序章  初めての海外編 (東京〜新潟〜ウラジオストク)

 <旅立ち>
 静かな朝だった。今年初めての雪が東京へ降ったその朝、私はシベリア横断鉄道の旅へ出発した。雪がしんしんと降る中、通い慣れた駅への道をゆっくり踏み締めながら、初めての海外旅行に一人旅立つことへの期待と心細さが交錯しているのを感じた。学生時代を締めくくる密かな冒険の始まりである。
 シベリアを鉄道で横断したい…。そう思ったのは年の瀬も迫った94年の12月23日のことである。その頃は締め切り間近の卒業研究に没頭しつつも、卒業前の一人旅を楽しみにしていた。行き先は北海道を予定していたが、ふとシベリア鉄道が思い浮かんだ。冬の凍てついた大地を走り、アジアからヨーロッパへ…。旅は思い立ったが吉日だ。試しに調べてみると、卒業研究提出後に出発してもシベリア横断が十分に可能であることがわかった。こうして、シベリア横断鉄道の旅を決行することになったのである。新潟から空路でウラジオストクへ。ウラジオストクで1泊してからシベリア鉄道に乗り、バイカル湖で有名なシベリアの街イルクーツクで途中下車して1泊。そして、再びシベリア鉄道に乗りモスクワへ。ウラジオストクからモスクワまでその距離9297q、車中7泊、世界一長い鉄道の旅である。

 うっすらと雪化粧をした東京の街を眺めながら、果たして無事に帰ってこれるのか不安だった。しかし、引き返そうとは考えなかった。今まで冒険らしいことなどしてこなかった僕だが、今回の旅は自分の中では冒険として考えてきた。だから、ここで帰るなど論外だった。しかし正直なところ不安は大きかった。
 上越新幹線に乗り、上越国境を越え一路新潟へ。初めて降りた新潟駅は、日曜日だったせいか、やけにひっそりとしていて寂しかった。

 新潟空港には早目に到着した。レストランで昼御飯をゆっくり食べ、余裕をもって出国手続きを行うことができた。
 静かな待合室で待つことしばし、スマートな機体のアエロフロートロシア国際航空機が到着した。旧ソ連製旅客機ツポレフ154である。乗ってきた客を降ろし終えたら今度はこちらが乗る番である。タラップを上がるとロシア人スチュワーデスが
「コンニチハ」
 と微笑みかける。こちらも緊張しつつ
「こんにちは」
アエロフロート新潟→ウラジオストク
 と返す。そして機内を奥へ進むと、座席の背もたれが前方に倒れているものがあった。これはリクライニング機能のない非常に簡素な作りの座席で、国際線にしてはお世辞にも上出来とは言えないかも知れない。
 やがて15時30分、後ろ髪を引かれるような私の思いとは裏腹にアエロフロート機は新潟空港を定刻にテイクオフ、一路ウラジオストクへ向かった。

