第3章 シベリア鉄道 ヨーロッパ編(イルクーツク〜モスクワ)

〈一路モスクワ〉
 日付は変わり3月4日午前1時、イルクーツク駅で我々はロシア号を待っていた。バイカル湖ツアーの通訳氏が「夜、駅まで歩くと不良がいて危険です」と言っていたので、トランスファーを手配したのだ。『不良』というと響きは弱いが、『暴漢』トランスファーで新たに真木睦、坂東浩太郎の2人と同乗し、一行6人の日本人団体と化してしまった。凍てつくホームで列車を待つと、ロシア号がやってきた。栄光の列車番号は「一」である。シベリア号よりかなりきれいだ。ゆっくり列車が停車すると、タラップが下ろされた。コンパートメントは私と真木、坂東の3人が一緒で、隣の部屋には残りの三人がいる。
 午前1時4分。いよいよ、一路モスクワへ向けてロシア号が動き出す。4泊後の朝はモスクワだ。発車してすぐに男性車掌が改札とシーツ代の回収に来た。全行程七泊となるロシア号では、女性車掌もいるがわずかに男性車掌も乗務しているのである。顔立ちからドイツ出身かな、と思わせるおじさんである。言葉少なだが、愛想は意外と良い。
 程無く1時59分、深夜のアンガルスクに着く。バディムも今頃ここの実家でゆっくりしていることだろう。この駅はわずか2分の停車で発車した。
 しばらくすると、車掌に案内されておばさん(と言うよりあばあちゃん)がやってきた。マリアおばさんである。いきなり、ヤポーニッツ(日本人)だらけの部屋へ入れられるとは驚きだろう。英語の話せない彼女にリラックスしてもらうため、つっかえつっかえのロシア語でまずは挨拶と自己紹介をしてから
「私たちはモスクワまで行くけれど、おばさんはどこまで行くの」
 と聞いた。おばさんはオムスクだと教えてくれた。ということは到着は明後日であるから、言葉の問題を無視すれば、お話しする時間はたっぷりある。ひとまず、今夜は寝ることにした。


  翌日、突然インスタントラーメンとパンの連続に飽きがきた。というよりウラジオストクから離れるにつれて質の悪くなるラーメンの油に我慢するのがイヤになった。
 車掌は交替した。英語の出来る若い車掌である。酒類、コイン、ロシア号バッジ、ロシア帽など、売り込みがすさまじい。息つく暇もないほどである。少し、警戒心を持つ。
 辞書を頼りにマリアおばさんと会話をしようとしても、なかなか続かないし、誤解もあった。中でもひどいのが、
「オムスク、ボリショーエ・ゴーラト」
 というおばさんの言葉だ。訳せば、「オムスクは大きな町だよ」となる。「町」という意味のゴーラトには一文字違いで似たような発音(聞き分けられないと思うが)の「飢餓」という意味もあるようだ。ここで私たちは「オムスクは大飢饉だ」と受け取ってしまった。深刻な表情の私たちを見て、おばさんは不思議に思ったろう。その間違いに気付いたのは帰国後である。
 モスクワまで4189km。すでに時差の変更地点を 280km過ぎてしまったが、時計の針を一時間戻して17時とする。これでモスクワとの時差は四時間に縮まった。

<やられる>
 エニセイ川を渡る。モンゴルから北極海へ注ぐこの川はその長さ実に5200km。川幅も広く、鉄橋は1キロくらいある。そろそろ夕暮れのころだとは思うが、空は一日中曇っていて、エニセイ川には朽ち果てたようなクレーンが寂しく並ぶ。
 19時46分、クラスノヤルスク到着。地べたに置かれドロドロになっているインスタントラーメン二つとアイスクリームを購入した。
 ここでは軍服姿の3人衆が乗ってきた。アレック、イワン、そしてもう一人の名は忘れた。俺よりは若いようだ。うち一人は隣の藤村たちのコンパートメントに乗ってきた。彼らは英語を話せなかったが、気づいたらウォッカを飲み交わしていた。
 ウォッカ飲みの流儀がまたすごい。まずウォッカをコップに注ぐ。みんなで乾杯して一気に飲み干す。当然ウォッカは強い酒だからそんな飲み方をしたら胃へのダメージが計り知れない。そこで、食べ物か甘いジュース(今回はオレンジジュース)を胃に入れて直接的ダメージを和らげる。そしてウォッカを乾杯して、一気に飲み干す…。
 このループが永遠続くのである。宴も佳境に入ると、なぜかロシア人の女の子が一人加わったり、記念写真を撮ったり、俺は食堂車まで行きウォッカを買ってきて火に油を注ぐような血迷った行為をした。しかし、そうしている間になぜかカメラが消えていることに気付いた。
 やげて宴も終り、行方不明となり気にしていたカメラを知らないかと藤村たちに訪ねたが知らないと言う。でも藤村は続けた。
「俺は早く沈没した振りして上のベッドで寝ていたけど、あいつらおまえらいなくなった時に俺らの荷物ん中、物色しまくってたぜ。清水のカメラもぜってぇあいつら取ったんだよ。」
 ここに記念すべき海外旅行初盗難が不名誉ながら記録された。
 さらに付け加えるなら、我々のバカ騒ぎにマリアおばさんはご立腹だったようである。しかし、翌日謝ったときには「いいのよ、ハハハ」と笑ってくれた。ごめんなさい。


