1章 原始仏教とその時代

あらゆる思想は歴史の文脈の中で読まなければならないといわれる。思想はその時代の問いに答えるものであり、その意味で歴史の産物だからである。釈迦の仏教も例外ではない。釈迦がどのような時代に、どんな問題に直面したのかを知ることによってはじめて、何を考え、何を語ったのかを理解できるはずである。

また原始仏教の経典は物語形式の大乗仏典と違って、釈迦の言行録の形で書かれていてその言葉は多くの場合断片的である。したがってその意味を読み取るためにはあらかじめ原始仏教の全体について一定の輪郭を描いておくことが必要と思われる。幸い近代仏教学は膨大な経典群を分類整理してその骨格を明かにしてくれている。そこでこの章では本論に入る前の準備としてまず釈迦の時代について、次いで原始仏教の基本的な性格と教義の骨格について見ておきたい。

 T 釈迦の時代

釈迦の生没年代は、 学者の間に諸説があって正確な年代は今も分からないというのが実状だろう。有力な説をあげても、BC483年説、BC383年説などさまざまで、資料の取り方によって100年の開きがある。一般に古代インドの文献は、著者の名前や著作年代が一切記されていないのが特徴だというからやむを得ない。学者はギリシャや中国に伝わった文献の年代から逆算して推定を試みているのだが、新資料でも発見されない限り当分年代の確定は難しいと思われる。ここでは仮に中村元博士の説を取って、釈迦の没年をBC383年としておく。そうすると、釈迦は35歳で悟りを開いた後45年間説法活動を続けて80才で没したとされるから、釈迦の在世期間はBC463383年、つまり紀元前5世紀半ばから4世紀の初期にかけてということになる。

当時釈迦が生きた北インド゙の地は戦乱に明け暮れていた。ガンジス河流域に群立した大小の王国が統一され、やがてアショカ王による全インド統一帝国の成立(BC263年頃)へと向かう過渡期であった。それはインドにとってかつてない危機の時代であり、国際化の時代であった。しかしこの時代が人類史上に持つ意味はそれだけにとどまらない。視野をインドから世界に広げて見るとき、もっと重要な意味が浮かび上がって来る。(写真:ヴァイシャーリー アショカ王石柱)

当時世界の文明の先進地は、中国、インド、ペルシャ、イスラエル、ギリシャであった。これらの地域には、釈迦が生きた時代を含む数百年の間に、期せずして巨大な思想家群が一斉に現れている。中国では孔子や老子、さらに諸子百家と呼ばれる思想家群が活躍した。インドには釈迦とジャイナ教の開祖マハーヴィーラが生まれた。これに先立ってウパニシャッドの哲学が展開され、続いて後世の仏教が六師外道と呼ぶ思想家群が現れている。ペルシャではゾロアスターがあたらしい宗教を開いていた。

イスラエルではイザヤ、エレミヤ、第二イザヤといった後期の予言者たちが現れて、モーゼ以来の部族の宗教とは異なるユダヤ教を確立した。それは同時に、やや遅れてくるイエスのキリスト教を準備する仕事だったといえるだろう。ギリシャにはいうまでもなく、ソクラテスやプラトンがいた。これに先立つ詩人ホメロスや多くの哲学者たち、さらに歴史家や悲劇作者などきらびやかな名前がひしめいている。人類はある意味で今にいたるまでこれらの思想家が用意した思考の枠組みの中でものを考えて生きて来たといえるだろう。

なぜこの時期にこれほど集中して巨大な思想家群が現れたのであろうか。またそれは何を意味するのであろうか。歴史家や哲学者のなかにもこの時期に注目する人は多い。しかし問題が大きすぎるのであろうか、ほとんどは感想を述べるにとどまってこの現象について正面から分析を試みる人は少ないようである。そうしたなかでドイツの哲学者ヤスパース Karl Jaspers 18831969)は具体的にこの時期に言及しているひとりである。これを手掛かりに私なりにこの時代の持つ意味を考えてみたい。

