「白 い 窓」  


十二月のお題「白」


  こんな夢を見た。
 と、いう書き出しで始まる有名な連作掌編集がある。
言わずと知れた文豪夏目漱石の幻想譚、名作「夢十夜」である。
 今度雑誌で「新版・夢十夜」といった呈で十人の幻想小説の書き手による競作を企画しているが、そのうちの一編を書かないか、
と懇意の編集者が私に持ち掛けてきたのは、師走に入り世間が浮き足立つように騒めき始める時分の事だった。
仕事の依頼が有るのは有り難い。候補に上がった書き手達の中には私が尊敬するヴェテランや日頃その動向を意識している若手も少なからず居る。受けて悪い話ではない。
しかし、私は二の足を踏んだ。
「夢十夜」は夢に見た光景をそのまま描いている様に見せて、その実周到な計算に則って構成された作品群である。これが実際に漱石の見た夢の通りを語ったものならば、文豪の頭脳は私達凡人とは異なり、眠っている間にも覚醒時と同じく冷徹に稼動しているのであろう。
一方私の書く物語と言えば、いずれも現実離れしているようで、殆どは私が実際に体験した出来事を基にしている。私には全くの無から有を生み出す様な創作能力は乏しい。ただ、私が物事を客観的に把握し、正確に理解する能力に欠けているのに加え、表現が曖昧でとらえどころがないから、出来上がった文章が他人には非現実的な創作物に思われるのだ。甚だしい場合は当方には思いも寄らぬ見当違いの評価を受け、こちらが当惑してしまう事もある。つまり、私の著作物など、「夢十夜」とは対極に有るというもおこがましい、初めから同列には並び得ぬものなのだ。
などと──断わりの理由にも成らぬ言い訳をぼそぼそと呟き続ける私に、そんなに鹿爪らしく考えなくても、先生の個性の出た作品を戴ければそれでこちらは嬉しいんですからと、日頃厄介を掛けっ放しの編集者は明るく笑った。
その屈託の無い笑顔に釣られてつい頷いてしまい、私はこの年の瀬に気の進まぬ仕事を一つ引き受けてしまう事と成った。


 埃の積った硝子窓から鈍く光る雲に覆われた白い空を眺める。
文机の上に積まれた原稿用紙は未だに白いままだ。
洋服の上に丹前を引っ掛けただらしない格好で、私はもう何日もぼうっとしている。私がここにいつまでもこうしているものだから、妻はこの混沌を極めた部屋の大掃除を、諦めてしまったようだ。
筆がいっこうに進まないのは、前述の様に私が無から有をひねり出す事を甚だ苦手としている所為である。

 否、本当は。
私が務めて思い出すまいと押さえ込んでいるものが、心の奥で
枷となっているのが真の理由なのかも──しれない。

 夢十夜の。
その第一夜。
こんな夢を見た──という書き出しで始まる。
死んで行く女が、また逢いに来る、と約束する。
「自分」は女の墓を拵え、その傍らで待つ。
日が幾度も昇り、日が幾度も落ち、やがて墓にした
石の下から長い茎が伸びて、白い花が咲く。
そして「自分」は、約束が果たされた事に気付く。

これだけの話だ。原稿用紙で5枚くらいのものだろうか。
けれどこの短い物語を思い出す時、横たわる女の白い顔は
私の記憶の底に眠る、静かな面影を浮かべている。
そして、もう全て済んだ過去の事だと思って日々を平穏に
過ごしている私は、秘かに動揺する。
夢の話だ。そんな事は起こり得ない。
それでも私は、自らに問わずには居られない。
 本当は。
私は今でも墓の傍らで、女が私に逢いに来るのを
ずっと待っているのではないのだろうか。
そして、私の前で白い蕾が開く時、私はその芳しい花から
顔を背け、日常の中に戻って行く事が出来るのだろうか。


 コツコツ、と硝子窓が鳴った。
私ははっとして顔を上げた。
夕食の後再び机に向かった私は、どうやらそのまま居眠りをしていたようだ。どうせ夢の話を書くのだから眠って夢の一つでも見られれば儲けもの、などといった気の緩みがあったのだろう。かなりの時間が過ぎているらしく、妻が新しくついでくれた火鉢の炭はもう殆ど埋み火と化し、部屋の中は墓場の様に冷えきっていた。

 再び窓の硝子が鳴る。
机の上のスタンドに照らされて、硝子には稼ぎの無い山賊の様な、なんとも胡散臭い格好をした己の姿が映っている。
その奥の闇の中に、何か白いものが動いているようだ。
目を凝らす。

窓枠の中に茎を伸ばして白い大きな花が俯く様に揺れて、
少し困った様な表情の、あの、

あのひとの顔が。
窓からすうっと。


 コツコツ、と硝子窓が鳴った。
私ははっとして顔を上げた。
どうやら夢を見ていたようだ。
結局私は机に凭れたまま、一晩中ずっと眠りこけていたらしい。
表は未だ暗いが、微かに白みはじめた空の色が窓の高い所に滲み
初めている。

 再び窓の硝子が鳴る。
白っぽい影が動いて、誰か外に居る気配だ。
最前夢うつつでこの音を聞き、あんな夢を見たのだろう。
日の出の遅い時期だから、昏い様でも時間からすれば疾うに朝なのだ。近所の人が所用があって来たものの、明りがついているのはこの部屋だけなものだから、庭を廻って来て窓を叩いているのかもしれない。

