第4章 モスクワ街歩き編

<競歩の街モスクワ>
 初めての異国の地下鉄。切符ではなくジュトンと呼ばれるコインを購入する。改札口でジュトンを3本のパイプが回転する機械(日本の遊園地によくある)に投入すると、ホームに入れる。だから全線を1つのジュトン(400ルーブル(約10円)均一)で乗ることができる。これはガイドブックで読んでいたので、問題なし。ところが自分の乗る電車のホームとなると、この駅には2路線が乗り入れていることもあってさっぱりわからない。ホームの案内板には列車の停車駅がすべて表示されているのだが、全てロシア語なので意味不明。歩くスピードの早いモスクビッチの邪魔になりながら一所懸命に駅名を解読していた。その時、50才位と思しき紳士が立ちどまり、ロシア語でマシンガンのように話し始めた。どうやら「どこへ行きたいのか」と言っているらしい。すかさず路線図を見せて「イズマイロフスキー・パルク」と言ったら、人差し指で「俺についてこい」という仕草をしてくれた。すかさず僕らはついていった。
 しかし、このおじさんの歩く速度は極めて早かった。我ら4人はバックパックを背負っていたせいもあるが、他のモスクビッチも恐ろしく歩くのが早かった。そしてエスカレーターも恐ろしく早かった。ガイドブックでモスクワのの早さは知っていたが…。日本のエスカレ−タがこんなに早かったら、社会問題となるに違いない。迷路のような通路を通り地下深くのホームに降りたら電車がホームに入ってきた。おじさんが指で「この電車だ!」と指し示し、「アドノー スタンティア…云々(あとは聞き取れず)」と1駅目で乗換えることを教えてくれ(多分)反対方向の電車に乗っていった。我らはバカの一つ覚え宜しく「スパシーバ」とお礼を言った。
 電車に乗って安心するのも束の間、バスのように急加速する電車に俺らヤポーニッツ(日本人)4人全員はコケた。モスクワも東京並みにせわしなさそうだ。

<ある苦労人との再開>
 モスクワの地下鉄は地下深くを走っており、駅は防空壕を兼ねているらしい。いや、そうに違いない。各駅は大理石の壁やパルテノンを連想させる柱、彫刻が居並び、まるで宮殿のようだ。その割りに車両は見た目ボロボロだ。性能は案外良さそうだけど。
 我らは1つ目のクールスカヤで乗換えを敢行すべく下車した。ここは乗換えが意外と簡単で、ほとんど迷わなかった。そうして、4つ目の駅イズマイロフスキー・パルクで下車した。
 外へ出ると、濃霧に浮かぶ高層ビル群が目に入った(と言っても4棟くらい)。これがホテル・イズマイロボである。幸い宿泊先のD棟はすぐに見つかった。まだ8時になるかならないかくらいでチェックインも難なので、ロビーでグッタリとした。
 ふと見ると、見覚えのある顔がやってきた。ウラジオストク空港で会った高田さんである。
 高田さんはイルクーツクまでは藤村と部屋は違っていたが同じ列車だった。列車番号1のロシア号である。だから、そこまでの話しは藤村から聞いていた。しかし、その後イルクーツクからが大変だっただ。会うなり「もうー、まいったよ。まあ、聞いてくれ」と話し始めた。
「イルクーツクからモスクワへ向かう途中に何気なく列車がどこ走っているか、他の客に聞いたんだよ。したら『カザフスタン』とか言われちゃってよぉ。カザフのビザ持ってないしモスクワへ行けるのか分からないし不安だったよ。幸いすぐにロシアに戻ったけど、他の客には『オー、モンゴリアン!』とか言われるし、トイレはロシア号よりボロいわ、モスクワ近くではめたらやったら駅に止るし、最悪だったよ。列車番号が2桁だったから嫌な予感したんだよねー。でさ、その後やっとこのホテルに着いたはいいけど、予約が入っていないって言われてもう1度金を払わされて…。とにかくとんでもない目にあったよ。やっと日本人に会えてホッとしたよぉ」
 と涙ながらに語った。実はこれはあくまで推理だが、予約をした日本の旅行社の実力差によるのかも知れない。ロシア通ではない日本の旅行社に対しロシア国営旅行社“インツーリスト”はいい加減に対応しているのかも知れない。哀れ高田さん。
 すでに真木、板東もトランスファーを使って到着しており、ロビーに降りてきた。もうチェックインを済ませたと言うので、我らもチェックインを済ませ皆で中心街へ出ることにした。

