次ぎに原始仏教の基本的な性格を次の3点に絞って見ておきたい。
1「神を立てない宗教」 2「生と死−複眼の哲学」それに 3「社会改革の宗教」
である。
原始仏教には<神>が不在である。一神教でも多神教でもなく、いわば無~教である。この点はおそらく多くの宗教のなかでも仏教だけの特質ではなかろうか。そのためにヨーロッパの学者の中には仏教は宗教ではないという人がいる程である。
日本の仏教も神を立てない点では変わらない。しかし一般には少し誤解されている面があるのではなかろうか。神はいなくても仏(ホトケ)がいる、阿弥陀如来や観音菩薩がいるではないかと思う人がいるかもしれない。しかしいわゆるホトケは神ではない。たとえばキリスト教の神は唯一絶対の神で、人間がどんなに修行しても絶対に手の届かない存在である。これに対して仏(ホトケ)は、人間が修行して悟りを開けば成れるものである。ブッダというのは本来、覚者=悟った人という意味である。
仏陀とか如来というと、神と変わらないように聞こえるが、それは悟った人、仏陀の偉大さが時代とともに神秘化されたせいに過ぎない。釈迦は35歳で悟りを開いたが、その後80歳で亡くなるまで普通の人間であった。「大徳よ」とか「尊師よ」とか呼ばれて尊敬されたが、決して超越的な存在ではなく、生涯弟子たちや訪問者の問答の相手であった。それが釈迦の没後時代が下がるに連れて、人間には手の届かない偉大な存在とされるようになり、尊敬の対象から崇拝の対象へ、さらに大乗仏教(紀元前後)の頃になると礼拝の対象へと神秘化されていった。しかしそうなった後でも、たとえばキリスト教の唯一絶対の神とは異なる性格を残している。大乗仏教の仏陀の一人阿弥陀如来は、もとは法蔵という名の比丘(修行者)であった。浄土三部経の大無量壽経には法蔵比丘が何万年という長い時間修行して阿弥陀如来になる話が出てくる。
日本古来の祖先崇拝の宗教では、人が死ねばホトケになり、適切に供養されると氏神になって子孫の繁栄を見守ってくれると考えられた。この点で仏教とよく似ている。しかし仏教では死んで仏になるのでなく、生きたままで、より正確にいえば生と死を超えることによって仏になる。成仏というと日本では死ぬことのように思われているが、本来は仏になる、人間が悟ってブッダになることを意味していた。釈迦も悟りを開いて釈迦如来になった人である。イエスのキリスト教は、古いモーゼの神を引き継いであたらしい世界の人間の在り方を考えが、仏教はヴェーダの神々を引き継がなかったわけである。
神に祈ることも神を賛美することもなかった釈迦の宗教はいったい何をしたのであろうか。その本質は悟ること、解脱であった。「解脱」の意味については本論で検討するが、あらかじめいえば、論理を超えた直観によって自ら真理を体得することである。しかし釈迦はこの解脱の前に人間と世界について思索している。この世界における人間の在り様を具体的に論理的に徹底して考えている。解脱はこの思惟の最終局面で人間のコトバと論理を飛び越えるところに開ける宗教的境地であった。この意味で釈迦の宗教は思惟の宗教ということができる。
たとえばキリスト教では、「はじめに信仰ありき」である。神学は神の言葉をどのように解釈し、この世の人間にどのように適用するかを考える学問であった。後世の浄土仏教でも、「仏法は信をもって能入とす」といわれるように「信じる」ことが先にあった。しかし原始仏教にあっては自ら「考える」ことが先にあり、神やホトケを「信じる」ことは問題にならなかったのである。このように原始仏教は基本的に思惟に支えられる宗教であった。そしてその思惟について二つの特徴を指摘することができる。人間中心主義と合理主義である。
原始仏教が考えた最大のテーマは、この世の人間の苦しみをどう解決するかということであった。したがって人間の苦しみの現実を徹底して見つめている。バラモン教のように、神に生け贄を捧げて救いを求めるのでなく、人間が自分の手で何とかしようとしたのである。原始仏教は神を立てないのだから人間中心になるのは当然ともいえる。しかしそれが徹底している。たとえば人間の住むこの世界についてもキリスト教などとはまったく違う考え方である。次ぎのような経がある。
