「月の相−つきのそう−」  


九月のお題「月」

 金色の細い月が、夕暮の街の上に沈みかけている。
上向きに反ったごく細い形が、幽かに嗤っている様だ。
其れを見て思い出したと言う訳では無いが、少しばかり尋ねたい事も有り、私は暫く振りに友人の許を訪ねてみようかと思った。日中の熱気の名残りを涼風が追い立て、漸く息のつけるようになった黄昏の中を、私は歩いていた。
 夏前の事件の関係で拘留されていた伊豆の警察から放免された後、私は例によって長らく気が塞ぎ、自宅に閉じ籠った。私の脆弱な精神が苛烈な取り調べの挙げ句に取り返しのつかない損傷を受けたのではないかと、周囲は可笑しな程に気遣ったが、本人は案外平気なものだった。実の処はただ暑くて、それで何をするのも億劫になっていた。
 事件の最中動揺する知人達に向かって、傍若無人な友人の一人は、拘束されて手酷い扱いを受けているであろう私の事を「元々壊れているから大丈夫」と宣ったらしい。
常日頃から些細な異変すら現実として受け入れる事を拒む傾向にある私の精神は、大きな変事も同じく我が身に現実として引き受けようとはしないのだろう。どれほど苛酷な状況も胡乱な私の自己にとっては、夢とさして違わない。
ならば何程の負担でも無い。

本当に、元々壊れているのかもしれない。



「それで君は僕の所に物を尋ねに来るのにどうして二週間もかかるんだい。思い立ったらさっさと用事を済ませに来れば善いだろう。」
 相変わらず甚だしく険悪な形相ではあるが、夕食を済ませて風通しの善い座敷で書見をしていた友人は案外機嫌が好く、早速私の要領を得ない前置きを混ぜ返して悦に入っている。
だらだらと長い坂を登って来て汗だくになり、お絞りを使わせて貰っている私とは対照的に、既に湯にも入ったものか濃い色の藍の一重が畳に映えて涼し気だ。
「二週間?そんなになるかな。いいじゃないか別に。大層な事でもないから、何かのついでにと思ってそのままになっていたんだよ」
 確かに私が此処を尋ねようと思い立ってから大分日が経っている。友人の嫌味を適当にあしらいながらも私はその言葉に妙な違和感を感じ、その理由に思いを巡らせた。
二週間、と言ったか。

──全身の血の気が引いて行った。

「な、なぜ──何故君にそんな事が判るんだ」
 彼に会うのを厭っているように取られると不可ないので、私はこの家を訪れるのを先延ばしにしていた事は話していない。家人にも、他の誰にも話していない。

それなのに。

「僕が心に思っただけの事が、何故君に判るんだッ。」
 私の考えが読めでもしない限り、そんな事が判るはずが無い。思わず大声になる。口に出して言ってみて、その言葉の異常さに愕然とする。一気に顔面に血が上り、冷たくなっていた身体が急に燃えるように熱くなる。そんな事はあり得ない。私が憶えていないだけで、私は彼にそんな事を話したのだろうか。友人は私の剣幕に驚いて、手にしていた本から顔を上げてこちらを見ている。頭の芯がぐらつき、再び身体が冷え、肘が震えだす。私は本当に此処に居るのだろうか。家に帰って、妻と暮らして、友人と会って、──そんなのはみんな私の夢なのではないだろうか。私は今でも冷たい檻の中で身を屈めて、朦朧とした意識のまま幻と会話して、空ろに笑っているのではないだろうか。それとも留置場も殺人容疑すらもみんな夢で、私はまだあの山中の無人の屋敷であの見知らぬ男と共に居て──

仮想現実か現実かを、その中に居る当人が判断する術は無いと、この目の前の男は以前私にそう言ったのだ。私は恐る恐る尋ねてみる。さっき大声を出したせいか、声がいくぶん掠れている。
「ぼ──僕は、今何処に居るのかな、君の家かい、まだ留置場かい。それとももうずっと病院の中にでも居るのかな──教えて、くれるかい」
 この男が若し私の混濁した頭脳の生み出した幻ならば、尋いてどうなるというのだろう。
或いは今目の前に見えている友人は、本当は、あの男かもしれない。山中で出会った見知らぬ男。見知らぬ筈なのに、私の事を何もかも知る男。彼等は同じ言葉を使って、他人の心を呑んでしまう。

 目の前の和服姿の男は私を見据えたまま立ち上がると、ゆっくりとこちらに手を伸ばした。袂が電灯の下で大きな陰を私に落とす。陰が壁を廻ってゆらゆらと揺れる。私は身じろぎも出来ず座ったまま呆然と彼を見上げている。