〈不安〉
 モスクワで不安だったこと。それは空港へどう行くかだ。タクシーだと60ドルはかかるから「地球の歩き方」に書いてあるリムジンバスを探そうと、その発着場「アエロバグザール」(直訳すると「空の駅」)へ下見に行った。確かにモスクワの各空港へ行くらしいバスが泊まっているが全てロシア語。カウンターも勝手が分からない。ロシアでは急がば回れを痛感している我らの結論は「こりゃダメだ」。
 気を取り直し地下鉄でついにあの「赤の広場」へ。実際見ると恐ろしく広い。数年前の冷戦下に西ドイツ青年がセスナ機で強行着陸し大騒ぎだったが、それも納得の広さだ。みんなでお上りさん写真を撮る。時折、物売りが近付いてくるがここでは衛兵が追っ払ってくれる。
 そして朝飯をまだ食っていない我々はマックへ行くことにした。でも、どの道がマックへ通じるトベルスカヤ通りなのか分からない。ここで僕のいんちきロシア語が威力を発揮する。
「プラスチーチェ パジャルィスタ。エータ ウーリッツァ トベルスカヤ?」
 (ちょっと、すみません。この道はトベルスカヤ通りですか)
「ニェット」(違うよ)
「ターム?」(あれ?)
「ダー、ダー」(そう、そう)
「スパシーバ」(ありがとう)
おー、すげーロシア語だけで話しが完結した。さすが俺。
僕らは途中のマトリョーシュカ(世界的に有名なロシアの民芸品。木でできた人形を2つに割っていくと、中からどんどん小さい人形が出てくる)の露店で会話を交わしたポーランド人カップルと共にマックへ向かうことにした。でも、落ち着きのない僕らは途中インツーリストホテルを発見。両替や便所拝借など色々便利そうなので偵察することにした。入口ではチェックが厳しそうだったが、我らはノー・チェックだった。
 ホテルではVISAのキャッシュディスペンサーがあったり、国際電話のできる公衆電話などがあり、なぜか大いに盛り上がった。そして1時間後の午後1時、僕らはやっとマックに向かい始めた。
 トベルスカヤ通りを歩いているとジプシーがいた。10才くらいの少年少女ばかりだ。まさかジプシーがモスクワにいるなんて知らなかった。後に本を読むと、ジプシーはソ連時代からいたらしいが、長年の放浪の習慣のため計画経済の働き手に組み入れるのは当局にとっても至難の技だったらしい。
 モスクワのマックは開業時、ものすごい行列で有名だったが、今はそれほどでもない。5分位待つと、自分の晩が来た。店員はショートカットの似合うとても可愛い女の子だ。しかも、スマイルだ。ウラジオストクからひたすらツッけんどんにされ続け、ボラれ続けた僕もこれならボラれてもいいや。「これとこれとこれ」と片言のロシア語で頼むと彼女はニッコリ笑いうなづいた。
 頼んだのはビックマック、ポテトL、アップルパイとシェイクのストロベリー。合計で22100 ルーブル(約 450円)。明朗会計だ。怪しいシベリア鉄道のラーメンからやっと解放され、久々のマックに至福の時を過ごした。

