「狐 小 隊」  


三月のお題「友」


 車を呼ぶと言われたが、月が出ているので駅まで歩く事にした。
 この辺りでは昔から悪い狐が能く人を誑かす、充分にお気を付けなさい──と年配の作家が真顔で白い眉に唾を塗るまじないの仕種をして見せる。それぁ先生、お白粉の下が毛むくじゃらの質の悪い狐でしょう──と赤ら顔の随筆家が割れ鐘のような声で哄笑う。一緒に笑えば善いものを、何となく笑いそびれて片付かない具合のまま曖昧な辞去の挨拶を残し、私は馴染みの無い小料理屋を出た。
 一歩出ると表は座敷の喧噪とは打って変わった淋しい通りである。東京の真只中でありながら、まるで深夜の山奥のように人の気配が無い。其れでいて、其処此処に多く残されている林や薮の生み出すじっとりと重い闇の底に、何やら得体の知れぬものの濃密な気配が在る。狐狸も棲むだろう。昔からの稲荷社なども彼方此方に残っている土地だ──とこれは昼間のうちに友人に聞いた話である。湿気の中でふやけたように大きく低い夏の月が街灯すら無い見通しの悪い道を照らしてくれているのが、それでも唯一の頼みであった。
 妙な勾配で下っては上がり、脈絡も無く人家が現れ空き地が覗き薮が続く無節操な風景の中を長々と歩き続けるうち、私はこんな調子で本当に繁華な駅前に出られるものかと不安になって来た。教えられた道順は単純なものであったし、場所柄どう方角を間違えてもさしたる手間もなく人気のある界隈の何れかには出る筈なのだが、一向に先の見通せぬ歪んだ坂の続く道程と蒸し暑さに、私の乏しい忍耐力は尽きそうになっていた。
 でこぼこと長い生け垣の角を俯いたまま曲がる。
不意に水気を含んだ涼しい風が正面から吹きつけて来る。風はすっかり汗ばんでいたシャツの背を心地よく抜けて行く。ほっとして顔を上げると、視界が明るく開けていた。
湖。

広々と蒼い水面が眼下に密やかに輝いている。

まさか。
いくらなんでも、こんな街中に湖というのは有り得ない。
溜め池だろうか。
広く見えるが、もやもやと暗い対岸は夜目に実際よりも遠く感じるのだろう。
再び風が対岸から吹くらしく、銀色の波がさわさわとこちら側に向けて寄せて来るのが見え、涼しい風が首筋を抜ける。清しい風に吹かれながら、しかし私はじりじりと皮膚が内側から擦られる様な違和感に囚われていた。
変だ。水の動きが、水らしくない。
まるでそれは、何か獣の長い毛足が靡く様な、

「ぎゃん」
 出し抜けに、背後で異様な鳴き声が起る。
私は飛び上がった弾みで数歩坂を駆け降りて仕舞った。
「ぎゃん」
 同じ声が、直後にずっと遠方から聞こえる。
子犬の声に似た、しかし、おそらく犬ではないだろう。
犬の様な、何か。何だろう、狐、狢、狸、鼬──
然し私は野生の獣の鳴き声など実際に耳にした経験は無いので、今の声が其れ達のものとも何とも判別する事は出来ない。私は其の儘そろそろと坂を降り、非現実的な質感の水に近付いた。風がゆるゆると水面を銀色に波立たせる。
その波は、水ではなくて、

植物だ。
空き地に雑草が生い茂っているのかとも思ったが、どうも様子が異なる。植物は細い葉をぴんと真直ぐ天に向けて突き立て、行儀善く同じ丈で生え揃っている。稲らしい。

