「贄 の 列」  


二月のお題「血」


 裏通りの書店を出てから昏い路地ばかりを歩き続けているうちに、私は自分が何処に居るのかさっぱり見当がつかなくなっていた。
一旦こうなって仕舞っては、本の包みを小脇に抱えたまま頓着しない様子ですいすいと足を進める連れの、痩せた影にただ付いて行くより他はない。彼の薄い肩を包むインヴァネスは同居している祖父のお譲りとかで、歳の割には古風な出で立ちである。然し同年輩の私達からしてみれば老成した雰囲気の男には、そんな古めかしい成りが思いの外似合ってもいる。私の方はといえば休日も平日もない擦り切れた制服外套で、寒の厳しい如月とはいえ風の無い穏やかな夜であるのが実際有り難かった。
 ほら、出たよ──と、前を行く友人が不意に言った。
路地の先が途切れ、薄明るい闇が細長く口を開けている。
何の事だか判らず目を凝らしていると、その闇の中をぼんやりとした光がふらふらと横切った。
またひとつ。
またひとつ。
地上三尺ばかりの高さを、曖昧な光の塊がいくつもいくつもひどくのろのろとした動きで通り過ぎて行く。

──狐火。

まさか、こんな街の真ん中で。
立ち竦んでしまった私の方を振り返りもせず、
友人はずんずんとその怪しい光の方へ進んで行く。

 路地の尽きた先は、可成り広い道になっていた。
ざわざわと一気に人声が周囲に満ちる。
出た、というのは化け物の事では無く、どうも通りに出たという意味だったようだ。
街路沿いに大勢の人が立ち並び、口々に声を上げている。
通りの中央では今しも丸い燈を手にした人々の長い列が、
威勢の善い掛け声も伴わず、蕭々とした囃子と共にゆっくりと流れて行く。
近くの神社の小正月の祭礼をしているのだ、と無闇と神社仏閣故事来歴に詳しい連れが説明する。どうやら此れが目当てで酔狂な友人は心細い迷路の様な路地を、私を此処まで引っ張り回したのだ。
それでも祭りならば夜店なども出ているだろうと、少しばかり嬉しくなる。見物の人垣に交じって立つ連れの方を振り向き、私は声をかけようとした。
口にしかけた言葉が止まる。
暗い色の二重回しの襟に顎を埋めるように俯いた友人は、凝っと視線だけを通りに据えている。
何かその姿勢の固さが、人というより彫像めいて見える。
やがて黒っぽい彫像は酷く冷たい声を吐いた。
「莫迦が」
 その言葉は私に向けられたものではない。
はっとして、彼が睨んでいる穏やかな祭りの行列に目を遣る。人波の中にぼんやりと点る灯に、墨で黒々と記された文字が幾つか見て取れる。町内会の連の名前に混じって、
祈念の文言などが書き付けられているのだ。
「武運長久」「戦勝祈願」「代天伐不義」「大東亜共栄」
 私は薄い外套の下の身体が冷えて行くのを感じた。

 学内でも偏屈で通っている友人は、事有るごとに私だの
周囲の知り合いだのを、ばかだの愚かだの口を極めて罵っ
ては常に機嫌良く怒っていた。さりながらさんざん詰った挙げ句、毎度事態を収拾してくれるのも結局は彼であったから、私も含め友人連中は彼の怒りは彼にとっての一種の娯楽であると理解している。一見取っ付きは悪いが、腹の底は朗らかとすら言える男なのだ。
 しかし、昨年の師走。
米国との開戦の報に、冬期休暇直前の血気盛んな学生達は沸き返り、愛国の気概に溢れた気炎を上げた。
その割れる様な騒ぎの中で、彼は今と同じ様な冷たい調子で一言、莫迦が──と呟いた。
 私は、ただただ恐ろしくてたまらず、黙っていた。

 人垣の中で低い声が続く。
「──馬鹿だよ。連中は自分達が何を奉っているのか知りもしない」
「いくらなんでも氏子だもの、地元の神社の祭神くらい知っているだろう」
 私はそれでも精一杯平静を装い、友人の言葉に普段の会話と同じ調子で答えようとする。
「違うよ、彼等が今担ぎ出しているのは長年親しんだ地元の神様なんかじゃあない」
「じゃあ何だい」

「人々の血の生贄を貪って止まない畏ろしく強大な神さ。
これまでやっとの思いで封じ込めていた邪神を、軍部は列強の徴発に乗せられてとうとう地上に降ろしてしまったのだ。僕達にはこの魔神の蹂躙を押しとどめる力は無い、最後の血の一滴まで奴に捧げ尽す事に成るのさ。勿論、君の血もだ」

 法被を着て肩車された幼児の掲げた提灯が、私達のごく間近を横切った。
友人の顔を照らした灯が、一瞬鋭く細められた目の下にくっきりと暗い隈を描き、別人の様に憔悴した輪郭を陰に刻んで浮き立たせる。
私は息を呑む。
仄かな光は瞬時に通り過ぎ、再び私達は薄闇に沈んだ。

「ぼ、僕は──僕達はだって、学生じゃないか。兵役は免除されている」
 はずだ、という語尾が喉で閊える。
「学生だろうが女学生だろうが、その内直ぐに駆り出されるに決まっている。対手の力を考えれば判りそうなものじゃあないか。此れからの戦の相手は世界一物量に富む米国だ。こちらの兵力なんてあっという間に底を尽いてしまうだろう、そうしたら真っ先に差し出されるのは僕達さ。
この戦争が長引けば子供も老人も女も皆、何れ血の贄となって自分達が担いだ神に喰らわれてしまう」