 翌朝3月5日8時、ノヴォシビルスク到着。三人衆は降りていった。俺に強烈な2日酔いとカメラ盗難の謎を置き土産に。
 ホームにスリッパで降りると、さすがに寒い。しかし、キオスクにペットボトルのペプシを発見。1000ルーブルを払い、迷わず購入した。
 車窓もイルクーツクまでの変化に富んだ地形から、行けども行けども雪原ばかりのつまらない風景に変わっていた。退屈なので昼食を食堂車で取ることにした。食堂車へ行く途中、他の車両の車掌がこっちへ来いと言う。ついていくと、そこには日本人がいた。灰原さんという方で、一人世界一周の最中だ。ロシア号にはウラジオストクから乗りっぱなしとのことである。モスクワではベラルーシ通過ビザ取得のため4日間滞在するらしいが、それを聞いた藤村は少しあせりの色が見え始めた。藤村もベラルーシ経由の国際列車でポーランドへ抜けるのである。藤村はモスクワ滞在がわずか2日。しかし、ここで考えてもラチは開かず、藤村は不安を払拭するのに懸命だった。

 さて、改めて食堂車へ顔を出す。メニューを見ると英語併記となっており、国を代表するロシア号らしいなと感じる。俺たちはキャビアとビーフステーキ、紅茶を頼んだ。キャビアは温泉饅頭くらいの大きさで、一人前 16200ルーブルのようであるが、欣司は
「昨日、食堂車へ俺たちがきたら、値段の前に1を足しやがった」
 と言う。どうやら本当は6200ルーブルのようである。たしかに、1万の桁に違う色のボールペンで改ざんした形跡がある。他の品物も軒並み10,000ルーブル分をボッている。これでは、日本の食事の方が安い。しかし、インスタントラーメンに食傷気味だった僕は、毎食食堂車にしたい気持ちにだった。
 部屋へ戻ると、マリアおばさんが
「モスクワとの時差が3時間に縮まったよ」
身振りで教えてくれた。

 しばらくすると真木と坂東が将棋を始めた。マリアおばさんはそれを見て
「パルースキィ シャラギ」(ロシア語でシャラギよ)
 と言う。どうやら将棋はロシアにも伝わっているようである。マリアおばさんは
「何か、賭けてるの?」
 と身振り手振り尋ねるので
「ニェット、ニェット(いや、いや違いますよ)」
 と答えると、おばさんは笑った。
 15時53分、列車はオムスクに着いた。マリアおばさんともお別れである。重そうな荷物を両手に持って、おばさんは去っていった。
 夕方、隣のコンパートメントを覗くと欣司は日記書きに、イットクは車掌から借りたテトリスに、藤村はベラルーシのビザが必要か否かについて悩んでいた。雰囲気はダレ切っている。俺も含めて…。
 この晩もまたインスタントラーメンとパンだった。

<アジアからヨーロッパへ>
 3月6日、午前4時13分。まだ暗いスベルドロフスクに到着したのが分かった。すでにウラル山脈へ入っていることになる。実はこのウラル山中にアジアとヨーロッパの境界を示すオベリスクが立っている。ここで目が覚めたからにはそのオベリスクを見たい。白くて、高さも三〜四メートルほどありそうなので、夜中でも見えるかもしれない。
 窓に顔をくっつけて外を見る。時折、ロシアの近郊型電車と擦れ違う。夜行列車として走っているのなら減光しているのかもしれないが、白熱灯の室内はやけに暗く感じる。
 さて、肝心のオベリスクは一向に見えない。せめて、列車の速度から通過予測時刻を算出しておくべきだったと悔やまれる。結局、知らぬ間にオベリスクを過ぎたようで、5時半に眠りなおしとなった。
 8時20分、起床。まだ列車はウラル山中を走っている。ウラル山脈は意外と起伏がなく平べったい山脈であり、列車に乗っているとウラルだと分からずに過ぎてしまうかもしれない。
 ペルミU駅を出てからモスクワとの時差を1時間に縮める。車窓から家並が途切れることもなくなってきた。別の車両の車掌がやってきて、趣味のコインを見せてくれた。彼はロシア語とドイツ語をしゃべれるが、俺は大学でドイツ語を履修していたものの話せない。結局ボディーランゲージである。彼は一つ一つのコインを丁寧に見せながら、
「もしよければ日本のお金がほしい」
と言う。警戒感が先立つ癖のついた俺は1円玉をあげた。彼は大喜びし、ルーブル硬貨やカペイカ硬貨をたくさんプレゼントしてくれた。なんとなく得した気分だが、実際は等価交換に近い。でも彼の喜びようを見ると、警戒感のあった自分が少し後ろめたい。
 バレジノ12時55分着。物売りのおばさんからマドレーヌを 800ルーブルで購入。なかなかおいしかった。欣哉は昨日飲んだケフィールが腐っていたらしく、トイレと部屋の間を走りまくっている。
 夕方、世界1周の灰原さんがやって来て、コンパートメントで映画や食べ物談義に花が咲く。食堂車は堂々とボルし感じも悪いからみんな行かずに我慢して旅している。藤村が「清水、帰ったらラーメンでも食うか」 と言う。こんなに、うまい飯を懐かしく思うのは久し振りだ。

