「空の音−うつろのおと−」   


十月のお題「音」


 ことり、と穏やかな灰色をした器が卓の上に置かれた。
茶器の中で揺らぐ暗い色の液体から芳香が立ち上る。
隣で長々と伸びていた男はスイッチの入った玩具の様に跳ね起きると、珈琲だ珈琲だ、と子供の様にはしゃいだ。
「嬉しいなあ、千鶴子さんが居ると美味い珈琲が飲めて!
いい加減この渋面の出す味の無い茶には閉口してたんだ」
 そんなに珈琲が善ければ寅吉君に頼んで事務所で好きなだけ飲めば善いだろう、と件の渋面の主──京極堂は、砂糖壷を引き寄せて遠慮の無い客に言い返す。
「暑苦しい顔に出されたって、珈琲は美味くないッ!」
 其れ迄亭主達の他愛の無い遣り取りを、涼しい目許を細めて聞きながら給仕をしていた京極堂の細君が、不意に私の方にその白い顔を振り向けた。
「どうかなさいましたの、関口さん?」
 いきなり声をかけられ、酷く狼狽えてしまう。
どうやら私は傍目に立つ程、呆けた様子で居たようだ。
友人が小難しい顔をして小さな銀の匙に角度を付け、物理的限界に挑むかのごとく慎重に粉体を掬い取り茶碗に落とし込む一部始終を、私は口を空けたまま息を詰めて眺めていたのだ。
あれ程真剣な様子で一遍に砂糖を入れなくても二度掬えば済む事なのに、と余計なお世話ながら思ってしまう。
茶器は良く有る洋式の珈琲茶碗ではなく、丈の詰った茶碗が揃いの皿に載った、品の佳い京焼だ。
焼物が趣味だという細君の好みなのだろう。
「あ、いやその──なんだか今、何か前にあった事を思い出しそうになってて、──でもそれが何なのか、やっぱり思いだせないような」
 私は意味の判らない事をもごもご呟いて、赤くなった。
「その、き、既視感──というか」
「あら、ありますわ、そういう事」
 彼女は盆を携えたまま嬉しそうに私の方に向き直る。
「何かしていて、あ、こんな場面は前にもあった、と感じるの
でしょう?初めての場所で初めての方とお話している時などでも、
ふっとそんな気になる事がありますわ。
とても不思議な心持ちに成るものですね、夢で見た光景かしらとか、前世にあった事かしら、なんて思って」
「そんなの僕なんかしょっちゅうだぞ!絶対前に見た顔なのに、
名前が判らない」
 榎さんのは違うだろう、と京極堂が苦笑する。
「前に説明したけれど、既視感は直前の記憶がずっと以前のもののように感じられる記憶の序列の混乱だ。よくある錯覚さ。
関口君のは単なるいつもの物忘れだろう」
 宅はこんなですもの、少しも夢がありませんわね、と
今度は細君が私達に向かって笑って見せる。
夢も畏れも無い亭主は聞こえない風で、愛用の罰当たりな菓子入れを開け、やや大振りな角い型抜きを摘み出した。
「珈琲に落雁かい?」
「和三盆だから雑味が無くて案外合う。試してみたまえ」
 京極堂は筋ばかりの長い指を伸ばし、淡い褐色の干菓子を一つ、私の受け皿にこと、と落とした。
「僕はいらないぞッ!」
 水気の無い菓子の嫌いな榎木津が、間髪を置かず叫ぶ。
「関口さん珈琲お上がりくださいな、冷めてしまいますわ
──あら、お砂糖壷何処でしょう」
「ああ、僕が持っている」
 客を差し置いて砂糖を大量に使った主が、傍らに置いた
砂糖壷を寄越そうとした。
「いいよ、苦いから」
 私が断わると、友人は不思議そうに目を遣った。
「何言っているんだい、苦いから砂糖を入れるのだろう」
 私は僅かに混乱する。
「そ、そうじゃなくて──毒だから」
「砂糖が毒に成る程、君は過食してはいないじゃないか。遠慮するな、君は味覚が子供なのだからそのままじゃ飲めないだろう」
「いらない──」
 拒んだ手が、丸みを帯びた壷に当る。
壷が転がって、座卓の面に白い粉がさっと零れた。

