東京の西にある京王線「聖蹟桜ヶ丘」駅周辺といえば、スタジオジブリ作品「耳をすませば」のモデルとなった街で有名ですが、実は「となりのトトロ」のヒントにもなった土地でもあります。
ここでは、「宮崎駿監督」と「聖蹟桜ヶ丘」の関係について、関連書籍を元にまとめていきます。
ここでは、「宮崎駿監督」と「聖蹟桜ヶ丘」の関係について、関連書籍を元にまとめていきます。
■続映画を旅する(小学館 1997/12発売) より引用
鈴木敏夫氏談
「(耳をすませばの主人公)雫の町は確かに聖蹟桜ヶ丘周辺をモデルにしています。というのも宮崎駿さんが多摩にあった日本アニメーションに勤めていた頃から親しく地のりのある町だったからなんです」
(桜ヶ丘団地のすぐ横に雑木林が鬱蒼と生茂っている丘がある)「じつはそのあたりをヒントに『となりのトトロ』が創られているんです」
「『トトロ』『ぽんぽこ』『耳をすませば』は私なりにスタジオジブリの多摩三部作だと思っています」
と、耳をすませばだけでなく、となりのトトロも聖蹟桜ケ丘がヒントに作られていると語っています。
この「桜ヶ丘団地」は、今でいう桜ヶ丘1丁目~4丁目あたりで、雑木林はおそらく多摩東寺方緑地のことかと思われます。
宮崎駿監督が「聖蹟桜ヶ丘」にある日本アニメーションに勤務されていたのは、1973年~1979年となります。
この「桜ヶ丘団地」は、今でいう桜ヶ丘1丁目~4丁目あたりで、雑木林はおそらく多摩東寺方緑地のことかと思われます。
宮崎駿監督が「聖蹟桜ヶ丘」にある日本アニメーションに勤務されていたのは、1973年~1979年となります。
さらに宮崎駿監督自身がこう語っています。
■トトロの生まれたところ(岩波書店 2018/05発売) より引用 編集
宮崎駿氏談
正確に言うと、所沢の地を見ただけで映画(となりのトトロ)を作ったわけではないんです。
(所沢に住みはじめたとき)そこにあった風景は、自分にとって特に珍しい風景ではなかったのです。
山の牧場を舞台にした「アルプスの少女ハイジ(1974年放送)」という作品を作っているときに、 画面構成をするうえで、そこに生えている植物や牧草地を描くために現地(スイスとドイツ)へ視察に行ったんです(1973年7月)。
そこで「日本の緑のほうがいいな」ということを実感して帰ってきました。
日本の風景のほうがはるかに豊かだと思ったんです。植物の種類が圧倒的に多い。いっぱい虫もいる。
その頃からです。前から日本を舞台にした映画を作らなきゃいけないというのは頭のどこかにあったけど、 実際に何が好きなのかと言ったら、植物が群れているところとか、虫が多いとか、抜いても抜いても生えてくる雑草とか、 そこに流れる、かつて自分たちが遊んだきれいな川とか、そういうものでできあがっている風景なのだとわかったんです。
もともとの日本は本当にきれいなところなんだと再認識したんです。
日本を舞台にするためには、今度は意識的に(風景を)つかまえ直そうと思いました。
その当時の職場(現在の日本アニメーション)は多摩(聖蹟桜ヶ丘)にあるのですが、
そこに多摩丘陵の農村地帯の残りがあって、仕事の合間にずいぶんと見て歩きました。
ニュータウンを作るためにもう更地になっているような尾根筋があったり、不思議な風景があったんです。
ニュータウンを作るためにもう更地になっているような尾根筋があったり、不思議な風景があったんです。
それから所沢でも、歩き回っていると次々と面白いものを見つけて、そういうときは頭のなかでそこに建っている新しい建物などを消すんです。そうするとだんだん、「ああ、これは形になるな」と。
(中略)
イメージを寄せ集めて、それを再構成していったんです。舞台を作っていくのはこことここだと。
(となりのトトロのイメージボードを)最初に描いたのは、たぶん30代の頃。
プロデューサーらに企画を出したのですが、全然相手にされないで戻ってきて、そのままスクラップブックを書棚に放り込んでじっとチャンスを待っていました。
当時、ぼくは自分でレイアウトという新しい仕事を切り開いていたのですが、このまま生涯レイアウトをやっているのは嫌だと思っていて、 どこかで自分のお金でもいいから1本、「これが俺が作りたかったものだ」というものを作りたいと思って、 そっと置いておいたのがこの企画だったんです。
(以下略)
つまり1973年、聖蹟桜ヶ丘のズイヨー映像(後の日本アニメーション)在籍の宮崎駿氏が「アルプスの少女ハイジ」のロケ班でスイスやドイツに行ったが、日本の方がはるかに豊かできれいだと認識し、この日本を舞台にした映画を作るため、まずは職場近くで風景を探し始め、そこで不思議な光景に出会った。
そして家の近の所沢でも歩くようになり、トトロの形が固まっていった。
この「聖蹟桜ヶ丘での探索」での体験が、となりのトトロの作品作りに大きく貢献したのでしょう。 もし聖蹟に日アニが映ってなかったら、トトロは生まれていなかったかもしれません。
トトロと聖蹟桜ヶ丘については、「出発点」という本こうも語っています。
そして家の近の所沢でも歩くようになり、トトロの形が固まっていった。
この「聖蹟桜ヶ丘での探索」での体験が、となりのトトロの作品作りに大きく貢献したのでしょう。 もし聖蹟に日アニが映ってなかったら、トトロは生まれていなかったかもしれません。
トトロと聖蹟桜ヶ丘については、「出発点」という本こうも語っています。
■出発点(徳間書店 1996/07発売) より引用 編集
―宮崎さんは、「となりのトトロ」の舞台設定をどの あたりと考えていたんですか?