 基軸時代

ヤスパースはこの時期を「基軸時代」と呼んで人類史上の四つの節目の一つに数えている。

   @      人が言語と火の使用を覚え、道具を発明した時期
   
   A      BC5000〜2000年の間にエジプト、メソポタミヤ、インダス川流域、
       そして中国の黄河流域に高度な古代都市文明(夏・殷)が発生した時期 
   B      「基軸時代」、BC5世紀を中心にBC800~BC200頃
   C      19世紀から今世紀にかけての「科学と技術の時代」

第三の「基軸時代」についてヤスパースは二つのことを指摘している。一つは上に見たように、当時の文明の先進地でこの時期に不思議なほど集中して偉大な思想家や宗教家が輩出していること、もう一つはこれらの先進地ではいずれも基軸時代にすぐ続いて世界帝国が成立している事実である。

ギリシャからペルシャにかけての地域では、アレキサンダーの大遠征によってヘレニズム世界が開けた。インドではアショカ王による全インドの統一帝国が出現した。中国では秦の始皇帝による天下統一が成っている。これらの世界帝国はいずれも過去の小さな都市国家、たとえばアテネとかスパルタといった都市のイメージからは想像することもできない、巨大な国際国家であった。ヤスパースは、基軸時代はこうした世界帝国への変化を準備した時代、過渡期であったという。この基軸時代について、ヤスパースは次のように言っている。

  「今日まで私たちの思惟が依ってきているところの基礎的範疇は、この時代にできたのでありま    す。また世界宗教が生まれて、人間はそれによって今日まで生きているのであります」。                   ヤスパース選集6 「歴史の起源と目標」(理想社)

  「神話時代は…終わりを告げておったのであります。…神話との闘争や…虚偽の神々に対する  闘争が始まったのであります。…はじめて哲学者が現れたのであります。人々は個人として独立  しようと試みたのであります。…」      
                   「哲学入門」ヤスパース 草薙正夫訳 (新潮文庫)

ヤスパースの言う基軸時代とは、第一に、人々が<個>としての自分を意識し始めた時代、<個人>として氏族や部族といった古い共同体から独立しようとした時代だといえる。

  

 (1)  <個人>の出現

私たちは、自分が一人の個人であることを疑う余地のない自明のことと考えている。しかし<個人>は決して初めからあったものではなく、歴史的に形成されたものである。しかも個人の出現は人類の長い歴史に比べればごく最近の出来事であった。インドの場合を考えてみよう。

 インドの場合

 今もインドの支配的な人種であるア−リヤ人の諸部族は、紀元前1500年頃インドに侵入し、インド西北部、今のパキスタンの地に一旦定住した。ここでかれらはヴェーダの宗教を完成したといわれる。世界最古の文献の一つとされる「リグ・ヴェーダ」はその神々への讃歌集である。紀元前1000年頃になるとかれらはさらに東進してガンジス川上流の肥沃な土地を占拠し、そこでバラモン教社会を確立した。それは祭祀を司るバラモンを頂点とし、クシャトリヤ、バイシャ、ス−ドラのいわゆるカ−ストの身分制度を軸とした強固な氏族制農耕社会であった。各氏族は血縁を軸に共有の神話によって固く結ばれた共同体で、人々はその一員として生きていた。いわば共同体の一部として、共同体の運命を共に分け合って生きる存在であった。かれらも肉体を持つ以上一度は死ななければならない。しかしかれらは、死すべき自己の運命をヴェ−ダの神々に託すことで案外のんびりと構えていることができたはずである。

ところが技術が発達して生産力が上がり、社会的分業が進むにつれて社会の結束に亀裂が生じ、人々の中には自らを共同体とは別個のものとして自覚するものが現れる。<個人>の意識の萌芽である。一方では戦乱が起きて氏族や部族の統一が進み、中にはさらに東のガンジス河中流域へと進出する部族も現れてきた。こうした社会変動を契機として、一旦共同体からの独立を自覚した<個人>の意識は加速度的に成長する。そしてやがて自己と共同体の利害の対立を意識するまでに至る。人類の歴史に<個人>が登場したのはこのときであった。