「嗅覚刺激は視覚刺激よりも更に直接的に記憶を呼び覚ます効果が有るからね。それでいて大概は何処でした何の匂いだか曖昧なままだから厄介だ。切っ掛けは珈琲の香りじゃあないのかい?」
「違う──よ、たぶん珈琲は関係無い」
「でも珈琲を出された時から妙なのだろう?」
 京極堂は腕を組んで少し真剣な面持ちで私を見ている。
矢張りどうも私の様子が尋常では無く思えるのだろう。
 座卓の上の私の粗相は、手早く取り片付けられ跡形も無い。
しかし私の抱いた違和感は、そう簡単には拭い去れるものではなかった。周囲の景色が何とも平坦に感じられ、その表層一枚下に何か此れと善く似た別の世界が有る様な気分が、私を酷く落ち着かなくさせている。
何かが、其処にあって──それが何か、思い出せない。
「そう、だけど──香りじゃなくて──ああ、そうだ君の声を聞いて」
「僕の声?そんなの何時も聞いているじゃないか。ああ、君の引っ掛かっている場面でも僕の声がしていたのかい。詰り、僕も其処に居たのだね?」
 眉を顰めながら友人は少しばかり身を乗り出す。
「珈琲が出された瞬間、僕の声、それと──砂糖が何だか厭だったのだな。他に気になる物は無いかい?」
 他には。
「あの──声」
「声?」
 あの、蕭々と長く尾を引く、淋しい声──
「声なんか聞こえないぞ!」
 後手を付いたまま敷居の近くで耳を澄ませていた榎木津が、
背中を反らして叫ぶ。
「君の言うのは──」
 京極堂が開け放たれた障子の向うに目を向けながら、
穏やかな声で私に尋く。
「あの笛の鳴る様な音かい?」
 そう、あのひどく切ない身を切る様な声──
「あれは生き物の声ではないよ。
隣の竹薮を吹き抜ける風が、あんな音を立てているのだ」

 やはり。
やはり彼等には届かないのだ。
この悲痛な叫びに気付かないのだ。
声では無く、ただの音にしか聞こえないのだ。
其れも仕方がないのだろう。
「そうだね──声ではない、心が無いのだから」

 いきなり強い力で肩を掴まれ、私は驚いて目を上げた。
榎木津の端麗な顔が正面にある。薄く閉じた目蓋の下の瞳は、
私の後頭部に向けられている。一瞬、呼吸が止まる。
彼には、私の記憶が──

「見えない」
 榎木津は簡単に言うと私の肩を離した。
ざあっと耳許に血の集まる音がした。鼓動が烈しくなる。
「み、みえない──見えないって何だい、」
 私は逆に友人の襟元を握ると、勢い込んで詰め寄った。
「僕は何か思い出していたんじゃないのか?
見えないって、それじゃあ、僕は何を感じていたんだ、
この可笑しな気分は毎度お馴染みの僕の妄想かい?僕は矢張り、」
「見えないものは見えない。真っ暗だよ」
 榎木津は軽々と私の手を振り解くと、縁の柱に凭れてしまった。京極堂が早口で、私を宥める様な言葉を掛ける。
「落ち着き賜え関口君、例えば──そうだな、君が本を読んで感動した場面が有ったとするだろう。それを君が今思い出しているとしても、その場面は君が想像した物だから榎さんには見えない」
「そういう時はその本の活字が見えるんじゃないのか?」
 私は声を荒げたまま、食ってかかる対象を変えた。
「それはどうかな。それなら──さっき千鶴子が言った様に、実際に君は以前夢で見た場面を思い出している、というのはどうだい。矢張り榎さんには判らない」
「同じ事だよ、夢なら寝ている時とは限らない、僕は起きながら夢を見ているのかもしれないじゃないか──」

 座卓の向うの和服の男は少し悲しそうにしている。
ああ、矢張り通じないのだ。
私の躯の内を、冷たい風が吹き抜けて行く。
細い細い声が私の中で噎んでいる。
私の声はもはや生き物の声ではなく、
彼等にとってはただの音でしかないのだ。
折角一度死んだ身を生き返らせて貰ったのに、
私は既に人では無いのだ。
私は屍のまま打ち捨てられ、
朽ちて行くに任せた方が幸せだったのだ。

「復活は──失敗だったんだよ
僕は人に戻った夢を見ていただけなんだ
早く僕を山に捨ててくれば善いだろう」

 ひゅうひゅうと風が洩れるような音が喉から出る。
もはや言葉では無い。
彼等には聞こえない。


──声は有共、絃管声の如し。
けにも、人は心かありてこそは、
声はとにもかくにもつかはるれ。
たゝ声の出へき間のことはかりしたれは、
吹そんしたる笛のことし──


 向いの男は袂から伸ばした手を私の方に向けかけたが、
不意にその手を引くと、空になった茶碗を片付け始めた。
もう人ではないものを相手にする必要は無い。
私は心が無いから淋しいはずはない。
淋しいのではない。
空なのだ。
「関口君、目を閉じろ」
 心の無い私は、諾々と従う。
何も見えない中、着物の袖の擦れる音と、
ことり、ことりと陶器の卓の面に当る音ばかりが響く。
ことり。ことり。

