「真夏の雨」  


八月のお題「雨」


 だらけている。
 朝は部屋の暑さに耐えられなくなるまで床にしがみつき、陽も善い加減長けてから朝食とも昼食ともつかぬものをずるずると摂り、午後は畳の上で惰眠を貪る。陽も暮れてさしもの炎暑も収まった後、漸く墓場から蘇った幽鬼のごとく家の近所をうろついて煙草だの本だのを少し買う。暑さを耐えているだけで動かなくとも腹は空くものらしく、夕食は意地汚ない程食べ夜は只管本を読む。仕事の依頼も有るにはある。百枚程度の短編だから、無為に過ごしているよりは一気に書き上げてしまえばよいのだが、どうにも手につかない。気が乗らない。尤もこれでも一頃よりは可成り改善した生活と言える。
 半月程前雑司が谷の病院で、私は自分の人生を揺さぶる烈しく哀しい事件に遭遇した。警察や友人達の介入で事件は漸く解決されたものの、私は暫く現実と幻想の境界から元の自分の世界へと戻る事を望まなかった。それでも友人達はお節介にも私を私の居場所に連れ戻し、私を取りまく穏やかな日常は幾重にも積み重なりあって事件の傷を覆っていった。私は少しずつ回復しつつあった。考えてみれば今の怠惰な生活も、もともとの私の生活とそうかけ離れたものでもない。懐かしい学生時代の夏休みに戻ったような感すら有る。何も無い、何もしなくて善い、長く波瀾の無い夏休み。
 そう思うと、気持が可成り楽になった。
 それにしても暑い。
百鬼園先生が随筆の中に、この暑さの中で死んだらあっというまに腐ってしまうので、なんとか秋まで身体を持たせるためだけに死なないでいる、というような意味の事を記していた記憶があるが、まさに私も腐ったら妻に迷惑だろうというだけでようよう呼吸を続けているようなものである。襖は開け放してあるものの風通しの能いとはいえぬ奥の部屋で、私は書き物机の上に真っ白な原稿用紙を積み上げたままうつらうつら過ごしている。表の部屋ならば今少し風も通るのだろうが、炎熱の庭からの照り返しと喧しい蝉の聲を思うと、それだけで今の私は眩暈がしそうだった。

 一一何かが通る。
畳に転がっている身体が何物かに押さえ付けられるように不意に重くなる。
外の日射しからすれば真っ暗ともいえる家の中が更に暗くなる。
重い風の塊が部屋を抜ける。
蝉の声が途絶える。
そして彼方から低い響きが近付いてくる。

 来た。
ざあっっ、という振動が世界を一息に押し包む。
俄に身体が軽くなる。外の通りが騒がしくなる。
 夕立だ。
軽快な下駄の音とともに、あら大変、と明るい声が庭先に駆け込んで来る。
「すみませんタツさん、一寸手伝って下さいな一一」
 そこらに用事で出ていた妻が、慌てて駆け戻ったのだ。私は這うようにして起き上がると、声のした縁の方に顔を出した。横殴りの雨で白く霞む狭い庭では、竿に干した敷布が船帆のように風に煽られている。
「タツさん、大きい方お願いしますね、」
 妻は細かな靴下だの私の下着だのを手早く竿から外して濡れないようにくるくると手元に纏めている。私は湯を被ったように温い庭下駄を突っかけて白い布に突進したが、広い敷布は私に被り、纏わり付き、暴れて手におえない。しばし真っ白な視界の中で奮闘しているうち、ぱちん、と洗濯挟みが弾けた。これをまず外さなければ上手く取り込めるはずがない。私は自分の手際の悪さに呆れながら漸く糊の効いて暈張る布を縁側に投げ入れ、妻の側に駆け戻った。
 妻は真っ白い割烹着を身に着けていた。裾から臙脂色の着物が見える。
髪が雨風に解れて白い頬に張り付く。
そして胸に白い包みを抱え込んで、私の方を向いた。

私は息を呑んだ。

 横殴りの雨の中、あのひとが立っていた。

白い顔、
解けた髪、
白い上衣は雨に濡れて、
下半身は真っ赤に染まっている。

私は一歩前に出た。
あの人は両手を差し出して白い包みを私に手渡した。
あのときと同じだ。

ああ、あのひとが何かいっている。
何といっているのだろう。

「ありがとう」

さあっと雨の音が耳に戻って来る。
妻が私の顔を覗き込んで「タツさん?」と不思議そうに声をかけた。


 妻に手渡された暖かい洗濯もののかたまりを縁に置き、私は髪から雫を垂らしたまま自室に座り込んでいた。
 死んだ人間が蘇る筈はない。
彼女は妖怪でも変化でもない、生身の人間だったのだから。
雨の中の一瞬の邂逅が、事件を連想する状況から私の脳が生み出したまやかしである事は私にも判っている。
 ただ。
私はあのとき聞き取れなかったあのひとの最後の言葉を聞いた。
あの時は受け入れられなかった言葉を、今の私は理解出来たのだ。
あれは友人の言ったように、私に対する感謝の言葉だったのだ、と。
 形の無い奇怪きわまりない事件の構成物を、ひとつひとつ理解可能な言葉で置き換え、実際には何が起きたのかを関係者全員に把握させる事で、友人は皆の所謂「憑き物」を落とした。
しかし彼は全てを祓い落とす事は敢えてしなかった。
私の想いだけは、私自身が決まりをつけねばならない事だから。

 机の前に座り、私は久しぶりに万年筆を手にする。
書いてみよう。
私の言葉で、私が感じたままを、私が納得できるまで。
それは一つの身体に二つの魂を持った男と女の、出合いと別れの物語だ。

 机に面した窓からは晴れた空が見える。いつのまにか蝉の聲が周囲に満ちている。雨などまるで降らなかったかのようである。
けれど最前まで草臥れきっていた窓の横の木々は、強い雨に洗い流され生き生きとした緑を蘇らせている。

 その葉に枝に一面に輝く雫が、一瞬のうちに通り過ぎた激しい雨の記憶を、燦欄と語っている。



─真夏の雨 終─


1999年08年



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