 提灯を掲げている行列の中には、幼い子供や老人、年若い女等も多く居るようだ。灯明の乏しい光源ではそれぞれの目鼻立ちは判然とはし難い。ただ白っぽい顔ばかりが、
ゆらゆらと丸い灯の上を幾つも幾つも漂っている。その列が何処迄も何処迄も、覚束ない足取りで何処か先の見えない暗い方角へと、ぞろぞろぞろぞろ引かれて行く。

 私達は全員が氏子なのだ。
大日本帝國國民は悉くこの畏ろしい神に隷属する民であり、その神が如何に暴虐であろうと、現世に降臨した以上は贄を捧げ続けなければならないのだ。

「元はと言えば中国大陸の利権を巡る局地的な争いが、ここまで拗れて仕舞ったのだ。何れ程卑屈と罵られようと卑怯な策を弄しようと、多数の無辜の民をむざむざ血の贄に捧げる道だけは回避する手段が有った筈だ、その程度の外交が出来ぬとなれば文明国家を標榜するなどお笑いぐさだ」
 それは敵国と言えど同じ道理の筈だった。
私も周囲に聞こえないように声を押し殺し、冷たく憤っている友人に同調した。
「蒋介石は帝国陸軍学校に留学もした人物だろう。嘗て西安事件で学生連中に脅されて変節させられた様な男を、
帝国陸軍が懐柔出来ない筈がないじゃないか。本邦が誇る陸軍情報部は、大陸で一体何をしていたんだろうね」
「今更繰り言を言っても遅いがね。全てに変えても封じておくべき荒ら神は、連中の怠慢からか無意味な意地の張り合いからか──兎に角既に解き放たれてしまった。
もう鎮める術は無い」
「何故、そんな事に──」

「たのしいからですよ」

 耳許でいきなり、聞き慣れぬ深い声が響いた。

今のは。いまのは。今のは。
いまの聲が──

不意に私は躯の芯を失い、
波に崩折れる砂の塔の様にさらさらと拡散して、
そのまま聞き取れないざわめきの一つとなって群集の中に溶けて消えていく──





「──くん。君、しっかりしたまえ」
 喧噪の中に一際善く通る声が響き、私という砂粒をざわめきの中から危うく掬い挙げた。
最前まで険悪な表情をしていた友人が、私の肩をきつく掴んだまま今度は戸惑った様な顔で覗き込んでいる。

私は雑踏の中で気を失いかけていたようだ。
「大丈夫かい。もう──すっかり良くなったものと思っていたが」
 私は一昨年の秋以来、長きに渡り原因不明の酷い鬱状態に苦しんだのだ。彼は人込みの中で急にふらついた私の様子に気付き、そのフラッシュ・バックを案じたのだろう。
私は首を振りながら、少し笑んでみせようとした。
「大丈夫──そうじゃないんだよ、今の──」
 言いさして通りに目を遣ると、行列は変わり無く緩やかに流れている。その黒っぽい人波の中に神社の神官だろうか、この寒空に真っ白い羽織の姿勢の佳い背中が目に止まる。襟下に花の様な、星の様な紋が染め抜かれているのが淡い灯火の中に一瞬くっきりと浮かび、すぐに行列に呑まれて見えなくなった。

「大丈夫かい」
 まだ少し膝が震えている私に、友人がもう一度小さく声をかける。
「うん──少し寒い」
 最前の異様な声は、偶々そばを通りがかった人の会話の断片が耳に入っただけなのだろう。直ぐ隣に居たにもかかわらず、友人は何も耳にしていないようだった
陰鬱な考えに沈んでいた私には、無意味な声の断片が邪神を呼び降ろした司祭の禍々しい血に塗れた声のように聞こえたのだ。

「じゃあ、そこまで汁粉を喰いに行こうか。善い加減君もその上衣の綻びを繕って貰えよ、風が入って寒いだろう」
 友人は私の肩を引いて、すいと人垣を離れた。
「君は日頃あまり栄養も摂っていないのだから肺炎になると厄介だぜ、此処は──」
 ちらりと通りに目を遣る。
「──あまり善い所じゃあない様だ」

 背後ではまだ人々のざわめきが聞こえる。
何を話しているのか、各々は聞き取る事が出来ない。
ただざわざわと大勢の人声が、次第に遠くなって行く。
あのざわめきの中には最前の底冷えのする禍つ声が、其れとは判らぬ様に紛れている。聞き分ける事は出来ないが、
今でもきっとその声はこの耳に届いている。
聞いてはいけない。其んなものに耳を貸してはいけない。
「──兎に角、先の事より今は目先の風邪の方を心配するんだね。そうだ、君は甘酒にし賜え」
 友人は何時もの様に私の隣で喋り続けている。
彼の声を見失えば、私はざわめきの中のただの砂粒の一つとなり、群集に消えてしまいそうで恐ろしい。
「嫌だよ、僕も甘酒より汁粉の方が善い」
「好きにするさ。僕は今日は善哉にしよう」

背後のざわめきは遠くなる。
それでもこの國に居る限り、
無数の贄達の声が耳から消え去る事はない。
今でも──聞こえ続けている。
ざわざわと。

─ 贄の列 終 ─


2000年02年



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