 死の運命

<個人>は古い共同体の呪縛から解き放たれて自由を謳歌した。しかしそのことは同時に、かれらが一人で生き、一人で死ななければならないことを意味していた。<個人>とは何よりもまず、自らの運命を自ら担って生き、死んでいく人間を指しているだろう。人間の死すべき運命、この不合理をいかに克服するか、これこそ人類初の諸<個人>が直面した最大の課題であった。紀元前800年頃に始まる古ウパニシャッドの哲人たちが取り組んだのはまさにこの課題であった。かれらは、ヴェーダの神々を疑い、バラモンの祭祀の効果を疑い、徹底的に思索を巡らした。その結果、個人の内奥に潜む不滅の霊魂、すなわち「ア−トマン」の形而上学を打ち立てた。また、霊魂が次々にあたらしい肉体に入り込み、何度でも生まれ代わるという「輪廻」の思想を説いた。あたらしい時代の課題に対するかれらの回答であった。しかしなおこの頃は、<個人>の意識に目覚めたのはバラモンやクシャトリヤの少数のエリ−トたちに限られていた。大多数の大衆は古いカーストの制度にがんじがらめに縛られ、しかも自らそのことを意識することもなく生きていたと考えられる。

 動乱の世紀

歴史はまもなく前6世紀の大動乱期に突入する。この頃までにア−リヤ人は、さらに東のガンジス中流域に進出していた。今のウッタラ・プラデシュ州やヴィハール州、聖地ベナレスやブッダガヤのある地域

である。かれらは各地に都市を築き、互いに勢力争いを演じていた。争いはエスカレ−トして大規模な征服や略奪がくり返された。これに伴って禁じられていた階級間の通婚や土着民との混血が進み、古いカースト共同体は危機に瀕した。共同体から放り出されたり、さまよい出たりした諸個人の数は爆発的に増えていき、各地の都市に流れ込んだ。あるいはどこからか現れた大小の英雄に率いられて新たに都市を建設した。都市は成長して大都市になり、大規模な王国が成立した。これが仏典によく登場するマガダ国やコ−サラ国である。(右:インド地図)

文明の中心は、この頃にはすでにかつてのガンジス上流から中流域のこの地に移っていた。そこではすでに高度な貨幣経済が行われ、多くの富豪が住み、豪勢な邸宅を構えた高級娼婦まで現れていた。もはやバラモンの権威は地に落ち、クシャトリヤの武力が世の中を支配する時代になっていた。かつてのヴェ−ダの共同体は影をひそめ、時代はすでに一人一人の人間が自らの運命を生身で背負って生きる「個人の時代」になっていたのである。戦乱は絶えることなく、諸王国の興亡が続いた。それは大きく見れば、前3世紀のアショカ王による大統一帝国への過渡期に属していた。

荒々しい現実を眼の前にした諸々の<個人>にとって、ウパニシャッドの哲人たちが説いたア−トマンの形而上学はもはや空しい言葉の羅列としか映らなかっただろう。古いヴェーダの神々もなく、よるべき哲学もなく、人々は自らの生の目的、価値の基準を見失っていた。社会の秩序は、クシャトリアの武力と、その武力を味方につけた商人たちの利害関係の打算によってかろうじて保たれていた。

こうした社会を背景に、「沙門」と呼ばれるあたらしい形の修行者、哲学者の群れが現れ、<個人>のための新たな哲学を説き始めた。多くは王族や富裕な商人層の出身で、人生の意義を真剣に模索する真摯な若者たちであった。 釈迦もその一人だったことはいうまでもない。後世の仏典は釈迦以外の沙門を「六師外道」と呼んでいる。しかし実際には、かれらは釈迦に先立って大きな学派を形成した優れた学者たちであった。かれらは、唯物論、唯心論、懐疑論、宿命論、はては虚無主義、快楽主義などおよそ考えられる限りの人間の生き方、考え方を説き、議論を展開していた。こうした中で生き残り、後世に人類の教師と讚えられたのが釈迦であり、ジャイナ教の開祖マハ−ヴィーラだったわけである。