私は腕を伸ばしてからり、と窓を開ける。
薄蒼い闇の中から、冷気と共に白い顔が室内を覗き込む。

そして。

窓枠の上の白い影は、
そのままぽとり、と
窓枠から文机の上に転がり落ちた。

くびが。
首が首が首が。

私は目を見開き、声にならぬまま後退さる。
逃げ出そうにも、厚着で身動きが効かない。
叫ぼうにも、声が出ない。
ただ、机の上で微かに揺れる白い塊を凝視する。
白い首は私の目の前でそのままはらり、と布の様に解け、
私目掛けてふわりと大きな花弁のように覆い被さった。

ばさりばさり。
恐慌を来たした私はもがきながら白い柔らかな化け物を
ようよう顔面から払い落とし、躙りながら逃げようとして、

ふ、と眼が合う。
ただ一面に真っ黒な、潤いの有る眸の──


鳥だ。

──鳥に成って逢いに来たのか。
一瞬、そんな事を思った。

畳の上で落ち着き無く首を振って私を見上げて居たのは、
鳩より少し大きいくらいの純白の鳥だった。
絹糸の様な冠羽が輝く様に慄えている。
野鳥ではない。どこかで飼われていた外国種の鳥が、逃げ出したか捨てられたかしたのだろう。人慣れしているのか、それとも寒さに弱っているのか、手を伸ばしても逃げようともしない。夜を凍えて彷徨ううちに、ただ一つ灯の点った窓を見付け、私の許を訪なったのだ。抱き上げた私の腕の中できょときょとと円らな瞳を廻らしながら、白い来訪者は何時迄もじっと動かない。

 うふふ。
頭の上で小さな笑い声がした。
目をあげると開け放したままの窓から、
透き通る様に真っ白い顔がこちらを覗き込んでいる。
「さすがだ関君、年期が違うッ!命ずる前からちゃあンと使命を果たしているとは、天晴れ下僕の鑑だぞ──おおい馬鹿オロカァッ、見付けたぞ、こっちきてこの忠義猿を見習えっ!」
 早朝の清々しい空気を震わせて、頓狂な大声が近隣在住に響き渡る。
「榎さん、こ、声が──」
 私の嗜めなど耳にも入れず、いまや小動物捜索の名手として名を上げた探偵は、分厚い手袋を嵌めた両手を窓枠に掛け、身軽く部屋に滑り込んだ。
卓上の電灯が弾みでひっくり返る。
「ああ寒かった、外は霜で真っ白だぞ!
あったかいミルクが飲みたいなぁ」
 榎木津はすっぽり被った白い毛糸の帽子と手袋を外し、冷えきって白くなった頬を擦った。机の傍らの火鉢の中は熾ばかりになり、とうに暖を取る用を為してはいない。
「なんだ、無いのかい?駄目だぞ、毎日牛乳飲まないと背が伸びないだろう──馬鹿オロカァ、牛乳買って来い!」
 身体を捻って、窓越しに塀の外に向かって叫ぶ。
「ええ?大丈夫だよ、開いているって。朝一番早いのは牛乳屋のおじさんだッ!」
「榎さん達──この鳥を探していたのかい?」
 雪山へスキーに行く様な上衣を窮屈に鳴らしながら、私の方に身体を向き直した榎木津は、暖めた掌でぱたぱたと鳥の白い羽を叩いた。
「そう。大事な鳥をゆうべうっかり逃がしてしまったって、可愛い女中さんが泣いて来たんだ」
 風切羽を切ってあるし、鳥は夜目が効かないから遠くまでは行っていないだろうと踏んだものの、夜の事なので目撃者が居らず、さすがの榎木津も手間取ったようだ。丁度近所だった私にも手伝わせようと立ち寄ったところ、まさにその探し物が窓の中に居た、ということらしい。
つくづく強運の男である。
鳥の種類を聞こうとして、榎木津に名詞を尋ねるのは無意味だと気付いて止める。悲惨な呼び名の探偵助手が牛乳を買って戻って来たら聞けば善い。

 名前など判らなくても、この鳥は姑獲鳥などではない。
あのひとは私に、再会の約束などしてはいかなかった。
聞こえなかった最期の言葉は、
私への感謝の言葉だったのだと友人はいう。
例え百年待っていたとしても、
もう、あのひとに逢う事などないのだ。

名前には頓着しない探偵は、大人しい鳥の首をそっと突ついて小首を傾げた。
「すごく綺麗な声で鳴くって聞いてたけど、ちっとも鳴かないな。関君、鳴かせてみせろ」
 いくら日頃猿呼ばわりされているとはいえ、私は太閤秀吉ではない。適当な事を言っておく。
「まだ時間が早すぎるんじゃないかな。
きっと、もっと陽が高くなったら鳴くんだよ」
「本当?」
 榎木津が開け放したままの窓を振り返る。

いつのまにか空は白々と明けていた。
昨夜見た夢は、光の中に溶け失せる。
闇の圧力の消えて行く安堵と、
明るい日常の始まる淋しさが、
微かな風の様に私の内を掠めて行く。


 それまで私の腕の中で丸くなっていた暖かい塊が、
不意にぴんと綺麗な首に力を込め、白い窓を見上げた。


─ 白い窓 終 ─


1999年12年



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