〈クレムリン〉
 次はクレムリンだ。泣く子も黙るクレムリン。恐ろしい。一度入ったら2度と外界の土を踏むことがないかも知れない。恐怖だ。ここでは公式に高額の外国人料金をボる。しつこいが恐怖だ。中国では外国人料金が撤廃されたが、ロシアには21世紀まで残りそうな気がする。
 クレムリンは12世紀初めに大公ユーリー・ドルゴルーキーが作った木造砦がルーツで、私的イメージとしては冷戦時代の泣く子も黙るクレムリンが大きい。
 クレムリン内部には毎月再塗装しているのでは、と思うほど鮮やかな黄色い館や金色に輝く玉葱型鐘楼の教会(失礼、イワン大帝の鐘楼だ)などが並ぶ。「徹子の部屋」に思いを馳せているのを打ち破ったのは欣司である。「大砲の王様」の脇でロシア人観光客に写真を撮ってやる、と言って彼等のカメラを指差している。これで2度目だ。交流意欲旺盛というか、ほとんど押し売りである。さっきは成功したが、今回は一人が欣司にカメラを手渡そうとすると、別の女の子に「ニーッ、ニーッ(ダメ、ダメ)」と言われ作戦失敗。やはり未知の他人にカメラを手渡すことは盗まれることを意味するのだろうか。ところでクレムリンには2つの王様が存在する。一つは先程の「大砲の王様」、もう一つは「鐘の王様」である。

 「大砲の王様」は内径890mm の砲身を持つ世界最大の大砲でありながら、1586年に作られてから一度も発砲したことがないという。君は世界平和のために打たなくて結構だ。
 「鐘の王様」は1735年鋳造の重さ200 トン、直径6.6m、高さ6.14m という世界最大の鐘である。しかし、落成直後の1737の大火の際に裾が大きく欠けてしまったため音が出ない。聞くところによると火事の時にわざわざ鐘に水をかけたために局部冷却され(というより焼き入れ)、欠けたらしい。
 2人の王様はハッキリ言ってガラクタだが、ロシア人の粋な面をも感じ取ることができ、ほのぼのする。
 そんな王様に少し呆れたところで武器庫へ向かう。
 武器庫は16世紀頃から武器や鎧の製作工房があった。今では武器はもちろんエカテリーナ2世の戴冠式に使われた 398カラットのダイヤモンドの王冠を始め、金銀財宝の塊のような馬車、各種戦利品などが意外と無造作に置かれている。猫に小判、豚に真珠…。

 晴れて生還した我々は、陽が暮れてから赤の広場に面する百貨店「グム」を冷やかした。ソ連時代からの百貨店で、3階建で天井はドーム型のガラス張だ。今ではコダックやソニー製品も見掛けるし、、物も豊富そうだ。しかし値は高い。ちなみにジュネーブの調査機関GRGが行った衣食住の値段から割り出した暮らしにくい都市は1位が東京、2位が香港、3位はモスクワ、4位大阪である(朝日新聞97年8月5日)。この物価高はその後のレストランなどでも感じることになる。

モスクワの夜
 午後7時。歩いてクレムリンの西に位置するアルバ−ト通りへ。
 アルバート通りは日本でいう原宿、渋谷あたりのイメージらしい。しかし、甘かった。アルバート通りの1ブロック手前の大通りを歩いていると、10名ほどの少年たちが道に広がってヤクを吸っている。やばいが、こっそりそいつらの中央突破をした。突破したところでパトカーのサイレンの音が…。少年らは焦って僕らにぶつかりつつも猛然とダッシュして人込みに消えた。
 アルバート通りは道幅10メートル程度の通りにカップルや家族づれが連れ立って歩いている。ショーウィンドーには、まだ流通し始めたばかりであろう高価な外国製電化製品が置いてある。寒い冬の夜、彼らはそんなショーウィンドウに自分のささやかな夢を見ているのだろうか。思えば今回の旅ではショーウィンドウなど目にしてこなかった。社会主義下では一見して店と分からないような地味な店が多かったようだ。
 ぼくらは最初ロシア料理を食べようとあるレストランに狙いを定めた。丁度食べ終えたロシア人がレストランから出てきた。僕らは「ここはいい店か?」と聞くと「うまいし、安い、GOODだ!」と言うではないか。我らは喜び勇んで店に足を踏み入れ、一応メニューを見せてもらった。したらば恐ろしく高い。日本で食べるのと同じではないか。僕らは店を後にした。さっきのロシア人は金持ちのニュールシアンに違いない。
 我らはやむをえずピザ屋へ入った。ここも高級そうだ。店員も英語をガンガン喋る。案の定、高かった。我ら7人でピザ3つを分け、紅茶を飲んでお終いとなった。周囲のロシア人と比べて身なりも頼む量もひもじかった。