インドの場合についてみてきたが、世界の文明の先進地ではどこでも似たような経過を見ることができる。この頃中国にもギリシャにもイスラエルにも、すべての先進地に都市が成立していた。ここで都市とは血縁とか共有の宗教による絆を持たないバラバラの諸個人がただ自らの意思でさまざまな契約関係を取り結ぶことによって暮らす社会のことである。これら諸都市が戦乱の世紀を経て、やがて大統一帝国に吸収されていく過程も酷似している。  

  蜜蜂の共同体

<個人>は、共同体に所属して生きた過去の人間とは異なる二つの大きな特徴を持っている。一つは共同体の必要に沿って厳重に抑圧されていた欲望が一挙に解放されたこと、もう一つは、自ら死の運命を自覚したことである。その事情は、やや極端な喩えだが、蜜蜂の巣のことを考えてみると分かり易いかも知れない。蜜蜂の巣には女王蜂とたくさんの働き蜂がいる。一匹の働き蜂が死んでも巣の命は続いていく。働き蜂はもともと巣の一部分として巣の命を支えるために生きるのだから、その働きを終えて別の働き蜂と交代すれば使命を全うしたことになる。また、蜜蜂は花の蜜を求めて飛び廻る。この意味で欲望を持っている。しかしそれは自分の所属する巣の要求と一体になった本能的な欲求と考えられる。

人間の場合も、<個人>として独立する前の個体は似たような意味で氏族や部族といった共同体の一部として、共同体と共に共同体の命を分け合って生きていたと考えてよいだろう。結束の要は神話であった。個体は、自らの運命を共同体の神々に託す形で生きていたのである。したがって一人の個体が死んでも別の個体に入れ替わることができた。

かれらの欲望も固い絆で共同体に縛り付けられていた。共同体の存続に奉仕すること自体がかれらの本能的欲求の大きな部分を占めたはずである。仮に固体独自の欲望が生じたとしても、共同体の利益に反するものであればたちまち抑圧されてしまったに違いない。

ところが、人間が共同体から独立して<個人>として生きる時代になると様相が一変する。個人にとって「死」は自分が無くなることであり、問題のすべてである。「死」への不安と恐怖がこうして最大の問題になった。「人間はなぜ死ぬのか」、この不合理がかれらの最大の関心事にならざるを得なかった。一方でかれらの欲望は共同体の呪縛を解かれて一挙に花開き、無限にはばたくものになった。<個人>は各人の力に応じてしたいことをし、欲しいものを手にする自由人である。しかし諸個人の解放された欲望は各所でぶつかりあって諸個人間の闘争を生む。あたらしい世界は仏典にいう修羅の世界でもあったのである。

こうした変化は無論何百年もかかって徐々に起きたものだろうが、一旦起きてしまうと人間の生き方を一変させる画期的な出来事であった。インドや中国、ギリシャといった当時の先進地でこの変化が完成したのがヤスパースの言う基軸時代だったのである。

 (2) 世界帝国

ところで基軸時代についてヤスパースが指摘しているもう一つの事実、世界帝国の成立は何を意味するのであろうか。紀元前334年、アレキサンダーはマケドニアを発って東方への大遠征を開始した。釈迦の没後50年から150年後のことである。10年足らずの間に今の中東地方の全域を席巻して古代インドの西端、今のパキスタンのガンダーラに達している。大王はインドの象群との戦いに苦戦して引き上げる途中病死したが、行程は18000キロに及んだという。途中ペルシャ人の美女たちをマケドニアの将兵に与えて大量結婚式を挙げたりしている。この大遠征で大国ペルシャは滅亡し、ギリシア、エジプト、アジアにまたがる大帝国が出現した。それはアテネやスパルタといった過去の都市国家のイメージからは想像も及ばない、ただ無限に広い新世界であった。

