宮崎駿監督と聖蹟桜ヶ丘

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宮崎駿氏は1973年(32歳)頃、日本を舞台にした映画(後のトトロ)を作るため、風景を探しに聖蹟桜ヶ丘周辺をずいぶんと見て歩きました。

宮崎駿監督と聖蹟桜ヶ丘

「となりのトトロ」の舞台設定といえば埼玉県所沢市近郊ですが、宮崎駿監督自身「物語の舞台は、実はいろいろなところから取っているんです。聖蹟桜ヶ丘の日本アニメーションの近くとか、自分が子どものころ見て育った神田川の流域とか、今住んでいる所沢の風景とか、みんなまざっちゃったんです。」とも語っています。実際のロケハンは聖蹟桜ヶ丘のみで行わまれました。
ここでは、「宮崎駿監督」と「聖蹟桜ヶ丘」の関係について、関連書籍を元にまとめていきます。

■続映画を旅する(小学館 1997/12発売) より引用


鈴木敏夫氏談

「(耳をすませばの主人公)雫の町は確かに聖蹟桜ヶ丘周辺をモデルにしています。というのも宮崎駿さんが多摩にあった日本アニメーションに勤めていた頃から親しく地のりのある町だったからなんです」

(桜ヶ丘団地のすぐ横に雑木林が鬱蒼と生茂っている丘がある)「じつはそのあたりをヒントに『となりのトトロ』が創られているんです」

「『トトロ』『ぽんぽこ』『耳をすませば』は私なりにスタジオジブリの多摩三部作だと思っています」

と、耳をすませばだけでなく、となりのトトロも聖蹟桜ケ丘がヒントに作られていると語っています。
この「桜ヶ丘団地」は、今でいう桜ヶ丘1丁目~4丁目あたりで、雑木林はおそらく多摩東寺方緑地のことかと思われます。
宮崎駿監督が「聖蹟桜ヶ丘」にある日本アニメーションに勤務されていたのは、1973年~1979年となります。

アイコンが日本アニメーション、ピンクが桜ヶ丘団地(桜ヶ丘1~4丁目)、緑が多摩東寺方緑地(=つまりトトロのヒント)となります。


さらに宮崎駿監督自身がこう語っています。

■トトロの生まれたところ(岩波書店 2018/05発売) より引用 編集


宮崎駿氏談

正確に言うと、所沢の地を見ただけで映画(となりのトトロ)を作ったわけではないんです。
(所沢に住みはじめたとき)そこにあった風景は、自分にとって特に珍しい風景ではなかったのです。

山の牧場を舞台にした「アルプスの少女ハイジ(1974年放送)」という作品を作っているときに、 画面構成をするうえで、そこに生えている植物や牧草地を描くために現地(スイスとドイツ)へ視察に行ったんです(1973年7月)。
そこで「日本の緑のほうがいいな」ということを実感して帰ってきました。

日本の風景のほうがはるかに豊かだと思ったんです。植物の種類が圧倒的に多い。いっぱい虫もいる。
その頃からです。前から日本を舞台にした映画を作らなきゃいけないというのは頭のどこかにあったけど、 実際に何が好きなのかと言ったら、植物が群れているところとか、虫が多いとか、抜いても抜いても生えてくる雑草とか、 そこに流れる、かつて自分たちが遊んだきれいな川とか、そういうものでできあがっている風景なのだとわかったんです。

もともとの日本は本当にきれいなところなんだと再認識したんです。

日本を舞台にするためには、今度は意識的に(風景を)つかまえ直そうと思いました。
その当時の職場(現在の日本アニメーション)は多摩(聖蹟桜ヶ丘)にあるのですが、 そこに多摩丘陵の農村地帯の残りがあって、仕事の合間にずいぶんと見て歩きました。

ニュータウンを作るためにもう更地になっているような尾根筋があったり、不思議な風景があったんです。


それから所沢でも、歩き回っていると次々と面白いものを見つけて、そういうときは頭のなかでそこに建っている新しい建物などを消すんです。そうするとだんだん、「ああ、これは形になるな」と。

(中略)

イメージを寄せ集めて、それを再構成していったんです。舞台を作っていくのはこことここだと。
(となりのトトロのイメージボードを)最初に描いたのは、たぶん30代の頃。