湖と見えたのは月の光に明るく照らされた稲田であった。
その葉が風に撓み水の様に月の光を跳ね返す。
未だ穂は出ておらず、細い剣を植え込んだ野の様だ。
湖ではなく田圃と分かって束の間安堵したものの、それでも奇妙は奇妙である。陸稲ではなく、道沿いに溜った本物の水がきらきらと月の光を反射する堂々たる水田だ。水田は灌漑の設備が必要であるので、普通一つだけ町中にしかも斜面の途中に作る例はあまりない。食料の乏しかった戦中戦後は都心も所構わず野菜を作る畑にされてしまったが、流石に本格的な水田を興してしまったという所は少ないだろう。稲作は手間がかかり過ぎるのだ。
私は場違いな水田の、整った獣の毛並みのような輝きを呆然と見詰めた。

 また風が来る。
鈍い銀の細かなさざめきが草面に満ちる。
私は彼方から寄せ来るうねりの中に、
ぽつんと佇む小さな影を見た様な気がした。
背を屈めた頼り無い細い輪郭が、
半身を叢陰に隠して悄然と立つ。
昏いうえに遠くて距離感すら掴めないが、
見覚えの有る様な姿だ。
頭の横に垂らした布の様な物がぱたぱたと風に煽られる。
背嚢らしき荷が背の形を異様に膨らませている。
前方に向けて低い角度で突き出された銃剣の先端が、
月の光に鈍く光る。

あれは──。

「△△っ、」
 長い間口にされる事の無かった名が私の口を突いた。
嘗て私の部下だった、年若い兵士の名だ。
時々本などを持って来ては、恥ずかし気に其処に書かれた難しい言葉を私に尋ねた少年の横顔が、蒼い淡闇に蘇る。

風がざっと草面を揺らす。

気が付くと、田の中にはいくつもいくつも同じように身を屈め痩せ細った兵士の影が並んでいた。
皆覚えがある。皆近しい者達だ。
□□。◯◯。
私は部下だった兵士達の名を次々と呼ぶ。
共に戦火を潜った同士達の名を叫ぶ。
彼等は揺らぐ稲の間に脚を埋め、少しづつ前進している様である。対岸にある森に入って身を隠すつもりなのだ。
月光を浴びた全身が仄かな蒼い炎に包まれて揺らめく。
銃剣の先端がぎらり、ぎらりと鈍く月の光を反射する。
──不可ない。
森の中から見れば遮るものの無い水田は丸見えだ。
逆に月に明るく照らされた水田からは、暗い森の奥は見えない。そこに敵が潜んでいても判りはしない。
そして──実際あの密林には敵が潜んで居たのだ。
私の率いていた小隊は森の中で待ち伏せた敵の攻撃を受け、壊滅的な死の敗走に追い遣られた。
彼等はそれを知らないのだ。
彼等は其の儘一人残らず命を落として仕舞ったのだから、
だから、誰もその事を知らないのだ。
止めなければ。
私が、その事を知らせて部下達の命を救わなければ。
「△△、□□、駄目だ、そっちに行っちゃだめだ、」
 私は道路から水田に飛び込むと、声を張り上げて彼等に向かって駆け寄ろうとした。成長した稲が根を固く張っているので水も泥も深くはない。それでも私は滑る地面に激しく足を取られ、足掻くようにして遮二無二身体を進めなければならない。腿を打つ稲の列が行く手を阻む。
「戻って来い、そっちに行ったら死んでしまう。
おおい、戻ってくるんだ、」
 一団の兵士達は私の叫びが聞こえないかのように、
黙々と前進を続ける。
「命令だッ、これは命令だぞ、戻って来い、
行っちゃ──だめだ」
 私の掠れた叫び声は届かない。
彼等は行ってしまう。
必死に追い縋ろうとする私に目も呉れず、
銀色の草面を粛粛と進み、
皆あの時と同じ様に私一人を置いて行ってしまう。
厭だ。
一人にはなりたくない。
置いて、いかないで。
私も連れていって呉れ。
私も一緒に──


 がくん。
激しい衝撃を肩に受け、私は仰向きに転倒した。
ざざざ、と尖った葉が身体の下に敷き倒される。
手足が瞬く間にぬるぬるした暖かい液体に覆われる。
振仰いだ大きな月の前を、湿り気を帯びた薄い雲が縺れ合い、不可思議な模様を描いて流れる。