学者はこれをギリシャ風文化の世界、「ヘレニズム世界」と呼んでいる。ローマ帝国に引き継がれるまで約300年続いた。ヘレニズム世界には、はじめさまざまな土着の宗教が流行したが、1世紀半ばには早くも使徒パウロがこの地に伝導を開始している。イエスの教えはその後急速にヘレニズム世界に浸透した。キリスト教はヘレニズム世界によって初めて世界宗教への道を切り開くことができたといえるだろう。



 インドの場合も同様である。アショカ王の全土統一によって縦横数千キロに及ぶ一大国帝国が出現した。それはアーリア人だけでなくドラビダ人とかムンダ人といった先住民、あるいはかつてのペルシャなど周辺の各地から入り込んださまざまな異民族をごたまぜにした國際国家であった。当初ガンジス河沿いの小さな地域の小さな宗教だった仏教は、このアショカ王の帰依によって一挙に世界宗教の地位を確立した。始皇帝によって統一された中国の秦帝国についてもほぼ同じことがいえるだろう。  

  構造的変化

文明の先進地のすべてで、ほぼ時期を同じくしてこうした変化が起きていた。それは人類が住む世界が構造的に変化した時代、人間が一人ぼっちの個人として無限に広い新世界に放り出された時代であった。人々の前にあったのは、従来の部族や氏族といった共同体の中の常識では生きられない未知の新世界であった。

無論こうした変化は何の準備も無しに突然起きるものではない。大遠征を支えるためには莫大な物資と格段に進んだ軍事技術がなければならない。途中の地理や敵の戦力についての情報も必要である。とすれば、生産力の増大や技術革新、広い地域間の人的交流といったことがこれに先だって格段に進んでいなければならないはずである。むしろ逆にそうした変化の結果として大帝国が出現したと考えるべきだろう。

基軸時代はこうした大統一帝国の時代への過渡期であった。人間の住む世界が構造的に変化しつつあった時代、変化の渦中にあった時代でといえる。人間の住む世界が変われば、その生き方も変わらざるを得ない。人々はあたらしい生き方を求めて苦悩する。そうした人々の要求に答えて現れたのが、インドでは原始仏教だったわけである。釈迦はかれらの苦しみを除くために命がけで修行し思索した人であった。

 人類の教師たち


 孔子と釈迦、ソクラテス、それにイエス・キリストは世界の四聖といわれる。「人類の教師」と呼ぶ人もいる。これらの偉大な人物は、それぞれ世界の異なる地域の異なる社会に生き、その比較的狭い地域の人々を教化して一生を終えた人たちである。したがってもちろん相互の交流はなく、その教えの内容も大きく異なっている。にもかかわらずかれらの教説には、一つの大きな共通点を見ることができる。それは、諸々の<個人>を対象に、<個人>のための生き方を説いている点である。この特徴は、かれら以前の共同体の宗教にはないものであった。

孔子やソクラテスの教えを宗教というかどうかは別として、私はこの特徴を持つか否かによって、つまり個人の運命を見据えているかどうかによって、二種類の宗教を区別できると考えている。すなわち「共同体の宗教」と「個人の宗教」である。世界宗教、あるいは普遍宗教と呼ばれるキリスト教や仏教、イスラム教などはすべて後者に属している。(写真:釈迦断食像)

人類の教師たちの教説は、必ず欲望の制御を説き、「生と死」の意味を語っている。ソクラテスはアテナイの法廷で「死」について語ったあと、自ら毒杯をあおって人々に「生」の意味を教えた。イエスはもっぱら個人のために、個人の生と死について語った。イエスと釈迦はまさに個人のための宗教の確立者といってよいのではなかろうか。中国の孔子は少し様子が違って死について語ることを拒否した。弟子の季路の質問に「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」と答えている。しかしこれは孔子が死を問題にしなかったことを意味しないだろう。むしろ弟子の季路があえて死について質問し、孔子がこんな答えをしていること自体、死が大きな問題であったことを示していると見るべきではなかろうか。

つづく(→ 1章U 原始仏教の基本的性格)     目次に戻る