プロデューサーらに企画を出したのですが、全然相手にされないで戻ってきて、そのままスクラップブックを書棚に放り込んでじっとチャンスを待っていました。
当時、ぼくは自分でレイアウトという新しい仕事を切り開いていたのですが、このまま生涯レイアウトをやっているのは嫌だと思っていて、 どこかで自分のお金でもいいから1本、「これが俺が作りたかったものだ」というものを作りたいと思って、 そっと置いておいたのがこの企画だったんです。

(以下略)


つまり1973年、聖蹟桜ヶ丘のズイヨー映像(後の日本アニメーション)在籍の宮崎駿氏が「アルプスの少女ハイジ」のロケ班でスイスやドイツに行ったが、日本の方がはるかに豊かできれいだと認識し、この日本を舞台にした映画を作るため、まずは職場近くで風景を探し始め、そこで不思議な光景に出会った。

そして家の近の所沢でも歩くようになり、トトロの形が固まっていった。


この「聖蹟桜ヶ丘での探索」での体験が、となりのトトロの作品作りに大きく貢献したのでしょう。 もし聖蹟に日アニが映ってなかったら、トトロは生まれていなかったかもしれません。

トトロと聖蹟桜ヶ丘については、「出発点(元はとなりのトトロ ロマンアルバム)」という本こうも語っています。

■出発点(徳間書店 1996/07発売) より引用 編集


―宮崎さんは、「となりのトトロ」の舞台設定をどの あたりと考えていたんですか?

宮崎:物語の舞台は、実はいろいろなところから取っているんです。
聖蹟桜ヶ丘の日本アニメーションの近くとか、自分が子どものころ見て育った神田川の流域とか、今住んでいる所沢の風景とか、みんなまざっちゃったんです。
それに美術の男鹿和雄(おがかずお)さんが秋田の出身だから、なんとなく秋田、なってるんですよ(笑)。だから具体的に場所を決めいうわけではないんですね。


―ロケハンというのはやったのですか?

宮崎:ロケハンは、実は日本アニメーションの裏のほうに、一日ぐらい行っただけです。男鹿さんと作画監督の佐藤好春さんと三人で。
あと男鹿さんが自分の足でそこを何回か見に行ってます。日野市に住んでるんで近くなんです。男鹿さんはずいぶん見て、だから美術の人は大変だったですね。
雑草描くというのは本当にたいへんですよ。生え方もランダムですしね。

(中略)

「トトロ」に出てきたようになっているクスノキはけっこう多いんですよ。日本アニメーションの近くにも、一本だけポコッと生えてる古そうな木があったんです。


トトロで出てくる雑草も、聖蹟桜ヶ丘の雑草だったのですね!


宮崎駿氏と聖蹟桜ヶ丘については、以下の書籍や記録にも記載されています。

■少年マガジン 1995年7月19日号 No.31(講談社) より一部引用


宮崎「今回は僕が、30代にずっと通ってた聖蹟桜ヶ丘の街をモデルにしました。
坂道にある風景というのは、面白いんですよ。当時は、わざわざ遠回りをして坂道を歩いたりしたものです。夜景がとてもきれいでね。
多摩川が真っ黒になってそこだけ光がないとか、夜明けに新宿の副都心がモヤの中から現れる瞬間とか、この映画に出てくるような風景は実際に見てるんですよ。
で、今回久しぶりに聖蹟桜ヶ丘に行ったんですけど、ずいぶんビルが増えてたんで、10年くらい前に戻しました」

■もののけ姫 ロマンアルバム(徳間書店) 1997/11/1 より一部引用


ちなみに、『耳をすませば』の舞台のモデルは、東京都多摩市にある聖蹟桜ヶ丘という駅を中心とした街である。

宮崎:「あれは僕が日本アニメーションというプロダクションにいた頃に、徹夜明けで帰ってくる途中に見た風景が元になっているんです。
朝帰りでね。カットが進まなかったな(笑)とかいろんなことを考えながら、あの風景を見ても、あまり響くものはなかったんじゃないかって思いますけど、 でも、もし本当にそうだったら、徹夜明けの疲れた時に立ち止まらないよね。いつか、ここを舞台にできたらいいな・・と思って、行き帰りにずいぶんロケハンをやったんですよね。何に使うかわからないけど、聖蹟桜ヶ丘の街を」

■鈴木敏夫のジブリまみれ 2016/05/30 「人工知能と仮想現実 vol.3」より一部書き起こし引用 編集


鈴木:『耳をすませば』この映画は、日本に現実にある街、 聖蹟桜ヶ丘っていう町があるんですけれどね。
宮崎駿がこの街のことをすごくよく知ってて。というのは、若い時、彼はそこの街で働いてたんですよ。
その街を舞台にしようと。で、全部彼、覚えてたんですね。
それで、その1本の映画の中に、その街の底かし、こう、細かいところまで全部表現してあるんですよ。

