「神の降誕祭」 −京極堂 Xmas Special−   


 年の瀬である。

 このところ妻は仕事から戻ってもあれこれと用事があるらしく、
ほとんど家でじっとしている暇がない。
通常は雑談半分で立ち寄る編集者達も、本業が詰まっている
らしくここしばらくうちには寄り付かない。
世間は皆忙しく気ぜわしい。

そんな中。
私ひとりが暇だった。

 ただじっとしていてはいけないと思い、家を出る。
出たところで年内に片付けなければならない用事も無く、
新年を迎える準備もこれといって無い。
冷たいのか乾いているのか妙に刺々しい空気の中で、
紙屑だの砂粒だのが行き交う人々の足下から舞い上がり、
どこの商店も普段の数倍も忙しく、騒々しい。
 どんよりした師走の空の下でぼんやりそんな光景を眺めながら、
私は日頃溜まり場にしている友人の店に行くのは遠慮することにした。
いくら商売気がないとはいえ古書店も商売、この時期やはり
それなりに決算だの馴染み客への挨拶だの掃除だの、
いろいろと忙しいだろう。
 だがいまさら家に帰る気にもならない。
 結局、私は年末だろうと週末だろうと関係が無さそうな友人の
ところへ行くために、着膨れた客の詰まった電車に乗った。


 「ええ、本人に言えば解るんですね?はいぃ、承りました。
間違い無く伝えますので、あ、はい、どうも、失礼します─」
事務所のドアを半分あけて覗き込むと、電話に向かってしきりに
頭を下げている青年の姿が見えた。受話器を置いた後も、
彼は小さな紙片を手に取って眺めている。
「寅吉君ごめん、忙しい?」
声をかけると安和青年は顔をあげた。
「ああ先生こんちは、そりゃなんてったって忙しいですよぉ。
うちの先生なんざ、この三日間出たり入ったりでめまぐるしいの
なんのって、」
「ええ?依頼があるのかい?」
なんだかがっかりしてしまう。東京中で暇なのは私だけなのだろうか。
「いえ、探偵の仕事じゃあないんですけど、依頼といえば依頼で。
益田さんも今朝から出たまんまで、私だって用事があるのに
出られなくって、」
話しながら手際良くいれられたお茶が茶托に乗って出される。
礼を言って茶碗に手をのばすと、盆を持ったまま寅吉がこっちを見ている。
「何?」
「いえね、うちの先生もおっつけ戻ってきやすから、それまでちょっとの間
先生ここに居てもらえます?私ちょっと買出ししてきますんで、え、
ちょっとの間だけ。お八つも買って来ますから。」
要は留守番だ。
曖昧に頷くと、彼は電話の脇に置いた紙片を持って来た。
「これ、うちの先生が戻って来たら伝えておいて下さい。さっき、
電話があったんですよ。本人に言えば解るってんですが、
何の事だか私にゃさっぱり。」
紙は寅吉のとったメモらしい。そこには短い言葉が記されていた。

 あめにはみつかい

「雨には密会?何これ?」
「何って、そう榎木津様にお伝え下さい、って言われたんですよう。
本人に言えば解るからって。」
「聞き違いじゃないのかい?」
「いいえ、向こうもわざわざ、あ、め、に、は、って一文字ずつ区切って
言ってましたからね。何の符牒でしょうねえ。」
「誰から?」
それが、と寅吉は含み笑いをした。
「名前は聞かなかったんですけどね─こう、なんともいえない深みの
ある、良ーい声の御婦人でしてねえ。私ゃぞくぞくっとしましたよう。
先生とどういう御関係なんでしょうかね?」
「相変わらず野次馬だなあ、君は。疚しい事なら君に伝言なんか
しやしないだろう。」
「でも、疚しいから符牒って事も。」

あめにはみつかい。

事務所の窓から空を振仰ぐ。
ビルの三階から見る鉛色の空は、今にも降り出しそうだ。

雨には、密会。
─もし雨が降ったら、お会いできます─
そんな意味だろうか。
密会というからには人に知れてはいけないのだろう。
極秘の依頼者だろうか。
このひとは、秘密を要する用件を榎木津に依頼する事など自殺行為で
あると知らないのだろうか。
いや、別に秘密でなくとも自殺行為なのだが。