宮崎:物語の舞台は、実はいろいろなところから取っているんです。
聖蹟桜ヶ丘の日本アニメーションの近くとか、自分が子どものころ見て育った神田川の流域とか、今住んでいる所沢の風景とか、みんなまざっちゃったんです。
それに美術の男鹿和雄(おがかずお)さんが秋田の出身だから、なんとなく秋田、なってるんですよ(笑)。だから具体的に場所を決めいうわけではないんですね。
―ロケハンというのはやったのですか?
宮崎:ロケハンは、実は日本アニメーションの裏のほうに、一日ぐらい行っただけです。男鹿さんと作画監督の佐藤好春さんと三人で。
あと男鹿さんが自分の足でそこを何回か見に行ってます。日野市に住んでるんで近くなんです。男鹿さんはずいぶん見て、だから美術の人は大変だったですね。
雑草描くというのは本当にたいへんですよ。生え方もランダムですしね。
(中略)
「トトロ」に出てきたようになっているクスノキはけっこう多いんですよ。日本アニメーションの近くにも、一本だけポコッと生えてる古そうな木があったんです。
トトロで出てくる雑草も、聖蹟桜ヶ丘の雑草だったのですね!
最後に…宮崎監督のお弟子さんでもあるアニメーション監督の「飯田馬之助」氏。
2010年11月に49歳という若さで亡くなられました。
告別式で、宮崎監督が弔事を述べられています。
最後に…宮崎監督のお弟子さんでもあるアニメーション監督の「飯田馬之助」氏。
2010年11月に49歳という若さで亡くなられました。
告別式で、宮崎監督が弔事を述べられています。
宮崎駿: 飯田勉(本名)君をおくる。
馬之助、馬さん、馬!
なんでせっかちにいっちまったんだ。
だから言ったんだ歩けって、少しは足を使えって。
ぼくに弔事を読ませるなんて順序が逆だろう。
宮崎監督自身、歩くことが好きだそうで、一時自宅からスタジオジブリまで3時間かけて歩いたそうです。
それも、この聖蹟桜ケ丘の散策が始まりだと思います。
歩くことは、ステキな発見や出会いもあり、そして健康にもなる。
歩きましょう。
歩くことは、ステキな発見や出会いもあり、そして健康にもなる。
歩きましょう。
■宮崎駿監督が聖蹟桜ケ丘にいた頃年表
宮崎駿監督が「聖蹟桜ヶ丘」のズイヨー映像&日本アニメーション在籍近辺をまとめてみました。
※ピンク色で塗られた箇所が、宮崎駿監督が聖蹟桜ヶ丘(ズイヨー映像、日本アニメーション)勤務時代となります。
■聖蹟桜ヶ丘の開発
「平成狸合戦ぽんぽこ」でもテーマとなった多摩ニュータウンの開発1966年7月- 2006年3月ですが、桜ヶ丘団地の開発は1960年(昭和35年)に開発開始、1965年には販売終了と少し早めです。
監督が聖蹟に来た頃には桜ヶ丘団地は完成していたこととなります。
ちなみにですが、「耳をすませば」で図書館があり「シャニマス」のイベントでもよくでる「いろは坂桜公園」には、 1965年(昭和40年)ごろ「こどものくに」という公園があったとのことです。
今は立ち入り禁止の「耳丘」も、子供たちにとってはよい遊び場だったとのことです。
【画像リンク】こどものくに(多摩市デジタルアーカイブ)
■聖蹟桜ヶ丘の不思議なところ
宮崎駿監督が在籍していた「日本アニメーション」は「鎌倉裏街道」という歴史ある道の近くで、
近年でも蔵や古い屋敷がありました。また、桜ヶ丘団地に向かう途中にも史跡や神社があります。
宮崎監督は、仕事の合間をぬってこの道を通り桜ヶ丘団地近辺を探索したのではないでしょうか。
■桜ヶ丘団地が出るアニメ
桜ヶ丘団地といえば、「耳をすませば」で図書館や地球屋がある場所となります。
他の作品では
「まちカドまぞく」で主人公が住む場所のアパートの住所が「東京都多魔市桜ヶ丘4-X-Xばんだ荘202号室」
「アイドルマスターシャイニーカラーズ」では、主人公が桜ヶ丘から霞が関橋を通り駅の方に通うので、おそらく桜ヶ丘団地上に住んでいる設定となっています。
みなさまも、聖蹟に訪れた際には、聖地巡礼だけでなく、是非あちこち歩いてみてください。
