「人形の神様」 後編  



 今日、魔法使いが来た。
 マチコとあたしは屋根裏部屋の窓から表門のほうを見下ろしていた。
お庭の木の葉っぱはほとんど落ちているので、
お玄関に続くアプローチが上からもすっかり見える。
敷き詰められた平らな石におひさまが反射して、
じっと見ているととてもまぶしい。
それでもあたしは我慢してずっと外を見ていた。
「来たのです」
 木の枝ごしに人影が動いた。
神様だ。茶色い髪がおひさまにあたってきらきら光る。
その横に肩のがっしりとしたとても大きなひとが並んでいる。
「あのひとが魔法使い?」
「いいえ、あれは神様の友達で、下駄なのです」
「げた?」
「あ、いや、神様がそんな風に呼ぶだけで、
決して下駄でも豆腐でもないのです」
「とうふ?」
 その時、二人の後ろからするりと黒いものが現れた。
「あれが──」
 あたしは思わず息を飲む。
こんな人間も見た事が無い。
夜の様に黒い着物と黒い髪の毛が周りの光を吸い取って、
明るいアプローチの中でそこだけが影になっているみたいだ。
「──魔法使いなのです」
 マチコが囁く。
あたしは頷く。
あのひとが、あたしを人間の子供にしてくれる。
玄関に入る前に神様はこっちを見上げて、腕を振るようにして
大きく指差した。
「お庭においで、と言う合図なのです。いきましょう」
 マチコがあたしの肩を覆う様に押す。
あたしが窓をちらりと振り返ると、魔法使いのひとが眉をしかめて
こっちを見上げていた。
神様はとっても恐い顔だと言っていたけど、あたしは
なんだか悲しそうだと思った。
まぶしかっただけなのかもしれないけど。
遠くてよくわからない。


 お陽様のあるときにお庭に出るのは、本当に久し振りだ。
黄色っぽくなった芝生の上には神様が長い棒みたいに一人で
寝転がっている。
あたしは一階のお部屋のほうを見た。
テラスに出る大きなガラスのドアには緑色の重いカーテンが
かかったままだ。
あのカーテンは一度も開けられた事がない。
「ママは魔法使いとお話をしているから大丈夫だよ。
お話が終ったら魔法使いがここに来るからね。
さあ、お話がすむまでここで一緒に遊ぼう」
 神様は大きく腕を振ってゼンマイ仕掛けみたいに
ぴょこんと起き上がった。
「屋敷の中はひんやりしてたのにここはぽかぽかするなあ。
マチコ、その子の厄介なお召し物とやらを着替えさせろ。
そんな格好じゃあ思いッきり遊べやしない」
「では失礼してお召し代えなのです」
 マチコはまるっこい指で手際良くぼうっと立っている
あたしの繻子のガウンとペチコートを外すと、
さっさと短いズボンにはきかえさせてくれた。
それから神様があたしのリボンを解いて長い髪をきゅっとしばる。
「お首が寒そうなのです」
 でも首とブラウスにあたる冷たい空気はとても気持ちがいい。
「これで思う存分遊べるぞ!そらおいで」
 神様はいきなりあたしの両腕をつかむと、無造作にくるくると身体ごと回した。
あたしのからだがふわっと宙に浮く。

最初はびっくりしたけど、だんだん楽しくなってきた。
お陽さまのあたる芝生の上で、あたしは夢中になって遊んだ。
ひとりでに大きな声が出て、ひとりでにからだが動いた。
いつのまにかからだが水にぬれていて、しずくがきらきら光って落ちた。
喉が乾いて、バスケットに入ったレモネードもいっぱい飲んだ。