この経は本論でも取り上げなければならないが、経題の「一切」はこの世のすべて、つまり「世界」を指している。その世界は人間の六つの感覚器官である六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)とそれぞれの対象である六境(色・声・香・味・触・法)の組み合わせからできているというのである。キリスト教では、世界は神が人間のために作り給うたものである。ところが原始仏教では、人間が眼で見、耳で聞くもの、つまり人間が感覚で受け取ったものだけが世界なのである。なおここには「神」や「霊魂」が含まれていないことに注意しておきたい。
原始仏教の思惟のもう一つの特徴は合理主義である。この世はなぜこんなに苦しいのかという問いを徹底して現実的に、具体的に、しかも不思議なほど合理的・論理的に考えている。その証拠の一つとして学者が「無記」と呼ぶ釈迦の態度をあげることができるだろう。当時の沙門たち、つまり哲学者たちの間では世界は有限か無限か、肉体と霊魂は同一のものか別のものか、悟った人(仏陀)は死後も生存するかしないか、といった問題が盛んに議論されていた。今の私たちから見てこれらは宗教で議論されてよいテーマのように思える。ところが釈迦はこの種の議論を一切していない。これらの形而上学上のテーマについて人から議論を吹っかけられても決して答えることなく固く沈黙を守ったという。それだけではなく、弟子たちにもこの種の議論に加わるなと厳しく禁止していた。次の経はその理由を明解に示しているといえるだろう。
878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見を抱いて争い、(自ら真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。……
883 ある人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。……なぜに諸々の<道の人>は同一のことを語らないのであろうか?
884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。……
890 もしも、他人が自分を「愚劣だ」と呼ぶがゆえに、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手)とともに愚劣なものとなる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しうるのであれば、諸々の<道の人>のうちに愚者は一人もいないことになる。
ここでは沙門たちの議論の不毛さを皮肉な調子で指摘している。
釈迦の「無記」の態度を示すものとして、このほかにも「毒矢のたとえ」という面白い話がある。マールンキャという弟子の一人が釈迦の無記の態度に不満を持ち、あるとき師を訪ねて上のような形而上学上のテーマについて釈迦に解答を迫った。これに対して釈迦は「毒矢のたとえ」を説いて諭したというのである。
(前段略)
マールンキャよ。この喩のように…(中略)
マールンキャよ。<世界は常住である。世界は無常である。世界には限界がある。世界には限界がない。霊魂と肉体は同じものである。霊魂と肉体は異なったものである。死後に精神は存続する。死後に精神は存続しない。死後には精神は存続しまたしない。死後に精神は存続することもなく存続しないこともない。>といった偏見を抱いているかぎり、迷いがあり苦悩がある。私はその苦悩を脱却する道を説いているのだ。
マールンキャよ。だから、私によって説かれないことは、説かれないままに受け入れ、私によって説かれたことは、説かれたままに受け入れよ。(以下略)
「南伝大蔵経」高楠順次郎監修 第10巻P222~231
釈迦は、この種の議論は論理的に答えに至ることがないことを見通していたといえるだろう。そこから、出家者に対しては、そんな暇があったら修行に励めと言い、在家者に対しては現実の良い行いに努めよと教えたのである。
原始仏教は生命を生と死の二つの側面から捉えていた。同様に世界の事物を生起と消滅の二つの側面から捉えた。このいわば複眼の哲学こそ原始仏教のすべての思索を支える基本的な枠組みであった。
8 「私は若い」と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が自分の命を当てにしていてよいだろうか?若い人々でも死んでいくのだ。―男でも女でも、次から次とー。
9 ある者どもは母胎の中で滅びてしまう。ある者どもは産婦の家で死んでしまう。またある者どもは這いまわっているうちに、ある者どもは駈け廻っているうちに死んしまう。
