祓 い 編  



 静かになった。
延々と続いていた密やかで曖昧な啜り泣いているような声が途絶え、
私はほっとして体の力を抜く。
そして漸く、あの声が私自身のものだった事に思い至る。
 私はいつの間にか頭を垂れ背を丸め、まるで神の前で祈りを捧げる人のような形
をしていた。
その姿勢のまま暗闇の中で私は待つ。
ゆらゆらと彩が闇の底を流れて行く。

静かだ。


「君は馬鹿だ。」
 厳かに託宣が下される。
そんなことは解っている。私の聞きたかったのはそんなことではない。

「君はいったい、どうしたいのだ。
そんな事は偶然だ、君の考え過ぎだ、と否定して欲しいのか。
君の言う通りだ、彼女には恐ろしい呪いがかけられていたのだ、と肯定して欲しい
のか。」
 そうではない、私はただ真実を、
「真実を知りたいだけだ、と言うのだろう。そんなもの、当事者の一人もいない今
となっては判るはずがない。いや、その当人達すらも判っていやしなかっただろう
。確固たる真実なんてものは虚像だ。観測による干渉の無い世界の真実の姿など、
確率的にしか捉える事ができないと何度言ったら解るのだ。
君が必要としているのは真実などではない。
君はただ、僕に納得できる理屈を並べ立てさせて、安心したいだけなんだ。」

 そうだ。
私は安心させて欲しいだけなのだ。
そうでなければ、夜となく昼となく常に闇の底を染める四つの色が、
永遠に私の心を捕らえてしまう。

 声が容赦無く私を鞭つ。
「存在したかどうかも分らない、よしんば存在していたとしても結局効果のなかっ
た呪なぞに何故そんなにこだわる。ましてやかけた方もかけられた方もこの世の人
では無いというのに。君が一度も会った事すらも無い、縁もゆかりも無い人達の事
なのに。野次馬もいい加減にしろ、そうやっていつもいつものめり込むのは止せ。
君自身のためにならない。」
 解っている。
「だけど、」
 私は闇の中で抗う。
「言葉は残るんだ。音はその場で消えるけど、一度発せられた言葉の意味は消えな
い。それは君が一番解っていることじゃないか。僕の仕事はその言葉を綴ることだ
。と、取り消したい事もしょっちゅうだけど、いや、そっちのほうがほとんどだけ
ど、できれば僕は僕の言葉が永遠に残る事を願う、」
 支離滅裂だ。何の反論にもなってはいない。私は説明が下手なのだ。
「ましてや名前は、失くしてはいけないものなんだ。
ぼくは聞いてしまった。その名を、その呪を。だから、忘れる事は──」

「君は、馬鹿だよ。」
 声が、静かに響く。

 薄く、目を開く。
目の前が薄ぼんやり黄色い。
畳の面が毛羽立っているのが見える。

私は、たった今自分自身の口から出した言葉を、
早くも取り消したい気持ちになっていた。
確かに馬鹿げている。
 脱力して私は呟く。

「呪なんて──無かったんだろうか──」

「あったよ。」
 私は驚いて、軽く答えた男を振仰ぐ。
 友人は──幽かに微笑しているようだ。

「呪というのは対象に害を与えるためにかけるものではない。
その属性を定め、意味付けするものだ。恣意的な意味が込められているとしても、
それが悪意とは限らない。君は、大事な事を忘れている。」
「でも、悪意でないのなら何故一人だけ、“違った”系統の名がつけられたんだ。」
 結局それが気になるのだ。
「年齢を考えてみろ。」
「年齢?」
「織作四姉妹のそれぞれの年齢差だよ。それぞれ紫さんと幾つ違う。」
 正確には──分らない。
「ええと、紫さんが二十八で亡くなったから、生きていれば二十九。
茜さんとはそう離れていない。ひとつかそこらだ。」
 茜さんは──あのひとと、同い年のはずだから。
「葵さんが二十二、七歳違い、碧さんは十三、うんと離れてて十六歳──」