私は横たわった儘肩を大きく上下させて呼吸する。
銃撃された筈なのに何故銃声が聞こえてこないのだろう。
潮騒に似た葉擦れの音ばかりが私の周囲を満たしている。
湿っぽくて、暖かくて──此処にこうして横たわって月を見上げているのは、なんだか悪い気分ではない。
妙に懐かしい様な心持ちすらしてくる。
死ぬ時というのは生まれて来る前に似ていると、以前誰かが言っていた様な気がする。

「おい──大丈夫か」
 いきなり不粋な大声が私の頭上で響き、丸い月を大きな四角い影が遮った。
「木場軍曹、」
 私はその無骨な輪郭を見上げたまま、最も頼りとする年上の部下に向かってうわ言の様な掠れ声を絞った。
「みんなを止めて呉れ。あのまま進んで行ったら全員死んでしまう、皆それを知らないんだよ。ぼ、僕じゃ駄目なんだ、みんなを止める事は僕には出来なかった」
 いってしまう、あのままみんないってしまう。
「お願いだ、きみ、君なら止められるだろう。はやく彼等を連れ戻して、み、みんな、みんな、死んでしまう──」
 眉を顰め、鋭い目を更に細めてじっと私の訴えを聞いていた軍曹は、やがてゆっくりと言った。

「もう、死んでンだよ」
 そんな。
横たわった身体が、じん──と重く沈み込みそうになる。
月を負った黒い影が私に覆い被さる様にして囁く。
「連中はみんな死んでんだ、もう、とッくの昔に死んでんだよ。今生きてんのは俺と──貴様だけだ。手前、そんなに死人の仲間に成りてぇのか?えぇ、アイツらと一緒にいきてぇのか──」
 そうだ。このままこの暖かい泥の中に沈めて貰えたら、私は皆に追い付く事ができるのかもしれない──

 木場は目を閉じそうになる私の肩を激しく揺さぶると、いきなり大柄な身体にそぐわぬ甲高い地声を張り上げた。
「寝ぼけてんじゃねぇぞコラ関口、目ェ醒ましゃがれ。
手ぇ焼かすな、本当に埋めちまうぞこのタコッ!ボケ」
「き、きば」
 上官を呼び捨てにしたり、タコ呼ばわりして罵倒する軍人などいない。この漢は叩き上げの職業軍人木場軍曹ではない、ここにいるのは、

「木場修、」
 公僕とはとても言い難い無謀な友人、木場修太郎。
「だ、旦那、何でここに?」
 木場はおう、気が付いたか、と白い歯を剥き出すと、私の肩を引いて起き上がらせた。
「そりゃあ俺の台詞だぜ。何っ処か痛むとこ無ぇか?」
 痛い事は痛い。
「ふん、痛ェと感じるうちは大丈夫だって。何処が?」
「肩」
 木場は私の肩を万力のように捩じ上げていた自分の手を放し、その手で短く刈られた頭を掻いた。彼の縒れた開衿シャツの半身とズボンにも泥が筋になって付いている。田圃を徘徊する私に追い付きざま、肩を掴んだ勢いが余って一緒に滑ったのだ。真直ぐ生え揃っていた稲が私達の周囲だけ横倒しになっている。私は漸く現実感を取り戻した。
「うん、雑誌社主催の会合があって──駅に行こうと思って歩いていたら、迷ったみたいだ。ちょっと飲んでたし」
 その席で編集者の一人が各作家の戦争体験談を特集した号を出したらどうだろう、といった話を持ち出したのだ。余り快い思い付きではなかったが、やはり無意識のうちにその件を想い詰めながら歩いていたのだろう。遠くなっていた筈の記憶が、月の照らす水田に再び立ち現れる程に。
「迷っちゃいねぇよ、この坂降り切ったらもう駅前だ」
 木場は手を水平に広く振って見せた。
「此処らぁ一応俺のシマだからな。たまたま今日は居残って他所の部署で駄弁っていたんだ。ちっと前、警邏中の巡査が不審な男が田圃ン中で騒いでいて様子が変だから応援回してくれ、と署に言って来てな」
 そういえば、木場は最近事情があって警視庁から麻生署に転任になっていたのだ。しかも相当閑らしい。
「妙に連中及び腰なもんだから、ヤク中か、と聞いたら、狐憑きらしいとか抜かしやがる。なんでもこの辺には昔からそういうのが多いんだと。へっ、狐憑きなら腕っこきの拝み屋に心当たりがあるから頼んでやろうか、どんな様子だ、と揶揄ったら──その巡査、その酔っ払いが呼ばわってるって名前をずらずら挙げやがった。驚いたぜ、俺が知っている名ばッかりじゃねぇか、然もそれを全部知ってる野郎はもう日本中で俺の外一人しかいねぇ」