音は長く続く。
ことり、ことり、ことり。

素早く。正確に置いていく。
暗闇の中、見えなくても判るのだ。
ことり。ことり。

続いて聞き慣れた善く通る声がした。
「──西行は歌は上手いが呪術は下手だ」
 
 ばっと目を見開き、私は思わず立ち上がった。
 同時に榎木津の大声が響く。
「見えたッ!牧師だ!あの、旗ちゃんの友達の」

「き、京極堂──」
「当っていたかい」
 一時に現実感を取り戻した座敷の中で、灰色の皿を手にした友人は私を見上げ、にやりと笑った。


「確かにあんな暗示を高める舞台設定をしたのは僕だが、
それにしても一年近くも前の話だ。何も今頃になって
態々取り憑かれる事は無いだろう、君も難儀な男だな」
 視覚刺激を遮断された状態で聞かされる、律動的で
単調な連続音は、容易に催眠導入の契機と成り得る。
陶器が木の面に当る音と友人の声が私の識域下に
呼び起こしたのは、昨年末逗子の寺院の中で行われた
「憑き物落とし」の一場面だった。
滅びた人体の復活を夢見る牧師と、黒衣の陰陽師との暗闇の中の息詰まる駆け引きを、私は漸く全て思い出した。
しかし、其の牧師の驚くべき物語は、更にその後に明かされた驚愕の事件の真相に晦まされ、長く私の意識の表面に上って来る事は無かった。つまり、──忘れていた。

 榎木津の視る事が出来る「記憶」は人が目で見た物だけなのだから、あの真っ暗な堂内の様子が分る訳は無い。
「そういえば榎さんはあのとき居なかったのだっけ──」
 彼はその頃、陣屋の方で活劇を繰り広げていたのだ。

「だけど、善く判ったね。殆ど手掛かりは無かったのに」
 大声を出したせいで声が掠れてしまって、途中から彼等には私が何を言っていたのか聞き取れなかったそうだ。
しかし私がそう感嘆した途端、京極堂がすっと自分の手に視線を落としたのに気付き、私は吹き出しそうになった。
彼はあの時、興奮している私に向けて伸ばした自分の指が視界に入り──それで「骨」に思い至ったのに違いない。
片を付けて貰ったのだから笑っては悪い、と頭では思うのだが、最前までの心細さの反動か、堪えるのが難しい。

「被害者だの犯人だのの境遇に入れ込むのはまだ判るが、物も有ろうに西行法師が造り損なって捨てて行った人体に感情移入するとは、君もよくよく現世に悲観したものだね。余程囚われの身が応えたと見える。──折角淹れ直した珈琲を零すんじゃないよ、関口君」
 京極堂は力一杯辛辣な口振りで、肩を震わせている私を睨み付けた。


──心のなけれは、唯草木と同しかるへし思へは人の姿也。
しかしやふれさらんにはと思て、高野の奥に
人も通はぬ所におきぬ。
<撰集抄 巻五第一五,作人形事・於高野山>


「だけど──なんだか可哀相じゃないか。
西行は心有る歌僧の筈なのに非道い事をするね」
 苦心の末漸く笑いを治めた私は、今度こそ砂糖を心置き無く入れた珈琲で一息ついた。
高い香気は反魂香の煙ではなく、白い粉は砒霜では無く、骨壷の中に骨は入っていない。
 西行が野山の骨を採り集めて造ったものの、出来が悪くて山に捨てられた心の無いモノの話が哀れで、それがずっと私の記憶の底で哭き続けていたのだ。色悪く、弦楽の音のような声を出したと『撰集抄』に記されているという。
「あんなのは生命じゃない。作り物が動くだけだ」
「それだって、結構凄いぞ!人間ソックリじゃなくていいから、骨が生き返って踊るだけでも僕は見たいなぁ」
 榎木津は体半分を縁に伸ばして風に吹かれている。秋の日射しが髪に当って、其処だけが眩しい様に明るい。
「君達はつくづく悪趣味だなあ。其れは人間の生死を司るのとは全く別の話だから、左道なのだよ。そんな事をせずとも陰陽道の祭神で冥府の神とされた泰山府君と話をつければ、死人は何もかも生前のまま戻って来られる」
 野晒しの骨を掻き集めて紛い物を造る必要なんてないよ、と現代の陰陽師は落雁を噛みながら嘯く。

「それなら、例えば僕が死んだとして──君に頼んでおけば、完璧に復活させて貰えるのかい?」
 一瞬、菓子を齧る音が止む。
私は澄まして熱い珈琲を飲む。

 友人はついと表に顔を向けると、高らかに言い放った。
「引き受けても善いが──僕は高いぞ」

 乾いた竹林の間を、風が音高く清かに吹き過ぎてく。


─ 空の音 終 ─


1999年10年



*- INDEX / 京極堂Index -*