〈戦う〉
 3月8日。ホテルで朝食を済ませる。朝食には白いパンと黒パンが各テーブル毎に置かれている。シベリア鉄道から空腹感がおさまらない僕はたくさんのパンを食べた。幸いぼくは黒パンの酸っぱさがたまらなく好きであり、ほかの人はその酸っぱさがたまらなく嫌いだった。よって戦わずして大量のパンを食べることができ満足だった。
 地下鉄に乗り、プローシャジ・レボリューツイ駅(革命広場駅)に着いたのは10時頃だった。我らは赤の広場へ抜ける細い路地へ入った。1つ目の角を曲がった時に我らは出会った。3メートル前方、Gジャン、スキンヘッドの連中が6〜7人、道一杯にこちらへ向かってくる…
「ネオナチだ…。間違いない。」
我らに引き返す時間的余裕はなかった。強行突破敢行。ネオナチの一人が急にこっちへジャンプしてオレの肩にタックルをかましやがった。
「Oh」
 感嘆符「!」が付かない程度にちょっと小さな声を出した。攻撃は予想できたので、そんな「!」がつくほどは驚かなかったからだ。ネオナチは「Ohとか言ってるぜ」みたいなこと言いながら去っていった。畜生!今度会った時はただじゃおかねえぞ!あくまで、今度…。
 赤の広場で地図を買おうと露店のおやじと話していると、コートの後裾をまくられた。「やめてよ、このスカートめくりっ!」…いやいや違う。スリだ。素早く平手でその手をパシッとはたいた。幸い、後ポケットに財布もなかった。
 この頃のモスクワは殺人事件の犠牲となる人が一日に300人以上とNHKで言っていた。単位人口あたりの殺人者数もアメリカを抜いていた。モスクワはアル・カポネを始めとするギャングが全盛だった頃のシカゴに似た状況らしい。
 町をプラプラするうちに昼となり、ぼくらは立ち食いの大衆食堂へ。腹一杯食って\200弱だった。
 午後は、8本程買ったウォッカを日本へ送りたい欣司と共にみんなで郵便局捜しをすることになった。
 しかし、地図にある中央郵便局は見付からず、道行く人に会話集を使って聞き出すが、誰も分からない。すると、さっき聞いたおじさんがもう一度やって来て、「連れてってやる」というようなことを言う。僕は怪しいおじさんと感じなかったが、他の人は怪しいと感じていたらしい。しかし構わずおじさんに着いていった。地下鉄に乗りトベルスカヤ通りへ。僕は覚え立てのロシア語自己紹介を、おじさんは僕の辞書を使い、モスクワ郊外で農業を営んでいることを教えてくれた。
 途中、おじさんは道行く人に何度か道を尋ねているようだった。一方、我ら日本人は警察に呼び止められた。ロシア人のおじさんと歩いていたから怪しまれたのか。例によってパスポートはロシアの規則通りホテルにあずけてあるが、警察にそのことを説明しても「Reason? (理由は)」と繰り返す。「まあ、つかまることはないだろう」というこちらの余裕もあって、お互いバカバカしくなってきて無罪放免となった。
 やがておじさんは「ここだ」と指差し、「ダスビダーニャ(さよなら)」と言ってにこやかに去っていった。僕らも「スパシーバ」とお礼を言って笑顔で別れた。
 しかし、そこは郵便局ではなく中央電報電話局であった。
「あのおやじさぁ、最初はヤバイかな、と思ったけどいい奴だったんだな」
「そうだよな、わざわざ地下鉄使ってまで案内してくれて。でも最後になってここが郵便局じゃなくて電話局だと分かって、気まずくなって郵便局の前で帰っちゃったんだろうな」おやじさんの優しさに、郵便局だろうが電話局だろうがどうでも良くなった。
そこで「電話局で小包送ってしまえ」作戦敢行。なんかロシアならこれもありなんじゃないかと…。窓口のお姉さんの答えは明確だった。
「ニエット(だめ)」