 △△。□□。◯◯。──
私が呼び続けた、今は何処にも居ない者達の名前の列。
 木場は道路の方に身体を向けると、其処で成り行きを見守っていたらしい人影に手を振って見せた。月明りの下で自転車を支えた人物と連れが、安心したように道路の上から手を振り返す。制服警官なのだろう。
「あいつ達にゃ、そいつぁ俺の知り合いで偉い作家先生様よ、物書きに入れ込んじまうと現実と本がごっちゃンなっちまって頓狂な事をやらかすが、危ねぇ輩じゃあねえ、俺が保証するからと言っといた──なあ関口。お前さんその会合とやらで別にアヤシい物とかやっちゃあいねぇよな」
 通常摂取量を越すアルコホル以外特に怪しい物を摂った覚えはないが、妖しい物には遭ったような気がする。
「坂の上で狐が」
「あン?」
「子犬みたいな鳴き声がした。あれが狐──なのかな」
「そりゃ、鷺だサギ。」
「さぎ?鳥の?」
 いくら月があるとはいえ、鳥が夜に出るのだろうか。
「俺も最初は驚いたぜ。灰色のでっかい鳥が気味悪い声で啼きながら夜飛ぶんだからよぉ」
 灰色──五位鷺か、蒼鷺なのだろう。
鈍く光る長い嘴が銃剣の先の様に見えなくもない。
「この田圃に餌を捕りに来るのか。でも妙だね、何でこんなところに田圃が?」
 木場は最前私が降りて来た坂の上の生け垣を指差した。
「あすこの爺さん、もともと東北の出身で田圃が懐かしンだそうだ。戦争中畑にしていたこの土地を水田にしてあの屋敷から眺めたら好い景色だろうってんで、まあ道楽だァな、庭園代りだとよ。御身分だな」
 確かに、稲の波打つ水田は美しい。
金の穂が出たら更に素晴らしい風景になるだろう。
その列を乱して、私の身体が稲を押し分けた跡と転倒した痕跡が不様に残っている。木場は私の付けた跡を辿って一緒に転んだので、田には私の残した跡しかない。
矢張りこの田には初めから人間は誰も居なかったのだ。
「悪い事したな、綺麗な田圃だったのに」
 あの南方の小さな村の水田を、この田とは比較にならない程私達は荒らしてしまった。否、田ばかりではない。
 木場は道路に立つ巡査達の方に目を遣る。
「明日ンなったら、上の屋敷に連中を行かせるからよ。酔っぱらいが田ンぼに転けて荒らしちまったけど被害届出すか、ってな。まあそこまで爺さんも言うまいよ」


見遥かす草面は鏡のように静まり返っている。
蒼い光を湛える風景の中に動く物はない。
背を屈め嘴を傾けて餌を狙う蒼鷺も、
対岸の森を目指して歩き続けていた兵士達の幻も、
何一つ見えない。
もうみんないない。
私とこの男を残し、みんないってしまった。

「駅の水道で泥流そうや、その格好じゃあ女房が腰抜かすぜ。第一電車に乗れやしねぇやな、なあ関口──」
 木場が、私を振り返って言う。

「帰ろうぜ」

 あの時も、この男は私に今と同じ言葉をかけたのだ。


─ 狐小隊 終 ─


2000年03年



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