「神の薬屋」 開幕   


 こんな光景は見た事が無い。
見渡す限りただ一面に茫々と白い大地。
遠くに形を成さずとろとろと薄鼠色にわだかまるもの。

 ここは、まるで、−異空間だ。

 少年は町中で育った。
どっちに向かおうと彼の行く手には人の手で作られた真直ぐな物、四角い物、
固い物が立ちはだかり、幼い彼を遮り、囲み、護ってきた。
ずっとそれが−世界の形だと思って十数年間育ってきた。
 だから、昨日生まれて初めて母とともに訪れた農村は、
ただむやみに空間が多く、やたらと目の焦点が遠く、
なんとも不安定な印象だった。
 一度も会った事の無い大叔父という人の葬儀は妙にきらびやかで騒々しく、
沸きたつ村人の姿は−祭りのようだ、とも思った。
 その葬列で賑わった枯れ草色の村が今朝は−一面の霧に覆われている。

 足を踏み出すとその下には確りとした黒い大地がある。
今時分早朝はまだかなり冷え込むはずなのに、少しも寒さは感じない。
進めば自分の周囲にだけ現実の世界が生まれ、その外は全て混沌として白い。
幻の雪景色の中を進むようだ。
魂を虚空に吸い出されそうな不安に、無意識に行く手の薄鼠色の塊の方へと
歩を進める。
あそこにはきっと、形のあるものが。

 社だ。
真直ぐに並び立つ杉が最初に形を現し、背後に小さな杜が影となって従う。
神社は人の手で作った物の筈なのに少年には親しみがあまり感じられなかった。
 彼は境内を足早に抜けようとして、異様な−「気配」を感じた。
社の裏に回ってみる。

 まだ芽吹き前のからんとした雑木林には、霧が濃く溜まっている。
気配というのは、詰まる所知覚しない程度の幽かな音の事だと思う。
その幽かな音の重なりが、いくつもいくつも霧の中で−騒めいている。
彼はそっと林の中に歩をすすめた。

 突然。
目の前の白い霧の塊がもわん、と持ち上がり、するすると彼の背丈程に伸びて、
−ぱっちりと黒い二つの大きな眼が彼の正面に開いた。
 叫ぼうとしたが、声が出ない。
驚愕する少年を大きく見開いた二つの眼が暫く見つめ、すっと細くなる。
笑ったのだろう。人間の姿をしている。
女だ。色の白い、眼の大きな、
こんな女はこの村にはいない。

 あなたはこのへんのひと?
女が尋ねる。答えようにも、口が思うように動かない。
 すると。
女の少し後ろの霧の塊がまたもわん、と持ち上がり、するすると彼の背丈より高く伸びて、
白い大きな二つの眼が、彼を見降ろした。

眼鏡の硝子が反射したのだ。
男だ。これも色の白い、眼鏡をかけた、こんな男もこの村にはいない。
 どうしました−
女に低く声をかける。
 見られたようです。どうしましょうか。
見られたって、何を。
どうするって、何を。
 大丈夫−男は少年に近寄った。
手にした金属の鏝(こて)のようなものから、
ばらばら土が落ちる。視線を落として彼等の足元を見ると、落ち葉を
掻き分けて浅い穴が掘られている。男は少年に顔を近付け、囁くように言った。
 ねえ、君。君は死にたくは無いだろう?
しにたくは−ない
 そう、誰も死にたくなんかないよね。
 でも人間は壊れ易いんだ。
死にたくなんかないのに、死ななければならない時は来る。
神様は人間を創っておきながら、随分無責任だとは思わないかい−
男は社のほうに目をやった。聞こえているかも知れない。神様に。
 だけど私達はね、神様がずっと昔から隠して置いた、凄い宝物がある事を
知っているのさ。
それが見付かれば大勢の人が命を保ち続ける事ができるようになる。
君は知らないだろうけど、この世は目には見えない宝であふれているんだよ−
男の白いシャツも灰色のズボンも、泥で汚れている。
女の裾の長い白い服も、朽ち葉が張り付いている。地面に這い蹲って、
何か掘るか埋めるかしていたのだ。
-いったい何を。
 だから私達はこうして皆でそれを探しているんだ。
皆?
ふいに、林の奥の霧がまたもわん、と持ち上がり、がっしりした白い服の
男の姿になった。その隣もまた、痩せた白い服の男の姿になる。
二人はこちらを見ながらなにか囁き合っている。
 少年は悟る。
この林のあちこちに蹲る白い霧の塊は、全てこの男の仲間なのだ、と。
だとすれば、十、十五、いや、もっと、
また、右手奥にもわん、と白い男が立ち上がる。

 あ、あなたたちはいったい、
夢の中のように、思うように声が出せない。
かろうじて口が、だれ、という形を作る。
 私達かい?
奥のがっしりした男がこちらにむかってやって来るようだ。
 
 私達は−薬屋さ

男は、楽しそうに言った。 



1998年11年



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