〈最後の晩〉
 もう夕暮れも近かったため、ホテルへ戻った。イズマイロフスキーパルクの駅を出ると、物売りがひしめいていた。その中にキャビアの缶詰が…。\500という破格に引かれ買ってしまった。ブランド品を買う日本人の心境はこんなところでも発揮されてしまった。
 明日はみんなモスクワを発つ。観劇中の真木、坂東を除いた4人でホテルのカレー屋で黒ビールを乾杯し、それぞれの無事を祈った。

〈最後の日〉
 3月9日、ついに東京へ帰る日だ。
 朝6時、空路ドイツへ向かう欣司とイットクをロビーで見送る。ホテルのフロントを通してタクシーを頼むと高そうなので、彼等は同じホテルに泊っていた一人旅の木村さんのタクシーに便乗するべく前日に手を打っていた。(実際に安く済んだかわからないが)
 7時、やはりヨーロッパへ行く真木と坂東を見送りにロビーへ降りたが、会えなかった。 8時、藤村とレストランへ。酸っぱいロシアの黒パンも食べ納めだ。個人的には好きな味だった。
 藤村は今夜ベラルーシ経由の夜行でベルリンへ向かう。ちょっと不安なようだ。
 フロントでウズベキスタンを回ってきたという平山さんと一緒に町を歩くことにした。まずは藤村が今夜乗る駅を下見するため、ベラルーシ駅へ。ここでもパスポート提示を求められた。平山さんと僕はホテルをチェックアウトしたため、パスポートを持っていたが藤村は持っていなかった。彼は駄目もとで国際学生証を提示したら、大丈夫だった。3度目の正直で警官との論争なしのパスポートチェックとなった。
 ベラルーシ駅からはベラルーシやウィーンへ向かう列車が出ている。ホームには丁度国際列車が到着して、賑わっていた。
 僕らは次にロシアの最高学府モスクワ大学へ行った。校舎はスターリン様式と呼ばれる重厚壮大な高層建築物である。モスクワ市成立100年を記念しスターリンが発案したものである。モスクワ市内に7つあるスターリン様式の1つだ。豪華だが、冷たい感のある建物だ。
 遅めの昼飯を昨日と同じ赤の広場近くの立ち食い食堂で済ませ、僕らは別れた。

〈さらばロシア〉
 ホテルへ戻り、クロークへ預けていた荷物を手にタクシーへ乗った。
 ロシア製の白い車(ラーダかモスクビッチだろうけど)だった。車は外環状線に乗り、シェレメーチェボU国際空港へと向かった。地平線の見える高速道路では、ガス欠の車やチェルノブイリ原発と同型っぽい発電所を眺めていた。最初は違和感すら覚えたこの景色も何か見慣れた懐かしいような錯覚にとらわれた。
 打ちのめされ続けた旅だった。でもまた来るかも知れない。
 ウラル山脈を越えてから姿を見せなかった太陽と青空が広がっていた。少し眠くなってきた。

TOPページへ