12 陶工の作った土器のように、人の命も終には壊(ヤブ)れてしまう。
すべての生きものは死ぬ、にもかかわらずすべての生きものが生命を惜しむ。これは生命の根本矛盾である。釈迦はこの二つの事実を凝視していた。そして前者について、過ぎ行くものを追いかけてはならない、こだわりを捨てよと解脱を説いた。後者について、殺してはならないと慈悲に生きる道を教えた。二つの教えは矛盾している。この矛盾を解くことはこの本の中心テーマの一つであり、本文で詳しく検討しなければならない。だがあらかじめ一言でいえば、生と死を一連の過程として捉えることによってこの矛盾を超えたといえるだろう。
人は生まれ落ちると同時に死に向かって歩みはじめる。生存は死に向かう過程なのである。原始仏教の人々はこのように生と死を一連のもの、一体のものとして捉えた。仏教の「生死ショウジ」という言葉はこの観点を表現している。解脱とは生死を越えることだといわれる。それは死ぬことを意味しない。生と死を共に越えてその裏側の真相に身を委ねることなのである。
かれらはこの観点を世界の事物に押し広げて原始仏教の世界観を構成した。すなわち、世界を生起と消滅の二つの側面から観察したのである。基本はあくまでも消滅の側にあった。すべての存在を消滅に至る過程として捉えたのである。原始仏教によれば、私たちが経験するすべての事物はその過程にたまたま現れているものなのである。
原始仏教はこの二つの側面を表現する独特の述語を持っていた。「法(ダンマ)」と「行(サンカーラ)」である。行(サンカーラ)とは滅するもの、過ぎ去るものである。法(ダンマ)とは生起しているもの、この世に現れているものである。
「諸行無常」−すべての存在は滅するものである
というとき、「諸行」は死−消滅の観点から見た世界の事物である。また、
「諸法無我」−すべての存在は不変の本質をもたない
というとき、「諸法」は生−生起の観点から見た世界の事物、束の間この世に現れている事物を指している。原始仏教はこのようにダンマとサンカーラの二つの視点から世界を見る、いわば複眼の哲学であった。さらにいえば、サンカーラの世界から振り返る形でこの世のダンマの世界を見ていたのである。
キリスト教圏にはこの哲学は生まれなかった。キリスト教ではすべての存在は神の創造になるものである。すべての事物は神によって意味を与えられたものとして存在する。西洋の人々にとっては神から授かった生存をどのように理解し、どのように生きるかだけが問題であった。サンカーラの世界は神に委ねられていた。唯一絶対の神の背後にあって人間には見ることも触れることも許されない世界だったのである。西洋でサンカーラの世界が問題になったのはキリスト教への信仰が薄れ、「もし神が不在なら」という問いが生じたときであった。このとき人は自らの生存の裏側に虚無の深淵を見たのである。
原始仏教の一面を実に見事に要約した文章である。釈迦は現実の古い文化と社会に対する革新者であった。政治的な革命家ということではなく、釈迦に先立って確立されていた社会、それはカーストの身分制度に凝り固まったバラモンの社会であったが、その社会に住む人々の生き方を思想の力で変えようとしたのである。当然現実の社会に対して強い関心と批判を持っていた。
かれら昔のバラモンたちは48年間、童貞の清浄行を行った。知と行を求めていたのであった。
バラモンたちは他の(カースト)女を娶らなかった。かれらはまたその妻を買うこともなかった。ただ相愛して同棲し、あい和合して楽しんでいたのであった。
(同棲して楽しんだのではあるけれども)、バラモンたちは、妻に近づき得る時を除いて、月経のために遠ざかったときは、その間は決して淫欲の交わりを行わなかった。
米と臥具とバタ−と油とを乞い、法にしたがって集め、それによって祭祀をととのえ行った。かれらは祭祀を行うときにも、決して牛を殺さなかった。
しかるにかれらに転倒した見解が起こった。順次に王者の栄華と化粧盛装した婦人を見るにしたがって、
また駿馬をつけた立派な車、美しく彩られた縫い物、種々に区画され部分ごとに程よく作られた住所や住まいを見て、
バラモンたちは、牛の群れが栄え、美女の群れを擁するすばらしい人間の楽しみを得たいと熱望した。
そこでかれらはヴェ−ダの神呪を編纂して、かの甘蔗王のもとに赴いて言った。「あなたは財宝も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」
