルの起用がよろしい。アイドルを支える層を動かさないことには、世の中は変わらない。となると、アグネスは例外的で非現実的どころか、こんなに現実的で実利的な戦力はないのである。とりあえず、歯をくいしばって働いてきた母親につづく世代の目を、私には保守反動の象徴としかみえない「百恵さん」からそらせただけでも、たいへんな評価を受けるべきだ。
実は私は、タレントとしてのアグネス・チヤンがあまり好きではない。紙おむつのコマーシャルをみるたびについあげ足を取りたくなるほどだ。だからアグネスの不用意な発言や単純すぎる論理を、目ざとくあげつらうことは得意だ。しかし、そんなことをしても、まったく、なんの役にも立たない。アグネスは論客ではないからだ。
アグネスの「国際人」ぶりも同じく、彼女の演説の内容にかかわるのではなく、あの、身軽で臨機応変な多国籍ぶりそのもの、アグネスの存在自身にあると、私は思っている。それはちがう、という人には、「国際人」の定義を質してみたい。
『会社に託児所』を要求しない働く女の論理』
竹内好美
林さん、あなたはこれまであなたが展開してきたアグネス批判に対して、働く女性の立場からの反論が出ないことを理由に、あたかもすべての女性が、あなたの言い分を支持しているかのように断定しておられる。
仕事と家庭生活を意志を持って両立させようとする女性を甘く見てはいけない。仲間の女性たちが「子供を社会に連れ出すな」、言い換えれば「女子供は家でじっとしていろ」という、とうてい同性の口から発せられたとも思えないあなたの説に与するなどと思われては困る。いや、あなた一人が勘ちがいしている分には一向に困らない。しかし、女性が仕事を続けていく上で、大きな障壁となっている男性社会を形成する当の男性たちに、そう思われては困るのだ。
アグネスが和平くんをスタジオに連れて行っているという話題を初めて耳にした時、大多数の働く女性は、好意的に受けとめたことと思う。その時の平均的な心理は「やっぱり母親って赤ん坊とは一刻も離れがたいものだからね。アグネスのような仕事なら、それができるわけだから、大いにやるべきよね。そういう人が一人でも増えてくるのは、また別の側面から働く女性をバックアップすることになるだろうし……」というあたりだったろう。
その後、登場したアグネス批判に対して、働く女性たちからの反論がまったく出なかった理由は、林さんのヒステリックな論調に嫌気がさしていたこともある。が、それ以上に論争の中心が「仕事場で子連れは是か非か」という、働く女性の側からすればおよそリアリティーのないテーマに終始することになってしまったからなのだ。 労働者としての私たちは、もちろん仕事場に子連れで行くことを企業に要求できるが、それを要求する気はない。実に簡単なことだ。赤ん坊を抱いて道を歩く時、私は小学生がこぐ自転車すら怖い。行き帰りで数百段になるだろう階段の昇り降りが怖い。踏切りを渡る途中で降りて来る遮断機が怖い。赤ん坊の顔にかかるタバコの煙が怖い。電車の中にうようよいる病原菌が怖い。怖いものだらけで朝晩五〇分ずつの通勤時間。赤ん坊と自分に降りかかってくる緊張と疲労。こりゃどう考えたって、家の近くの保育所に預けるんがラクチンに決まっている。こういうごくごくあたり前の正論がまったく出てこないで、いつまでも感情論が展開されているところに、現実の働く女性たちは、自分の実感との大きなギャップを感じてしまう。
もう一つ、私たちが「職場に託児所を」と要求しない大きな理由がある。結婚した途端に、働く女性たちは職場で自分たちが働くことのネックになっている「男性社会」の出先機関が家庭内に出現したことを知る。愛し合って結婚したはずなのに、恋愛中はフィフティーフィフティーの立場だったはずなのに、夕食をつくるのは自分。クリーナーをかけるのも自分。洗濯物を干すのも自分。ふとんを敷くのも自分という事実に直面する。その間、男は当然のように新聞を一面から順にゆっくり読み進む。なぜ? 私、新聞取ってくる人。彼、新聞読む人。この完全なる分業制。なんだこれは、家庭内職場にほかならないではないか。
夫を自分の味方に改造するために、女は毎日毎日話し続ける。話して通じなければ、すねる。ふくれる。泣く。わめく。怒りを爆発させる。そんな戦いのあげくに、やっとシブシブ男たちは洗濯物をたたみ始める。おそらく、大多数の働く女性たちが、この段階で挫折し、ちょうど大きさが目立ってきたお腹を抱えて、子育てに専念するのも、女の幸せの一つの形かもしれないと思い始めるのだ。でなければ、男があくまでも家事労働から逃げるなら、すべて自分一人で引き受けるしかない、と悲愴な覚悟をしてしまう女性。仕事は続けていこう。だが毎日帰りが遅い夫をアテにすることはできない。仕事も、家事も、育児も、自分だけを頼りにやっていこうと決意した女性。「職場に託児所を」と要求するのは、このタイプのスーパーウーマンなのだ。
職場に託児所があれば、保育園へのお迎え時間に戦々恐々とする必要がない。少々のことなら、残業もできる。子供になにかあった時、すぐに駆けつけられる。だが、母親の職場に子供がいるという状況は、実は、父親が子育てを完全に拒否していることにほかならない。子供の送り迎えは連日まったく母親一人に任される。父親がわざわざ母親の職場へ子供を迎えに来るケースはほとんどないだろう。先程述べた子連れ通勤の肉体的、精神的な負担がすべて母親の肩にかかってくる。
「職場に託児所を」という要求を女性たちが掲げて行動し、仮にその要求が実現されたとしよう。それでは、今まで男性社会を都合よく根底から支えていた良妻賢母たちが仕事を持ったことにしかならない。男性社会の一方的な論理に文句も言わず忍従してきた女性が、家庭と仕事の両方の場で更なる忍従を強いられるという結果しか得られないのだ。
働く女性が、今しなければならないことは、働く良妻賢母になることではない。私たちは働く。家計の半分を引き受ける。だから、家事と育児も半分ずつ。もちろん、保育園の送り迎えも半分ずつ。一番身近な存在である一人の男性に要求することなのだ。生産性のみを追求する男性社会で、子育てというハンディを背負った女性の生産性は〇・五程度にしかカウントされない。確かに、家事と育児のすべてをこなしていれば、それはいたし方ない。だが、その負担が半分になればどうだろうか。私たちは、もっと評価される働き手になるはすだ。一方男性たちは、家事と育児に手を染めることによって、薄っぺらな仕事人間から厚みを持った生活人に生まれ変わる。少々生産性が下がっても、そこから得られる充足感ははかり知れない。
こうして、男性社会の構成員を、働く女性一人が一人ずつ引っペがしていくこと。それが「婦人問題」と、男性たちに一言のもとに片づけられている私たちの事情を、男性も含めた人間たちの問題として提起することになる。ほんの少しずつだが、男性社会の壁に穴をあけ、仕事と家庭生活が無理なく両立できる世の中を生み出す力につながっていく。私たち、働く女性は、歴史的には「悪妻」と呼ばれ、侮蔑の対象とされてきた女性として生きていこう。そういった意味では、私たちは旧態依然の良妻賢母を演じるアグネスをも支持しない。だからといって、林さんに勝ち誇っでもらっては困る。「私には守らなくてはならない大人の世界というものがあるのだ」という林さん。その独断が、女性、子供、その他の、男性社会における弱者たちを疎外するためのキャッチフレーズにいつでも転じ得ることに、あなたは気づいていないのだろうか。
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