〈初めての異国〉
 日本近海は雲海続きだったが、ロシア上空に入ると雲が晴れてきた。同時に下には初めて見る異国の風景が広がり始めた。すでに高度は下がってきている。眼下には茶色い湿原が広がり、時折小さな家が白い煙をたなびかせているのが見える。ここがロシアのどこなのか全く分らない。あるいはロシアと国境を接する北朝鮮か…。いずれにせよ、その荒涼とした原野は私に多少の緊張と大きな不安感をもたらした。
 しかし、そうしている間に飛行機はみるみるうちに高度を下げウラジオストク空港に着陸した。 1時間20分のフライトはあっという間だった。
 ウラジオストク到着の放送が流れるが、結局機内放送はロシア語と英語だけだった。飛行機が停止すると、エンジンはただちに停止され電灯も消された。この省エネ精神はやむを得ないのだが、凄いとも思う。タラップを降りると暖房なしの錆び付いたバスで空港ターミナルへ連れていかれた。ここで入国審査となるが、早速ロシア名物の「行列」を味わうことになった。心細さも手伝って、後ろの日本人に話し掛けた。後に再びモスクワで会うことになる高田栄二さんである。ロシアへはソ連時代にモスクワへ行ったことがあるそうだが、ウラジオストクは始めてとのこと。一足先に今夜のロシア号でイルクーツクへ向かうと言う。高田さんは
「もしよろしければ、今夜ウラジオストクを一緒に散歩しませんか」
 と誘ってくれた。しかし事前に集めた情報ではウラジオストクは治安が悪いと聞いていた。高田さんに
「多分、ここは危ないですよ」
と言うと、前にいた日本人商社マンと思しき方が
「そうですよ、ウラジオストクは軍関係の失業者が多くて夜は特に危険ですよ」
と教えてくれた。夜の散歩は断念した。
 30分ほどして自分の番が来た。パスポートとビザを見せ入国審査は完了。続いて預けた荷物を持って税関申告だ。いかつい審査官が
「荷物はいくつだ」
「2つ」
 答えると税関申告書にハンコを押してあっさり通してくれた。やっと空港ロビーへ出ると出迎えのロシア人青年が待っていてくれた。予め日本でトランスファー(送迎)を予約していたのである。
「ハロー」声をかけると、待ってましたとばかり彼もニコリとして「ハロー」と答えてくれた。彼は
「もう一人、フジムラという人が来るので、外貨両替をして待っていてください」
 と言って、両替所を指差した。インフレがどの程度治まっているか分らなかったので、取り敢えず20ドルをルーブルに両替し 87000ル−ブルとなった。渡された紙幣は低額紙幣が多く、 500ルーブル札は 100枚も束になっていて、財布には入らないので取り敢えず無造作に上着のポケットに入れた。早くもインフレを実感させられた。
 その後、私は送迎車に乗せられて待たされた。そして、20分程過ぎてフジムラは現れた。どうやら税関でオセロゲームまでもじっくり不思議そうに見られ、かなり時間を食われたらしい。彼を乗せるや車は急いで走り出した。
 彼の名は藤村。東京の大学に通う大学4年生である。陸路、ベルリンへ向かうと言う。
「やっぱり冬にシベリア鉄道なんてアホなことやる学生は自分以外にもいるもんだな」
 と意気投合した。海外はパック旅行でしか経験がない彼にも今回の旅は不安であるようだ。彼も先程の高田さんと同じく今夜のロシア号で次の目的地イルクーツクへ行くという。イルクーツクでは2泊してモスクワへ行くと言うが、その列車は偶然にも私と同じ日のロシア号とのことである。孤独ではなくなる。
「旅の後半は少し気が楽になるな」
 という言葉がお互いの正直な気持ちを表していた。
 窓の外はすでに日が暮れて暗くなっていた。最初はあたり一面の湿原だったが、知らない間にトロリーバスの行き交う町中に入っていた。石造りの重厚な建物が並び、信号待ちも段違いに増えてきた。街路樹の歩道を家路へ急ぐ少女。その脇を白熱灯が薄暗く点るくたびれた路面電車が走り抜けて行く。見るものすべてが今までの日常と違う。「ロシアへ来た」という実感が嫌が応にも湧いてきた。
 そうこうしている間に車はホテル「ウラジオストク」に到着。藤村君とは旅の後半での再開と無事を祈り別れた。