「もういっぺんぐるぐる!」
 枯れた薔薇に囲まれた花壇でさんざんおいかけっこをした後、
あたしが腕に飛びつくと神様は笑いながら芝生に伸びてしまった。
「いいけど、目が回らない?」
「回るのが面白い」
 見どころがあるぞ、と神様は嬉しそうに伸びたまま笑う。
「君は絶対僕の運転が気に入るよ」
「普通の自動車は目が回ったりはしないのです」
 マチコがなんだか心配そうに言う。
「わははは、そうとも!僕の運転する自動車はサアビスで
特別によく目が回るのだっ!」
 神様が大笑いするので、よく分からないけどあたしも一緒になって笑った。
笑いながら、でも何か急に変な感じがした。
何か大事な事を忘れている感じ。
身体を半分置いて来たような心細い感じ。
なにかとても大きな事、なにか特別にいつも気をつけていた事があったのに。
それをあたしはすっかり忘れて。

──景色が前と少し違う。
慌てておうちの方を振り返って、あたしは全身が氷の柱の様になってしまった。

一度も開いた事のない緑のカーテンが開いている。
テラスへ出る窓の格子の向うに真っ白な、まるで別人のようなママの顔。

ママは大きく口を開いて何か叫んでいる。

──どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
ママに見られてしまった。

あたしが大きな声で喋って、笑って、動いて、
ぴょんぴょん飛び跳ねて、ぐるぐる回って、
レモネードを飲んでいるところを、
ママに見られてしまった。
お人形は。
お人形は人間の見ているところで喋ってはいけないのに。
お人形は人間の見ているところで動いてはいけないのに。
あたしはママの前でとんでもない失敗をしてしまった。
ああ、もうとりかえしがつかない。
どうしよう。
どうしよう。
あたしはもう、お人形ではいられない。


ママは大きな目を見開いて叫んでいる。
あたしはこれと同じママの顔をずっと前に見た。
ママはあたしの名前を何度も何度も叫んでいる。

えりと。
英里人。

ママ。
ママ。
ぼくはもう、人間にならないといけない。
ぽろぽろと暖かいものがぼくの頬を流れる。

窓の横に立っていた黒い魔法使いがさっと緑のカーテンを引いて、
ママの姿は見えなくなった。

「英里人。えりと」
 ぼくの耳元でぼくの名を囁く人がいる。
ぼくの後ろから長い腕が伸びてぼくを抱いている。
「ほら、君はもう人間になった。人間の男の子に戻れたんだ」
 暖かい腕がぼくの身体を揺すって囁く。 
「──頑張ったね」
「パパ」
 ぼくは。
ぼくは、人間に戻れた。


 あのひ。
だいすきなおにんぎょうのエリザベートがみつからないので、ぼくはひとりでちかしつのいちばんおくのものおきへさがしにいった。ドアをあけるといつもとちがうまっかなドレスをきたエリザベートがゆかにころがっていた。エリザベートのくろいかみにあかいドレスがよくにあっていて、ぼくはうれしくなった。エリザベートをひろいあげると、ぼくのてもまっかになった。

「えりと」
 ママの声がした。
見上げると、エリザベートとお揃いの真っ赤なドレスを着たママが、
エリザベートと良く似た長い黒い髪を垂らして立っていた。
ぼんやり遠くを見ているようなママのまっ黒い瞳が、
すうっとぼくの手元を向く。

「英里人っ!」
 ママは叫んだ。
ママはぼくの手からエリザベートをひったくった。
ママは大きなまっ黒い目を見開いて叫んでいる。
ママはぼくの名前を何度も何度も叫んでいる。

それからママはくるっと壁の方を向くと、床の上の
大きな木の箱の中にエリザベートを乱暴に投げ込んだ。
そして箱からにゅっと突き出した真直ぐな二本の棒を
無理矢理押し込むと、力一杯箱の蓋を閉めた。
でも蓋は完全には閉まらなかった。
パパの皮靴の先が挟まっていた。