 灯がふっと消えた。


暗転。
 突然我が身を包んだ闇の濃さに、
私は息を飲み叫び声をあげる事すら出来ない。

その一瞬を突いて。

「ききたまえ関口君」
 闇の中にくっきりと、善く響く聞き馴染みの有る声が、
私の名を呼んだ。
「聞くんだ。君は今、混乱している。
しかし心配する事は無いよ。此処は安全なのだから」
 止めた息を吸うように、私は彼の声を恐る恐る吸う。
「此処には誰も君を傷つけようとする者はいない。
此処は伊豆の山の中ではないし、留置場の中でもない。
此処は僕の家の座敷で、たった今電灯を消しただけだ。
君は夢など見ているのではない、落ち着いて善く見賜え」
 見える訳が無い。闇の中で鴉の様な男の姿は見えない。
見えないのに自分が何処に居るのかなど判る筈がない。

 一一否。

闇、ではなかった。薄墨色の室内に、座像のような男の影の輪郭の、縁に近い方の半分が黒黒と浮かび上がっている。目が暗がりに慣れたのだ。着物の袂と座った膝の辺りは仄明るく、彼の傍らから向かい合った私の側に向かって、真直ぐ銀の粉を掃いたような帯が敷かれている。
こわごわなぞってみようと伸ばした私の指先が、ふっと白く光って浮き上がる。

 光。

私は敷き居に躙り寄ると、蒼く濡れた様な縁に手をかけ、軒を振仰いだ。

 おおきなまるいつきが。
まだあまり高くあがっていない、驚く程大きく白い満月が、
私に目掛けて強い光を放っていた。

 背後から落ち着いた声が響く。
「月齢14.8、月相は望。そう、今宵は十五夜だ。君は最初、
細い嗤ったような月を見て僕に会おうと思ったと言ったじゃないか」
 挨拶代りに。そう、確かにそんな事を言った。
「三日月とは言わなかった。夕暮れの細い月、朔の次くらいの精々二日月だろう。それから月が満ちる迄に十三、四日、だのにその間どうして君は来なかったんだ、と言ったのさ。君の考えがサトリの化け物のように僕に分かったわけじゃあない、君が自分で言ったのだよ」
 月の周期はほぼ一月、新月から満月までは十五日。
そんな事は。そんな事は子供でも知っている。
私は何気なく二週間前の月の印象を語っていたのだ。
たったそれだけの事に、私はあれほど脅えたのだ。
「矢張りまだ不安が残っているのだね、無理も無い。
驚かせて悪かった」
 自分がおかしいのかと思って、一瞬酷く恐ろしかった。
全てが夢かと思って、とても哀しかった。
「心配はいらないよ。君が惚けていようが忘れていようが、太陽と地球と月の位置関係が今の侭の法則に従う限り、見かけの月は刻々と満ち、欠けて行く。それが理というものさ」
 私は月を仰いで、その冷え冷えとした眩い程の光を全身に浴びる。潮が引くように動悸が治まっていく。
「『月明に対して往時を思うなかれ、君の顔色を減じ君の年を減ぜん』と白居易の詩にもあるが、月を眺め過ぎたり月光を浴び過ぎたりすると精神身体に悪影響を与えるという言い伝えは世界中に有る。月の形がどんどん変わっていくのが天体の振舞いを知らない昔の人にはひどく不思議で禍々しく感じられたのだろうね」
 月明に対して私の模糊とした意識は逆に鮮明に成る。
「君は月の理を知っているから、この望月が明日から欠け初めても、古人のように不吉だとは思わないだろう。君が又混乱して自分の理性を疑うような時は、護符代りに月を想うと善い。どれ程不思議に見える事象でも実際は君に判らないだけで、この世の事ならば其処には何らかの理が有るのだと──そう思って踏み止まり賜え」
 振り返って、友人を見る。
削ぎ落とした様な頬から肩が蒼い光を受け、淡い闇に沈みかかる細い月の様だ。

「京極堂──」
「この世には、不思議なことなど何も無いのだよ関口君」
 微かに肩が動くと、細い月は瞬時に薄闇に消えた。


「君、団子食べるだろう。餡はもう殆ど残って無いが、
砂糖だけでも結構いける」
 座敷の闇の奥から、友人の声がする。

 月は煌煌と照っている。

               ─ 月の相 終 ─


1999年09年



*- INDEX / 京極堂Index -*