 まさか。
「やっぱり、碧さんは紫さんの──」
 それは「蜘蛛」が吹き込んだ言葉だ。
 天使を魔道に引き摺り込んだ詛いだ。

「違うよ。紫さんの心臓が悪かったのは嘘ではない。
けれど、周囲も本人もそれを知らなかったくらいだから、彼女はずっと普通の生活
を送っていた訳だ。けれど碧さんが生まれた年、紫さんは長期の病気療養をしてい
たのだろう?」
 それが「蜘蛛」の嘘に信憑性を与えた。
「紫さんは生まれてすぐ、この子は長くは生きられないと宣言された。
けれど、見た所健康な子供と違いは無い。日々健やかに育ってゆく紫さんを見てい
ると、親には医者の言葉など信じられなかったことだろう。この娘は無理さえさせ
なければこのままずっと生きてゆくことが出来るに違い無い、と──そんな気にも
なる。
 やがて茜さんが生まれ、葵さんが生まれる。紫さんは体への負担を心配した両親
によって学校に行く事は止められたが、まずまずの状態が続いていた。ところが──」
 昭和十五年。紫さん十六歳の年。
「紫さんの状態は悪化した。十六年前の医者の予言は適中し、両親の希望は打ち砕
かれた。紫さんは長期の加療が必要となり、一年間家を離れる事となった。その時
期、碧さんが生まれたのだ。」
 永くは生きられぬと言われた姉。
美しく花開き、若くして散る運命の女神の、木花咲耶姫の呪を受けた娘。

その傍らに、生まれ出たばかりの無心の生命。

「茜さん、葵さんが名付けられたときとは状況がまるで違うんだ。
しかも…碧さんには先天的な欠陥が現れる確立がとても高い。」

 呪われた血の娘──

「親は脅えただろう。この娘も失うかもしれない、と。
 だから、名付けた──」

 碧、と。
 石の名を。

「君は忘れているんだよ。石長姫の属性は無産生だけではないだろう。」

 石は、個が永久に続く。

「永遠の生命──じ、じゃあ、」

子孫も繁栄も望まない、ただ命だけを、


「み、碧さんの名は長寿を願ってつけられた、というのか。」


 憎んでいたのではなかったのか。
 呪っていたのではなかったのか。


 母様は、
(かあさまはわたくしのことを──)

「そうだ。君の言う“彩の呪”というのは“呪詛”ではない。
多くの親達が幼子の幸福を祈って名を贈るのと同じ、
それは──“祝福”だ。」



 ……さあさあ。さあさあ。

 波が寄せるような音が聞こえる。
裏の竹薮の、乾いた竹が風に擦れ合う音だ。
この家を訪れた時から、ずっと聞こえ続けていたはずの音だ。

 目の前の男は──微笑っている。

「だいたい君は思い込みが強すぎるんだよ。
普通に考えたら、子供に呪いの名をつけるなんて事は有り得ないだろう。」
 でも、あの母は、
「真佐子さんという人は君達が思っている程厳しい人ではないと思うよ。
君が噂に聞いているのは織作勇之介氏の葬儀直後以降の姿だろう。一族の当主とし
ての責任が一夜にして夫人の一身にかかってきたんだ。弱味は見せられない。外に
も、身内にも。おそらく普段の彼女は、もっと──」
 そうなのだ。
 ほんとうは、優しいひとだったのだろう。
 実の娘ではない紫さんに対しても、あんなに心を砕いていたではないか。
 おそらく碧さんのことも。

「証拠は無いがね。さっきも言ったように、」
 解っている。
 つねづね彼が説くように、世界は不確定なのだ。
観測者が観測した時点で、初めてその性質を獲得するのだ。
 私が消滅した家族に「彩の呪」を見い出した時点で、その呪いは無の中から立ち
上がり、彼が私に説いた時点で、それは祝福として姿を変えたのだ。

「いいんだ、今のが例によって君の詭弁だったとしても、
僕にはそれで──」
 彼の言葉を遮り、私は目を閉じる。
長い間、夜となく昼となく常に私の心の底を染めていた彩が、
春の名残りの花吹雪のように
今──闇の底にきれぎれに輝きながら消えて行く。


 友人の声がする。
もういい加減、同じ事を言い飽いたのだろう。
声が笑っている。

「君は本当に馬鹿だよ。」


−「彩の呪」終り−


1998年12月



*- INDEX / 京極堂Index -*