 遠くで大勢の人達の声と動き回る音がする。
何年振りかで人間に戻った僕は、すっかり疲れてパパの膝にもたれて
眠っていた。
しゅっしゅと草の擦れる音がしたので薄目を開けると、
綺麗な赤い紐を付けた黒いはきものの足が枯れた芝生の上に見えた。
黒い魔法使いだ。
「落ちたかい」
 魔法使いの声はとてもよく響く。
「落ちた」
 僕の頭の上で囁き声が答える。
「あっちもだ。あれ──見つかったよ」
 よく通る声がすっと抑えられる。
「窓の無い地下室だ。多分あんたが最初に御主人の事を聞いた時、
見えた場所だ」
「──この子も見ている」
 囁き声は神様の声だった。
ぼくはパパじゃなくて神様の膝の上で眠っていたのだ。
「あそこは壁のようになっていたのです」
 マチコの懐かしい声もする。
「扉に漆喰を塗った上に馬鹿でかい本棚で隠していやがった。
まったく、開けるのに難儀したぜ」
 重い靴音と共に聞いた事が無い甲高い声が近付いて来た。
神様の友達の下駄とかいう大きい人にしては、意外に優しい声だ。
「しかしよ──この子は何でまた、自分が人形だなんて
思い込んじまったんだ?」
「英里人君は」
 声の良い魔法使いは、滑る様に語り出す。
「決して見てはならないものを見てしまった。
人間が見てはならぬもの。人間が口にしてはならぬ事。
彼の感覚は惨劇の直後、全て閉ざされた。
過度のストレスを受けると脳は一時的に機能を停止して
自己防衛する事がよくある」
「ブレーカーを落として配線が焼けるのを防ぐ訳だな」
「人形の様に何も反応しなくなった幼児を、
混乱の極みに達していた夫人は人形として扱った。
人形ならば何も見ていない、何も喋らない。
彼女の夫と息子は外国に行ったまま帰ってこず、
彼女は人形を大事に世話しながらこの屋敷でひっそり暮らし続ける」
「以前いた使用人は旦那様がお留守だから、と皆暇を出されたんだとよ。
今居る通いの女中は新しく雇われてて、事情を知らねぇ」
 『下駄』さんに続いてマチコも話しだす。
「賄いを任された女中さんは英里人さんが人間だと知っていたのです。
でもずっと身動き一つ出来ない病人だとばかり思ってたのです。
奥様が毎日英里人さん、と言っても女中さんは当然女の子だと
思っているのですが、綺麗に身繕ろいさせて膝にのせて
一心に話かけているのを心尽しの看護だと思っていたのです。
当然部屋に整えていく食事も奥様が食べさせていると思っていたのです」
 再び黒い魔法使いが話を引き取る。
「世間は御主人は留学時代からの仲の仏蘭西の女の所に行ってしまったのだ、と噂する。夫人はますます世間との交流を断って屋敷に引き蘢る。
英里人君はしばらくするとショックから覚めて元通り動けるようになったのだが、記憶は失われたままだった。夫人が英理人君をお人形だと思って扱っているものだから、自分はお人形なのだとすっかり信じ込んでいた。
お互い無意識に強い暗示をかけあっていたのだね。
お屋敷を訪れるのは財産管理を任されたお雇いの弁護士や会計士ばかりだ。彼らに鑑定を依頼されて見かけによらず目敏い骨董屋がお屋敷を訪れるまで、二人はひっそりと不思議なお人形遊びを続けていた」

「でも──まあ、坊主が亭主と一緒に殺されなくて良かったよな。
ヤバい場面を目撃されてもそこは母親、さすがに血を分けた息子は殺せねぇか」
「旦那。英里人君は夫人の子ではないよ」
「なに?」
 甲高い声が一層裏返る。
「御主人が仏蘭西の妻に生ませた子だ」
「瞳が青いのです」
 黒い髪に青い瞳のエリザベート。
パパが仏蘭西から連れ帰って、いちばん大切にしていたお人形。
何故だか懐かしくて、ぼくもいちばん好きだったお人形。
マチコがぼくに最初に会った時の事を話している。
「硝子みたいな青い瞳を見て、日本語が分かるかどうか心配したのです」
 僕の言葉がわかりますか。
マチコはぼくにそう話しかけたのだ。