 〈ロシアンホテル〉
 チェックインはトランスファー(送迎)の人がやってくれた。ここのホテルは英語が通じないらしい。部屋へ入ってから明日の列車のチケットを渡された。ロシア旅行をするには、旅行の全行程を決めてから列車、ホテルの予約証明(バウチャー)を取らないとビザ(査証)が発給されない仕組みになっている。だから、列車のチケットもバウチャーと引き換えに現地の旅行社からもらわないといけないのである。※3
 早速チケットを確認すると、日本で貰ったバウチャーに記載の第1列車ロシア号ではなく第7列車に変更されている。発車時刻は5分違い。少々、不安だがロシア旅行では直前の変更なんてよくあるらしいので気にしないことにした。ただ、発車が明晩深夜 0時55分なので安全を考えてトランスファーを頼んだ。
 時刻はすでに午後8時(日本時間:同日午後7時)を回っていた。まずは空腹を満たすべく、同じフロア−(4階)のバー「エキスプレス」へ行った。
 薄暗い室内にはロックがガンガン響き、数人のロシア人客が酒をあおっていた。カウンターにはロングヘアとショートヘアのロシア美人が2人。ロングヘア女性がニコリとして英語書きのメニューを出してくれた。
「食べ物ある?」「ヌードルはどう?」「スパゲティ…。まっ、この際何でもいいや」
 と思い注文した。ところがどっこい出されたものをはMade in Koreaのインスタントラーメン(1.5ドル) だった。日本人だからこれを勧めてくれたのだろうがヌードルというイメージからはあまりにそれは遠かった。仕方なく食してみたが、咳き込むほどコショーがきつかった。
 ここらへんで本場のウォッカも飲みたくなってきた。シベリア鉄道での7日間に備えロシア語の練習もしたい。
「ヴォートカ・アブソリュート、パジャルィスタ(ウォッカ・アブソリュートをお願いします)」
…どうやら伝わったらしい。ウォッカ(2ドル)は思ったより飲みやすく(政策によりアルコール度数が抑えられているという噂も聞いたが…後にその政策は撤廃)すぐ空になった。メニューをよく見て、今度こそウマイものをと期待して、ホット・ソーセージ(1.5ドル)とビール(2ドル)を頼んだ。ビールは西欧からの輸入品。手作り風ソーセージにはパンが添えられ、インスタントラーメンと同じ値段とは考えられないくらい美味しかった。
 ところでカウンターの壁にドルとルーブルの換算レートが書かれている。その理由はすぐに分かった。極度のインフレ下のロシアでは物価が一日で変わるので、ルーブル表示でメニューなんか作っていられない。そのため、メニューの値段はドル表示にし、会計時にルーブルへ換算して払うということのようだ。
 「ショット、パジャルィスタ(勘定、お願いします)」
 と言うとロング女性はニコリとうなづいて電卓を叩き“30100 ”とメモした紙を見せてくれた。貼ってある換算レート通りだった。
 部屋に戻りテレビをつけた。テレビも韓国のサムソン製だ。国営オスタンキノテレビ(後に民営化)を見ていると「バーパー・アクション!」とか言ってホールズのCMをやっている。驚きは日本では時報のときに 5秒くらい前に時計が現れてカウントダウンするのに対し、ここでは60秒前からモスクワ時間の時計が現れた。その時差 7時間。調子が狂う。
 やることもないので、三脚を立てて部屋の中で記念写真を撮った。この時の写真は今でこそ笑えるが、旅への不安感が表情に滲み出ている。風呂の準備をしようとバスタブにお湯を入れ始めると鉄くさい茶色の湯が出てきた。覚悟の上とは言えいやだ。シベリア鉄道では風呂に入れないし、次のホテルで湯が出る保証もないし…。と考えつつもとっとと髪も顔も洗ってしまった。

 深夜0時丁度。電話のベルが部屋に響く。心細い時の電話のベルはかったるいものだ。一応、受話器を取ると
「ハロー、マイネーム イズ ピトロービッチ。Beautiful girl.100dollers…」
 ペチャクチャうるさい。
「ニエット、スパシーバ。ノー、サンキュウ」
 ロシア語+英語で言って電話を切った。しかし数分後ふたたび電話がかかってきた。どうせピトロービッチだ。うるさいので電話線のプラグを抜いてやった。
 帰国してから本で読んだが娼婦はソ連時代からいたらしい。一見社会主義と相入れない職業だが、中には特殊な任務を帯びた女性が著名人をワナに嵌め、スパイに仕立て上げるというようなことがあったとかなかったとか。
 やがてベッドに入ったが、冷蔵庫のサーモスタットが作動する音や、外の車の騒音や人の声がうるさく3時頃までまどろんでいた。