意図的にやったことが1個あります。1本の映画の中で、 同じシーンを、同じシーンね、バックグラウンド最低3回出したんですよ。
それで、実際の風景は、 例えば図書館でもなんでもね、町があるじゃないですか。そしたら、その本物の風景から、
電線を減らしたり、看板を減らしたりして、本物なんだけど、ちょっと加工を加えたんですよ。

で、映画を見た人はね、 当然なんだけれど、その街を体験したんですよね。そうです、うん。で、その結果、何が起きたか。
その映画の公開中から、それから、映画を公開したとも、もう若い人がいっぱいその街に押しかけたそうで、未だに続いてますね。

やっぱ3回出すっていうのはね、 やっぱり印象づけるためだったんですよね。
だから、現実にある街なんだけれど、それをモデルにしながら、 なんて言うんだろう、架空の街を作ったんですよね、宮崎は。
で、多分ね、そんだけ若い人が押しかけたっていうことは、やっぱり宮崎の試み、もくろみは成功したんですよね。

宮崎駿監督は、聖蹟桜ヶ丘をしっかりと見て歩き、その風景を記憶に残していたのですね。

『耳をすませば』の舞台は、宮崎監督が通勤していた1970年代の聖蹟桜ヶ丘と、ロケハンが行われた1994年頃の聖蹟桜ヶ丘がモデルになっていると思われます。
ただ、宮崎監督は「ビルが増えたので10年前に戻した」と語っており、この「10年前」は『となりのトトロ』のロケハンが行われた1987年頃を指していると考えられます。

聖蹟桜ヶ丘の「京王ショッピングセンター」は1986年に開業し、劇中にも象徴的に登場しています(王冠マークのある駅ビルで、王冠マークは劇中に6シーン登場)。<このことからも、『耳をすませば』のモデルとなったのは少なくとも1986年以降の聖蹟桜ヶ丘だと考えられます。現在では確認が難しいですが、1995年頃の川崎街道には、劇中よりもマンションが多かった印象があります。

ちなみに、1970年代の聖蹟桜ヶ丘は「いろは坂」が完成したばかりで、木々の高さがまだ低く、坂から新宿副都心や池袋のサンシャイン60がよく見えたそうです。
宮崎監督が勤務していた当時、聖蹟桜ヶ丘駅の改札は現在より東側にあり、劇中の「ホームの屋根のない部分」は70年代は存在していました。また、劇中で猫を失う場所(現在のファミリーマート付近、作中では塾と本屋がある建物)には、実際に「自由書房」という本屋があったそうです。


聖蹟桜ヶ丘と宮崎駿氏の年表

1962年 桜ヶ丘住宅街の開発、分譲開始
1966年 金比羅宮が現在の場所に再建
1969年 聖蹟桜ヶ丘駅が高架化 いろは坂もこの頃?
1972年 東寺方団地(『耳をすませば』の雫の団地のモデルの一つ)入居開始
1973年 ズイヨー映像(後の日本アニメーション)が聖蹟桜ヶ丘に移転、宮崎駿氏(32歳)が勤務開始
1978年 『未来少年コナン』放映、近藤喜文氏が日本アニメーションに合流
1979年 『赤毛のアン』放映、宮崎駿氏が日本アニメーションを退社
1986年 「京王ショッピングセンター(せいせきA・B館)」オープン
1988年 『となりのトトロ』公開
1995年 『耳をすませば』公開