いつのまにか、部屋は私ひとりになっている。
忙しい探偵秘書は出かけてしまったのだろう。
─彼の仄めかすように、これは榎木津の私的な用件なのだろうか。

  忌まわしい記憶が蘇る。
学生時代、榎木津を巡る恋愛問題、痴情の縺れは枚挙にいとまが
なかった。
そのほとんどは相手の一方的な思い込みであるのだが、本人が
出ていくと目も当てられない程事態は紛糾を極めるので、たいがい
京極堂(当時はもちろん本名だ)と私が事態の収拾に奔走した。
 それは先輩の為というよりは自分達自身の平穏な日常生活を
獲得するための努力だったのだが、関係者に対して京極堂が
理を説き、私が情に訴えても、たいがいそこには修羅場か愁嘆場が
繰り広げられてしまうのだ。
 さすがにこの年になって榎木津も落ち着いたのか、あるいは
自分で対処するコツを会得したのか、幸いその手の問題は
この頃起きていない。
 だから。密会だろうが集団見合いだろうが勝手にしてくれて
かまわないから、金輪際私だけは巻き込まないで欲しい。
京極堂の場合はあの頃の経験が今の仕事にも生かされて
いるのだろうが、私はもうあんな馬鹿馬鹿しい騒ぎはごめんだ。


 物思いに耽っていると、いきなりだあん、と大きな音がして、
曇りガラスになにやら恐ろし気な影が映った。
カランカラン、とドアの鐘が跳ね返る。
飛んでいってノブをひねると、いきなり巨大なモノがのしかかって
くる。一瞬猛獣に襲われたかと思ったが、それは長い毛足の
黒と銀のだんだらの毛皮のコートを纏った事務所の主が、
両手一杯抱えた荷物を私に押しつけたのだった。
手が塞がっていて扉が開けられなかったのだろう。
「外は寒いぞッ!和寅、コーヒー!」
一声吼えた後、崩れ落ちた荷物を拾おうと屈んだ私に気が付く。
「ああ!関君来ていたか!この時期見ると一層不景気顔だな!
箱に埋もれてそこで寝る気かい─それは全部今日中に人に
あげるんだからだめだよ。和寅ぁ、コーヒー!」
「彼は買い出しに行ったんですよ。」
私は言いながら、きちんときれいな包装紙に包まれた箱や、
無造作に何かを突っ込んだ紙袋や、種々雑多な荷物を
一通り来客用のテーブルに積む。
榎木津はコートと揃いの毛皮の帽子を取りながら、私に言った。
「そんな格好で、君は寒く無いのか?」
どうせ私の上着は今時分にしてはぺらぺらしている。
しかし犬橇でシベリア横断を敢行するような装備の必要性は、
今のところこの帝都では感じない。
「それより榎さんに電話で伝言があったよ。」
「それを早く言ってくれ給え」
私は無言で例の紙片を渡す。
折角私が積んだ荷物の山を崩して掻き回していた探偵は、
思いっきり眉を顰めてメモを睨み(目が悪いのだ)、次に
ぱあっと明るい笑顔になった。
笑顔につられて、つい私も言葉が出てしまう。
「誰から?」
「友達の奥さん。」
聞くまい、と思っていたのに。
にこにこしながら榎木津は言う。
「彼女、凄く良い声だったろう?」
「ぼ、僕は聞いていない。電話は和寅が取ったんだ。」
私は慌てて答える。何を狼狽しているのだろう。
「じゃあ、今夜たっぷり聞けるよ。」
へ?
「あ、あの、ぼくもいくのかい?」
「そうだよ。」
「なんで?」
「大勢のほうが楽しいじゃないか。“猿も山の賑わい”と
いうのを知らないか!」
大勢では密会とは言えないだろう。
それとも私はまた探偵をやらされてしまうのだろうか。

「“山童”にマスヤマがいるから電話─いや、直接行ったほうが
早いな、行くぞ猿君!」
町内の山童楽器店は榎木津の行きつけの店だ。
「ぼくも?」
「そう!君はシンバルだ!」
「し、シンバル?なんで?」
「猿はシンバルを叩くものだ!君は他の楽器はひとつも
出来ないじゃないか。」
「ちょっと待て、説明してくれよ!なんで僕が知らない女の人に
会ったりシンバル叩いたりする必要がある─」
榎木津は腰に手を置いてふんぞり返った。
毛皮がそのポーズに良く似合う。
「必要なんぞないッ!」

しばらく言葉を思い付かない。
絶句している私を見て、毛皮の王様は微笑した。
「必要はないが、楽しいから行くのだ。君は本格的な
クリスマスパーティーなんて行った事ないだろう?」

クリスマス。
クリスマスだって?