〈街へ…ウラジオストク〉
2月27日月曜日。 8時半に目覚まし時計で目が覚めた。明け方はとても寒かった気がする。窓のカーテンを開けると、流氷で埋め尽くされた港が広がった。少し窓を開けると冷たい風が頬にあたり心地いい。
9時半、昨夜と同じバーへ行き朝食を頼む。店員は昨夜いた二人のうちのショートヘアの子である。彼女にはスマイルが全くない。ロングヘアの子はとても感じがよかったのに。ロシア人らしいおすまし顔なのか…。
 通路寄りの四人テーブルに落ち着くと、彼女がやって来て卵の調理法について
「…オア フライド?」
 と聞いてきた。全部は聞き取れなかったが目玉焼きが良かったので
「フライド プリーズ」
 と答えておく。
 カーテンを全開にした店内は昨夜とは異なり清々しい。小さい4人用テーブルが6卓にカウンター8席ほどの狭い店内ではロシア人客も朝食をとっていた。
 朝食はナチュラルチーズ四切、サラミ、トマト、キュウリがひと皿に盛り付けられ、別の皿には日本の食パンの半分位の大きさのパンが五切れのっていた。早速、食べ始めたが飲み物がいくら待っても出てこない。ちょっと聞こうと思って
「エクスキューズ ミー(すみません)」
 と言っても、「あとで」という感じにあしらわれる。10分位に渡って2〜3回呼んだが、あしらわれっぱなし。こうなったら無理やり頼むしかない。
「チャイ、パジャルィスタ(紅茶、お願いします)」
 とロシア語で言ったらやっと持ってきてくれた。ロシアンティーとは言っても砂糖が2袋だけでジャムはなかった。
 やがて、カウンター席にいた若い韓国人男性が英語で
「相席してもよろしいでしょうか」
 と話しかけてきた。こちらはロシア語で
「パジャルィスタ(どうぞ)」
 と答えた。奥さんかどうかわからないが、ロシア人女性も一緒に相席と

なった。彼はソウルに住んでおり東京へも2度行ったことがあるそうだ。奥さん(?)共々
「ギンザ ストリートへ行ったことある」
 と言ってニコニコしていた。心細かった僕の心も少しなごんだ。
「ごゆっくり、どうぞ」
 と言って私は席を離れた。

ウラジオストクの街並 

 ところで飛行機での海外旅行にはリコンファーム(予約の再確認)という手続きが必須だ(最近は不要な航空会社もある)。これをしないと、帰りの飛行機に乗れなくなる恐れがある。私は航空会社へのリコンファームがてら散歩に出ることにした。
 外は快晴である。ホテルは高台にあるのでホテル前の道からの見晴らしは良い。初めて異国を歩く。 100メートルほど行くと枯た並木の続く坂下にウラジオストク駅が見えた。ふとその景観が函館に似ているような気がした。ウラジオストクと同じように坂が多く、ロシア正教教会などのある函館と似ていることは当然のことかも知れないが、もう一つ理由があった。それは走っている車のほとんどが日本車であることだ。ウラジオストクでは日本車が九割を占めているのだ。おまけにその坂を下っていくと、日本でよく見るスクールバスの黄色い三角マークを付けたバスがあるではないか。
「へぇ、これって万国共通マークなのか」
 と一瞬感心したが、車体側面には「みどり幼稚園 富良野市扇町…」と書かれてあった。その後も町中では日本製スクールバスや教習車が日本のロゴもそのままに走っているのをたくさん見掛けた。

 アエロフロートオフィスへ行くと、窓口のおばさんは自分の仕事に熱中し、「すみませーん」と言っても振り向きゃしない。仕方なく黙って待つ。窓口には桜井幸子のポスターがあって「ロシアで人気あんのかな?」と思いつつよく見るとポスターの隅に某日系大手商社のロゴが。総合商社おそろしや。
 脇にいた英語話したそうなロシア人に
「どこから来たの?」
とか聞かれて、話ししている内に窓口おばさんは仕事を終えたようだ。