なにか、不思議な体験がおきるかもしれませんよ
今後、随時更新していきます
宮崎駿監督が「聖蹟桜ヶ丘」のズイヨー映像&日本アニメーション在籍近辺をまとめてみました。
年度 年齢
宮崎駿監督と日本アニメーションに関わるもの
宮崎駿監督が関わった作品
1965年 24歳
[人物] 宮崎駿 結婚
東映作品(原画)
1970年 29歳
[人物] 宮崎駿 所沢市に自宅を移す
東映作品(原画)
1971年 30歳
[人物] 宮崎駿 東映からAプロダクションに移籍
ルパン三世(演出 4話以降高畑勲と共同)
1972年 31歳
[会社関連] 多摩市聖蹟桜ヶ丘に「ズイヨー映像」が設立
パンダコパンダ(原案 脚本 場面設定 原画)
1973年 32歳
[人物] 宮崎駿 ズイヨー映像(後の日本アニメーション)に移籍
[人物] 宮崎駿 「アルプスの少女ハイジ」製作のためスイスとドイツ約10日間のロケハン 7月
[人物] 宮崎駿 「アルプスの少女ハイジ」製作のためスイスとドイツ約10日間のロケハン 7月
1974年 33歳
アルプスの少女ハイジ(場面設定 画面構成 全話)
1975年 34歳
[会社関連]
ズイヨー映像のスタジオとスタッフをそのまま引き継ぎ日本アニメーション設立
1976年 35歳
母を訪ねて三千里(場面設定 レイアウト 全話)
1977年 36歳
あらいぐまラスカル(原画 19話分ほど)
ルパン三世(脚本絵コンテ演出 145話 155話)
ルパン三世(脚本絵コンテ演出 145話 155話)
1978年 37歳
未来少年コナン(監督、キャラデザ等 全話)
※TVアニメシリーズ初監督
1979年 38歳
[人物] 宮崎駿 日本アニメーション退職
テレコム・アニメーションフィルムへ
[人物]宮崎駿 鈴木敏夫と運命の出会い
テレコム・アニメーションフィルムへ
[人物]宮崎駿 鈴木敏夫と運命の出会い
赤毛のアン(場面設定 画面構成 15話まで) ルパン三世
ルパン三世カリオストロの城(脚本 監督 ここからテレコム) ※劇場アニメ初監督
ルパン三世カリオストロの城(脚本 監督 ここからテレコム) ※劇場アニメ初監督
1988年 46歳
となりのトトロ(原作 脚本 監督)
1995年 54歳
耳をすませば(制作 脚本 絵コンテ)
■聖蹟桜ヶ丘の開発
「平成狸合戦ぽんぽこ」でもテーマとなった多摩ニュータウンの開発1966年7月- 2006年3月ですが、桜ヶ丘団地の開発は1960年(昭和35年)に開発開始、1965年には販売終了と少し早めです。
監督が聖蹟に来た頃には桜ヶ丘団地は完成していたこととなります。
ちなみにですが、「耳をすませば」で図書館があり「シャニマス」のイベントでもよくでる「いろは坂桜公園」には、 1965年(昭和40年)ごろ「こどものくに」という公園があったとのことです。
今は立ち入り禁止の「耳丘」も、子供たちにとってはよい遊び場だったとのことです。
【画像リンク】こどものくに(多摩市デジタルアーカイブ)
■聖蹟桜ヶ丘の不思議なところ
宮崎駿監督が在籍していた「日本アニメーション」は「鎌倉裏街道」という歴史ある道の近くで、
近年でも蔵や古い屋敷がありました。また、桜ヶ丘団地に向かう途中にも史跡や神社があります。
宮崎監督は、仕事の合間をぬってこの道を通り桜ヶ丘団地近辺を探索したのではないでしょうか。
■桜ヶ丘団地が出るアニメ
桜ヶ丘団地といえば、「耳をすませば」で図書館や地球屋がある場所となります。
他の作品では
「まちカドまぞく」で主人公が住む場所のアパートの住所が「東京都多魔市桜ヶ丘4-X-Xばんだ荘202号室」
「アイドルマスターシャイニーカラーズ」では、主人公が桜ヶ丘から霞が関橋を通り駅の方に通うので、おそらく桜ヶ丘団地上に住んでいる設定となっています。
みなさまも、聖蹟に訪れた際には、聖地巡礼だけでなく、是非あちこち歩いてみてください。
なにか、不思議な体験がおきるかもしれませんよ
今後、随時更新していきます