「昔馴染みの米軍将校が毎年招待してくれて、
二百人以上は客が来る。余興ではいつも僕の伴奏で彼の
奥さんが歌うんだよ。彼女の歌は素晴らしいぞ!
聴きに来なさい。」
では。「あめにはみつかい」というのは。
「いつも定番の曲の他に、賛美歌を僕がアレンジしたものを
一曲入れているんだ。
他とのかねあいで何を歌うかは当日まで決まらないから、
電話で曲名を知らせてくる。」
そういって榎木津はいきなり張りのあるテノールで歌い出した。

あめにはみつかい よろこびうたえ
つちにはよのひと みつげをきけや
わがきみこのひぞ しにちかませる…

あめにはみつかい。
天には御使い。
賛美歌の題名だったのだ。

それまで思い描いていた、暗い待ち合に座り俯いて雨の音を
聞いていた女性の姿が、高いドームの天井から射す光の中で
誇らかに歌う姿に置き換わる。

それにしても。
聞き馴染みのある曲をえんえん歌い続ける榎木津に声をかける。
「それって、ヴェートーヴェンの第九じゃないか。
榎さんクラッシックは嫌いだったんじゃないのかい?」
「賛美歌になってるからいいんだ。」
気持ち好く歌っていたのを止められて、榎木津は少し不機嫌に答える。
「子供のときはよく教会へ遊びにいった。ステンドグラスが綺麗だから、
修ちゃんが行きたがったんだ。あそこで歌うとすごく気持ちが好い。」
修ちゃん…。き、木場修?
「さっき来いって電話したんだけど、なんか殺気立ってたなぁ。」
「旦那は来れないだろう。年末、警察は忙しいから。」
忙しくなくても西洋式のパーティーなんぞに彼は来ないだろう。
「飲み放題だと言ったら黙って考えていた。来るよ。
ツリーも物凄く綺麗だし。ただし、必ずパートナーを連れて来るように
言っておいた。」
「パートナー?」
「パーティーには必ずパートナーを連れていくのがマナーだろう。
君も夕方にはいっぺん帰ってもっとましな格好に着替えて来い。
もちろん雪ちゃんを必ず連れて来る事。」
そういう自分は。
「敦っちゃんを誘った。喜んでたよ。可愛いなあ。」

 とりあえず、山童楽器店に行く事にする。そこは楽器を貸し出して
くれて、小さなホールもあるのだ。
「なんで益田君がそこに居るんだい?」
「ああ、彼は朝からトリちゃんと一緒に、伊佐間とマチコに楽器を
教えてるんだ。」
い、伊佐間と今川…
「あれであいつらは結構使える。一度軍楽隊の楽器を借りて演奏
させてみたことがあったが、なかなかのものだったぞ。
少なくとも君よりは良い。」
珍しく、元上官は元部下をちょっと誉める。
「それで、何を弾かせたんです?」
「鉄琴と小太鼓。」
どちらがどちらを弾いたか聞く気にもならない。
「箱とコケシに呼び子を吹かせて、みんなで“聖者の行進”を
演奏しながら練り歩こう!」

それではまるで、成仙道ではないか。
“鳴り物入り”とはまさにこのことだ。

「クリスマスは宗教行事だろ?あまり騒ぐと怒られるんじゃ…」
「大丈夫。ミサの時だけ神妙にしていれば、パーティーは古今東西
賑やかなほうがいいに決まっている!
あと、京極には何がいいか。」
裁きの日が来たような友人の顔が脳裏をよぎる。
「いくらなんでも、彼は来ないだろう。」
「神主が神様のお祝事をすっぽかすなんて許されないぞ!
外国の神様だからって差別してはいけないッ!
あいつはやっぱり木魚だな。」
「榎さん、木魚は坊主だ、」
「それなら、賽銭箱の上のでっかい鈴!あれを持って来させよう。」
神をも畏れぬ所行だ。
自分も神だから平気なのだろう。
こんな者に神の御子の誕生を祝われて、果たしてそれは
神の御心に適うのだろうか。


 外は寒いから君も上に何か着ろ、と言いながら榎木津が奥の
部屋から出て来る。
親切は嬉しいが彼が手にしている緑と紫のビロードを接ぎ合せた
マントを見て、その有り難い申し出は丁重に固辞した。
和寅にあてて置き手紙を残し、事務所を出る。
 
 低い建物の密集した路地は、一塊の陰の谷に見える。
その灰色の中を、一瞬小さな白いものがかすめた。
あわてて目を凝らすが、何も無い。
錯覚か…と歩きかけたとき、また目の隅を白いかけらが横切る。
「雪だ!榎さん、雪だよ!」
声をあげて振り仰ぐと、榎木津は空に向けて顔を仰向け、
雪を受けている。
「おお、冷たいッ!これはホンモノだ!本物の雪。
冷たいじゃないか!」
冷たがるわりにはいっこうに顔を背けようとしない。
長い睫に留まった雪片が、瞬くと消えてゆく。
白い、天からの御使い。

「寒いのは厭だが積もるといいな!雪合戦しよう、言うまでも
無いが僕は強い!」
「積もったら帰りが困るじゃないか。」
嫌そうに言ってはみたものの、この灰色の地上を天からの
白い御使いが覆ってしまう情景は、神のみどりごの誕生を
祝うのに相応しい清らかさだろう。
異教の神のことは良く解らない。
けれど、多くの人がそれを望むのなら。

そうだね。積もるといい。

──神の降誕祭 終──


1998年12年



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