 リコンファームを済ませ、昼御飯を食べるべく港ターミナルへ向かった。ターミナルは人でごった返していた。歩いていると、前を歩く3人の警官がこちらを振り向きサッと袖をつかんだ。彼らは
「パスポートを見せなさい」
 と言ってきた。ロシアでは外国人旅行社はホテルにパスポートとビザを預けることになっているので、当然携帯していなかった。その旨を彼らに説明しても理解してくれない。止む得ず、パスポートのコピーがないかとあちらこちらを探していると、彼らは「やれやれ」という感じで私の肩を叩いて去っていった。冷や汗ものである。もっとも彼らがニセ警官の可能性の方が大きい気もするので、そういう意味でもホッとした。
 ターミナルのカフェ「フォンタン」でミートソーススパゲティーとパンを食べながら一息ついてホテルに戻った。疲れたので少しお昼寝。

 17時半、再び散歩へ出る。街角でハンバーガーを立ち食いしながら、革命広場から軍艦の並ぶ海岸通りへと出た。ウラジオストクはロシア太平洋艦隊の母港であり、その軍事的重要性から外国人の立ち入りはできなかった。しかし一九九二年一月、ついに外国人に開放された。ウラジオストクとはロシア語では「東方を征服せよ」という意味である。この名と反対の方向へウラジオストクは流れている。素晴らしいことだ。
ウラジオストク中心部
 日暮れは意外と遅いのだが、かなり日が傾いてきたので引き返すことにした。大通りへ通じる道へ入ると小さなカフェがあった。看板をよく見るとキリル文字で「УДОН(ウドン)」と書いてある。入口は木でヒサシを作りそれとなく和風の門構えを成している。しかし、窓もないその建物に入る勇気はなく、実態を確かめるに至らなかった。
 ホテルに戻ってからは、ホテル1階のロビーで鳥の手羽、卵、パンをたっぷり食べ今夜から始まるシベリアの旅に備えた。

〈元気をありがとう〉
 23時45分、ホテルの玄関前に出る。夜風が冷たい。トランスファーの車もちょうど着いたようである。空港から送ってもらったときと同じトヨタのタウンエースなので、すぐそれと分かる。 髭のおじさんと奥さんと思しき人が降りてきたので、ロシア語でこちらから挨拶をした。
「ズドラーストヴィチェ(はじめまして)」
 二人ともニコニコして
「ズドラーストヴィチェ(はじめまして)」
 と答えてくれた。おじさんが英語で
「清水敬一さんですね?」
 とメモの名前を示しながら確かめた。
 車に乗ると、助手席には息子さんがいた。家族総出だろうか。おじさん、いやお父さんは車を走らせ始め
「結構、待ったかい?」
 と聞く。私は
「いやいや、全く待ってません。少しだけ。1分だけですよ、1分」
 と答えるとお父さん、お母さん、息子さん3人揃って大爆笑した。3人とも英語が通じるようである。しかし、車は1分足らずでウラジオストク駅に着いた。発車まで1時間もある。てっきり待合室へ案内されて終りかと思いきや、お母さんが
「まだ時間があるので、お話しでもしてましょうよ」
 と言う。お父さんも同じ事を言う。内心、ホッとした。昼間散歩した時に見た待合室はあまりに寂しかったからである。となりに座っているお母さんは
「ウラジオストクは気に入ったかしら」
「これからどこを回っていくの」
 と次々に聞いてくる。息子さんはお母さんの話のネタにされたりして、その度に照れ笑いを浮かべている。お父さんは
「日本のどこから来たの。学生なのかい」
「車は運転するのかい」
 と聞いてくる。車は持っていないと言うと、お父さんは
「すると、自転車だね」
 と突っ込んでくる。私は
「そうです。そうです。自転車だけなんですよ。車は高い!」
 と答えたら、またもや大爆笑になった。ロシアンギャグはこういう路線だろうか。
 楽しい時間はすぐ過ぎるものである。息子さんは車に残り、私はご夫妻に列車まで案内される。駅舎は改築工事の終わりが近いようで、お母さんはあちらこちらを指差して
「イタリア様式よ。すばらしいでしょ」
 と絶賛する。工事は何年も続いているようだが、細かい所にまで気を配っているところにロシア人気質というようなものを感じる。
 階段を降りるとホームに出た。緑色の長い編成の列車が横たわっているが、先頭も最後尾も見えない。暖房用の石炭の甘酸っぱい香りが郷愁を漂わせている。切符に書いてある11号車のところまで行くと車掌がいた。女性である。ロシアでは中国などの共産圏と同様、圧倒的に女性車掌が多い。切符を見せて乗り込むと、ご夫妻が
「ここだ、ここだ。このコンパートメントだ」
 と言って教えてくれた。
「じゃ、私たちはここで失礼するよ。良い旅を。」
 お父さんに続いて、お母さんも
「また、ウラジオストクに遊びにきてね」
 と言ってくれた。こちらは最後はロシア語で締め括ろうと
「スパスィーバ、パカー(ありがとう、また会いましょう)」
 と言った。この言葉は適切だったか分からないが、ご夫妻はニコニコして去っていった。窓からホームを見るとご夫妻がこちらを向いて大きく手を振っている。少し心細さがなくなった。