 明朝はいよいよモスクワ到着だし、夕食はレストランで打ち上げにしようと相成った。と言ってもメニューは豚肉のハンバーグに紅茶とパン。酒は抜きだ。それにしてもおいしい。飯を食うのが何より幸せだ。
 と同時に意外な展開があった。これまで感じの悪かった食堂車のおばちゃの愛想が途中から良くなった。なぜか欣司が食堂のおばちゃんに気に入られた。大笑いだ。料理を持ってくるたびにニタニタ笑う。どうやら欣司のジェスチャーがウケたらしい。
 その晩は、荷物の準備をして時計をモスクワ時刻に合わせて眠りに就いた。

 3月7日午前4時半、車掌に起こされる。終点まで2時間以上はあるのだが、こちらも「時間がないし、ボヤボヤ寝てはいられない」という気持ちになっている。1週間も走る列車の中では2時間なんてアッという間だ。
 洗面所で顔を洗い部屋へ戻ると、シーツは回収されていた。俺も急いで車掌にシーツとタオルを返却した。しかし、再び車掌が戻ってきてタオルが破れていると言う。確かに裾が10センチほど引き裂かれている。身に覚えがないし、真木も俺に「否定しろ」と促す。「俺はタオルを破った覚えがない」と反論してみたが、車掌は「ノー」と取り付く島もない。この車掌は人を騙すようなタイプではなさそうだし、こっちも返すときに破損の有無を確認していなかったので弁償することにした。1万ルーブルだった。ウォッカで酔った時に破ったのか…。
 ロシア号は未明のモスクワ近郊の駅を次々と通過していく。しかし、ウラル山脈を越えてから続いていたコンスタントな高速運転は終り、時速50キロ程度のゆっくりペースになっている。通過する駅のホームは東京と同じように高いホームになっており、通勤電車の往来が多いことを感じさせる。偶然、そうした駅の一つを通過する途中にホームの照明が消された。日本では日の出を待って消灯するが、ロシアでは空が白む前に照明を消している。お国柄なのか、燃料事情の問題なのか…。
 車内にはBGMが流れ出した。曲は「ファンダンゴ」。曲に合わせてロシア号の足取りも軽くなったような気がする。他のコンパートメントの客は山ほどの荷物を通路に置いており、2人の車掌も通路にシーツをばらまいて畳んでいる。足の踏み場もない。俺たちのコンパートメントは妙にすっきりと片付き、終着を待っている。しかし、俺はもう少し乗っていたいと気持ちがある。長距離列車に乗っていると、自分に課せられた行動は食事のことだけで、あとは列車に委ねていられる。しかし、終点に着いたらあとは自分で思案して行動しなくてはならない。自称旅好きな人間のつもりなのに変な考え方かもしれない。もっとも、いざ降りて自分で行動し始めると、そんなことはどうでも良くなり行きたいところを思案するのが楽しくなる。かなり自分勝手な性格だ。
 列車は一段とスピードを下げた。線路が枝別れし、構内へ進入。そして、たくさんのプラットホームが現れ、ロシア号は定刻より3分早い6時42分、終点のモスクワ−ヤロスラブリ駅に音もなく停車した。
 長い旅の余韻にひたるでもなく慌ただしく降りる他の客と
「ダスビダーニャ(さようなら)」
 と挨拶を交わしながらデッキへ出ると、年配の車掌が石炭ボイラーの脇にいる。
「スパシーバ(ありがとう)」
 と声をかけると、無口な彼はニコリと微笑んだ。ホームでは若車掌が扉の脇に立っている。握手でお別れとなった。
 ホテルはみんな同じイズマイロボ・ホテルである。真木と板東はトランスファーをつけているのでひとまず別れ、残りの4人で地下鉄乗り場へ行くことにした。
 行き止まり式のホームを出口に向かって歩き始める。
 未明の濃い霧の中、7泊8日の長旅を終えたロシア号はホームに濃緑色の長い編成を横たえていた。あたりには暖房の石炭の香りが漂う。情を感じさせるこの香りともさよならだ。
 ここからホテルへは地下鉄だ。多くの白タクの運ちゃんとおぼしき連中から声がかかるが、地下鉄の駅を目指した。

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