最後に…宮崎監督のお弟子さんでもあるアニメーション監督の「飯田馬之助」氏。
2010年11月に49歳という若さで亡くなられました。

告別式で、宮崎監督が弔事を述べられています。


宮崎駿: 飯田勉(本名)君をおくる。

馬之助、馬さん、馬!
なんでせっかちにいっちまったんだ。

だから言ったんだ歩けって、少しは足を使えって。
ぼくに弔事を読ませるなんて順序が逆だろう。


宮崎監督自身、歩くことが好きだそうで、一時自宅からスタジオジブリまで3時間かけて歩いたそうです。 それも、この聖蹟桜ケ丘の散策が始まりだと思います。

歩くことは、ステキな発見や出会いもあり、そして健康にもなる。

歩きましょう。




■宮崎駿監督が聖蹟桜ケ丘にいた頃年表詳細

宮崎駿監督が「聖蹟桜ヶ丘」のズイヨー映像&日本アニメーション在籍近辺をまとめてみました。
年度 年齢
宮崎駿監督と日本アニメーションや聖蹟に関わるもの
宮崎駿監督が関わった作品
1965年 24歳
[人物] 宮崎駿 結婚
[土地] 桜ヶ丘住宅工事が完了
東映作品(原画)
1967年 26歳
[土地] 開発のため「金比羅宮」現在の場所に
1969年 28歳
[土地] 聖蹟桜ヶ丘駅 高架化
1970年 29歳
[人物] 宮崎駿  所沢市に自宅を移す
東映作品(原画)
1971年 30歳
[人物] 宮崎駿 東映からAプロダクションに移籍(近藤氏と出会う)
ルパン三世(演出 4話以降高畑勲と共同)
1972年 31歳
[会社関連] 多摩市聖蹟桜ヶ丘に「ズイヨー映像」が設立
[土地] 東寺方・愛宕団地入居開始
パンダコパンダ(原案 脚本 場面設定 原画)
1973年 32歳
[人物] 宮崎駿 ズイヨー映像(後の日本アニメーション)に移籍
[人物] 宮崎駿 「アルプスの少女ハイジ」製作のためスイスとドイツ約10日間のロケハン 7月
1974年 33歳
 
アルプスの少女ハイジ(場面設定 画面構成 全話)
1975年 34歳
[会社関連] ズイヨー映像のスタジオとスタッフをそのまま引き継ぎ日本アニメーション設立
 
1976年 35歳
 
母を訪ねて三千里(場面設定 レイアウト 全話)
1977年 36歳
 
あらいぐまラスカル(原画 19話分ほど)
ルパン三世(脚本絵コンテ演出 145話 155話)
1978年 37歳
[人物] 近藤喜文 日本アニメーションへ
 
未来少年コナン(監督、キャラデザ等 全話) ※TVアニメシリーズ初監督
1979年 38歳
[人物] 宮崎駿 日本アニメーション退職
   テレコム・アニメーションフィルムへ
[人物]宮崎駿 鈴木敏夫と運命の出会い
赤毛のアン(場面設定 画面構成 15話まで) ルパン三世
ルパン三世カリオストロの城(脚本 監督 ここからテレコム) ※劇場アニメ初監督
1988年 46歳
となりのトトロ(原作 脚本 監督)
1995年 54歳
耳をすませば(制作 脚本 絵コンテ)
※ピンク色で塗られた箇所が、宮崎駿監督が聖蹟桜ヶ丘(ズイヨー映像、日本アニメーション)勤務時代となります。


■聖蹟桜ヶ丘の開発

「平成狸合戦ぽんぽこ」でもテーマとなった多摩ニュータウンの開発1966年7月- 2006年3月ですが、桜ヶ丘団地の開発は1960年(昭和35年)に開発開始、1965年には販売終了と少し早めです。
監督が聖蹟に来た頃には桜ヶ丘団地は完成していたこととなります。

ちなみにですが、「耳をすませば」で図書館があり「シャニマス」のイベントでもよくでる「いろは坂桜公園」には、 1965年(昭和40年)ごろ「こどものくに」という公園があったとのことです。
今は立ち入り禁止の「耳丘」も、子供たちにとってはよい遊び場だったとのことです。

【画像リンク】こどものくに(多摩市デジタルアーカイブ)


■聖蹟桜ヶ丘の不思議なところ

宮崎駿監督が在籍していた「日本アニメーション」は「鎌倉裏街道」という歴史ある道の近くで、
近年でも蔵や古い屋敷がありました。また、桜ヶ丘団地に向かう途中にも史跡や神社があります。

宮崎監督は、仕事の合間をぬってこの道を通り桜ヶ丘団地近辺を探索したのではないでしょうか。


■桜ヶ丘団地が出るアニメ

桜ヶ丘団地といえば、「耳をすませば」で図書館や地球屋がある場所となります。
他の作品では
「まちカドまぞく」で主人公が住む場所のアパートの住所が「東京都多魔市桜ヶ丘4-X-Xばんだ荘202号室」
「アイドルマスターシャイニーカラーズ」では、主人公が桜ヶ丘から霞が関橋を通り駅の方に通うので、おそらく桜ヶ丘団地上に住んでいる設定となっています。

みなさまも、聖蹟に訪れた際には、聖地巡礼だけでなく、是非あちこち歩いてみてください。
なにか、不思議な体験がおきるかもしれませんよ

今後、随時更新していきます