「素性が一目瞭然のその瞳のせいで、英理人君は滅多に人前には出されなかった。それでも夫人は夫が連れ帰った幼子を心底可愛がっていたのだと思う。ただ彼女自身、子供の頃から閉鎖的な環境で『エリザベート』と同じ様な育て方をされていたせいだろう、自己表現や愛情表現が上手く出来なかった。御主人と彼女は理解しあう事が困難だっただろう」
 ママがお人形だった『あたし』によくお話をしてくれた。
ママは生まれた時からこのおうちでお人形に囲まれて、
お人形と同じに大切にされて大人になったのだ。
大人になってからはパパが、このおうちでママの事を
お人形と同じにとても大切にしてくれた。
とてもとても大切に。
お人形とおんなじに。
「今となっては何が直接の原因だったのかは判らない。彼女もそんな事は覚えていはしない。青い瞳のエリザベートが関わっている、という事くらいしか推測は出来ない。しかしそれまで従順で静かな人形だった夫人は、ある日生涯一度の烈しい感情の爆発に全てを忘れた。それは夫にも本人にも制御できない激情だった」
「それじゃ、──」
 息を飲む声に向かって、黒い魔法使いが穏やかに言う。
「旦那も地下室で見たでしょう。この子が生き延びたのは偶然だった。
エリザベート人形を先に入れてしまったから、
あの地下の櫃にはもう何か他の物を入れる『隙間がなかった』のだ」
 長いため息が聞こえた。
誰のかは分からない。

 屋敷の方のざわめきも、今は静まりはじめている。
小走りに近付いて来た誰かと小声で話し合っていた「下駄」さんがやおら
立ち上がり、ズボンに付いた芝をはたきながらこっちに向いて言った。
「坊主の着ている服、見覚えがあるぜ。手前ェのお袋さんは物持ちがいいな」
「榎木津邸秘蔵の骨董品だな。鑑定したまえよ今川君」
 今川。人間はマチコのことを今川と呼ぶのだと言っていたから、
魔法使いは人間だ。
いや魔法使いだけじゃない。マチコも神様も僕も、本当はみんな人間だ。
「お二人がこうしているところを見ると、本当の親子のようなのです」
「だな。善い景色じゃねぇか。手前ェも早ぇとこ身を固めてガキ作んな」
「どうやって作るのだ修ちゃん」
 久し振りに声を出した神様は、なんだか眠そうだ。
「真顔で聞くな、ボケ」
 『下駄』さんの名は修ちゃんというらしい。
「わざわざ作るの面倒くさいなあ。この子貰っていく」
 それは駄目だ、と修ちゃんが慌てて言う。
「坊主の祖母ちゃんが迎えに来る。息子は気の毒な事になってたが、
失踪したと思っていた孫が見つかったからせめてもだよな。
遠方らしいので到着が遅くなるから、坊主の病院には
手前が付いてッてやれよ礼二郎」
 事情はこれから病院で聞くから手前は暴れンじゃねえぞ、と
修ちゃんが念を押す。
お祖母様の家。
大きな緑の樹に囲まれた、綺麗な花のいっぱい咲く田舎の明るい家。
楽しいお祖母様と優しい犬達。涼しい風の渡る湖。
ずっと忘れていた、大好きな場所。
すうっ、と身体の力が抜けて、僕はそのまま再び眠りに落ちそうになる。
僕の髪を撫でていた神様が、まるで僕の思い描いた風景を見たように笑う。
「あ、いいなぁソコ!それじゃ僕が運転して、自動車でその綺麗な田舎に一緒に行こう!」
 それは無謀だ、止めろこの阿呆、危ないのです、と一斉に周囲から
反対の声が上がる。
その制止の声を物ともせず、神様はすっかり御機嫌で喋っている。
僕はゆっくり遠ざかる意識の中で、晴れやかな声で笑う神様と一緒に
素敵に早い自動車に乗っているような気持ちになる。
「そうだ自動車は面白いぞッ!みるみる木も家もこんな陰気な仏頂面もすっ飛んでって、新しい景色がいっぱい見られるんだ──」
 そうだ。
僕の周りにあって長い間じっと動かなかった世界が、
すごいスピードでどんどん後ろに飛んでいって、

僕はこれからうんと遠くまでいけるのだ。


「人形の神様」 終


2000年12年



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