中伊豆指南 ― 宴の会場 ― (1)  


  風光明媚だ。そう思った。
窓枠の外を明るい緑の野やなだらかな山や柔らかな雲が、ゆったりと通り過ぎて行
く。上下ニ段になった窓は上側が開け放たれ、心地よい風が頭上を吹き抜ける。樹
々も風も、すべてが最も光り輝く季節だ。
私は暗鬱な都会の圧迫から解き放たれ、心が洗われる心地がした。
  その晴れやかな心の表層の陰で、ちらと気掛かりが蠢く。
やはりもう一度彼に電話を入れて、下調べを頼んでおくべきではなかったのか。し
かしこの依頼そのものが、本物だという確証もないのだ。
何も無いというのに友人の手を煩わすというのも気が引ける。
これから調査をしてみて、何か判れば報告がてら改めて頼めば良い。

 線路は緩く山際に沿う。

  驟雨。
私は立ち上がり、窓硝子を閉じるための把手を探した。
そのとき初めて私はその窓の異常に気付いた。
単純に二枚の硝子をスライドさせて開閉するものだと思っていたのだが、上の窓を
閉じるための把手が無い。それどころか、上の硝子そのものがどこにもない。下の
硝子を持ち上げて塞ぐのか?まさかそれでは、こんどは下から雨が吹き込んで座席
も客も濡れてしまう。それとも、気候の良い中伊豆の鉄道車両には、窓が初めから
片面無いのだろうか。
私は窓からの飛沫をまともにかぶりながら、呆然とした。

  そのとき、扉を開けて車掌が入って来た。
「あ、あの、窓、」
私は髪からしずくをたらしながら、窓を指さして呻いた。
「はい、窓、ね。」
薄く微笑んだような表情の車掌は、白い手袋をこぶしに握って、
いきなりこちらに向かって振り上げると、

窓枠の上を殴った。

だん。

硝子が、上の窓枠から滑り落ちる。
車掌は気軽な様子でこんどは隣の窓枠の上をたたく。
だん。
さらにその隣の窓枠を叩く。
だん。

だん。だん。だん。だん。

車掌はすべての天側の窓硝子を調子良く叩き落とすと、扉を開けて隣の車両に行っ
てしまった。向こうの車両の窓硝子も皆叩いて閉めるのだろう。
私は通路のまんなかに立ったまま、あっけにとられて扉が閉ざされるのを見送った。

  何か変ではないか。
山に沿う鉄道がたびたび俄雨に見舞われる事は想像に難く無い。
この列車にいくつ窓があるのかは知らないが、その度に車掌が全ての窓を叩き落と
して回るのだろうか。
それは私が気にする程には奇妙な事では無いのかもしれない。
もっと奇妙といえば奇妙なことがある。
私が始発駅でこの車両に乗った時は、多いとは言えないもののあちこちの座席に客
が居た。発車してからさして時間も経っていないのに、皆何処へ行ってしまったの
だろう。私はからっぽの車両を見回した。

空虚な匣。
窓枠の外はもとの通りの輝かしい初夏の青空だ。
雨が降ったと思ったのは夢だったのだろうか。
いくつもいくつも平行に並ぶ窓の縦枠が、通路に縞模様の影を描く。

これは檻ではないのか。

東京に電話をしよう。
今夜、宿から高い電話代をかけて、あの男の嫌みと罵言と説教を長々と拝聴するこ
とにしよう。私の非理と無知と迷妄を、隅々まで糾弾してもらおう。
夜になれば。
夜に、なれば。

そして、

夜はついにやってこなかった。



1998年10月



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記 v0.36