〈ウラジオストク緊急逮捕〉
 日付は変わり 2月28日の 0時を過ぎていた。四人用コンパートメントにはまだ誰も乗客が乗ってきていない。これからシベリア横断鉄道の旅が始まる。
「旅立つこの風景を撮りたい…」
 ロシアでは軍事施設はもちろん、空港や鉄道駅での撮影も禁止されている。しかし、最近は規制も緩くなっているらしいので、「フィルムを抜かれても構わない」と覚悟してホームで写真を撮り始めた。目立つストロボは使わず三脚を使用したがさすがに緊張感が走る。4コマほど撮ったとき、三〇メートルほど遠くにいた車掌が懐中電灯で足元を照らしながら走ってきた。乗車する時に改札をしていた女性車掌で、年は私と同じくらいだろう。彼女はニコリともせず私のカメラを指差しながら、マシンガンのごとくロシア語で喋っている。何を言っているのかわからないが、「駅で写真を撮ることは禁止よ。フィルムを渡しなさい」だろうと勝手に解釈した。私の負けだ。フィルムを巻き戻し彼女に手渡した。「今日のウラジオストクの写真は全部消えたか…」
シベリア号出発の夜
と落胆していると、彼女は渡されたフィルムを不思議そうに見ている。彼女は立ち去ろうとせず、また烈火戦車のごとくロシア語を喋り始めた。その時、若い警官と普段着の青年がやってきた。彼は車掌に「何があったんだ」と話し掛けているようだ。笑顔はもちろんない。
「まさか、連行なんてことはないだろうな…。そういえばKGBは本当になくなったのだろうか。フィルムだけで見逃してくれないかな…。」
 さすがにこちらも焦りを感じてきた。しかし、その焦りはすぐに消えた。
 警官と青年は、車掌の話を英語に訳してくれた。
「君が一人で写真を撮っていたから、彼女は君の写真を撮ってあげようとしたんだよ」
「ヘッ!?」
 そう、車掌は好意を持って話し掛けてきたのだった。日本のマスコミによるソ連取材ですぐにファインダーを塞がれてしまう映像が焼き付いていた私にとって、それは予想外の結末だった。
 そこで私がフィルムを渡した経緯を訳してもらうと、車掌はそれまでの恐ろしいほどのすまし顔を崩しきって吹き出すかのように笑った。けたたましいほどだ。それからはすぐに打ち解けた。
「ハラキーリ! アハハハ」
 笑い声が深夜のホームに響き渡った。

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