そこでかれらは財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。・・そこでかれらはヴェ−ダの神呪を編纂して、再び甘蔗王[1]に近づいた。
脚をもっても角をもっても、何によっても決して(他のものを)害(ソコナ)うことのない牛は、羊に等しく柔和で、瓶(カメ)を満たすほど乳を搾らせる。しかるに王は角をとらえて刃をもってこれを屠らせた。
刃が牛に落ちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹とは、「不法なことだ」と叫んだ。
このように法が廃れたときに、隷民(シュウドラ)と庶民(ヴァイシャ)との両者が分裂した。諸々の王族が広く仲たがいし、妻は夫を蔑んだ。
堕落したバラモンへの実に具体的な批判である。色欲に溺れ、金に目のくらんだ当時のバラモンたちの姿が眼に浮かんでこないだろうか。バラモン教の生け贄の儀式に対して厳しい批判を加えている点も見逃せない。
102おびただしい富があり、黄金あり、食物ある人が、一人おいしいものを食べるならば、これは破滅への門である。
104血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも己が親戚を軽蔑する人がいる、−これは破滅への門である。
110青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を引き入れて、彼女についての嫉妬から夜も眠られない−これは破滅への門である。
114クシャトリヤ(武士)の家に生まれた人が、権勢が少ないのに欲望が大きくて、この世において王位を獲ようと欲するならば、これは破滅への門である。
118 村や町を破壊し、包囲し、圧制者として一般に知られる人、―かれを賎しい人であると知れ。
136 生まれによって賎しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賎しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
「ブッダのことば」(スッタニパータ)中村元訳・岩波文庫
金の力にものをいわせる商人や権力におごるクシャトリアへの批判である。かれらはガンジスの中流域に成立したあたらしい社会でバラモンにとって代わって台頭した支配者であった。
重要なことは、こうした旧社会に対する批判の根拠として原始仏教が平等主義を明確に主張していたことである。
607これらの生類においては生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類の中にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。
608髪についても、頭についても、耳についても、目についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、
609首についても、肩についても、腹についても、背についても、尻についても、胸についても、陰所についても、交合についても、
610手についても、足についても、指についても、爪についても、脛についても、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類の中には)決して存在しない。
611身をうけた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称のみ。
これほど具体的な平等主義の表現は古今の世界にもまれなのではなかろうか。周知のようにカーストの身分制度は釈迦に先立つバラモン教社会の根幹であった。このいわば社会秩序を支える根本原理の変革を求めて原始仏教はラディカルな抗議をつきつけていたのである。釈迦の教団では実際にも身分による差別を一切しなかったという。儀式のときなど身分の違いに関わりなくただ出家の順番だけで席次を決めたといわれる。男女についても平等であった。尼僧を認めたのは世界の宗教の中で釈迦の仏教が最初であった。
ここで原始仏教の教義の骨格を示しておく。大まかにいって、「自己とは何か」を考える無我説と、「この世はどのようにして成立しているか」を考える縁起説、それに倫理思想としての慈悲の教え、修行論としての八聖道、この四つから原始仏教は成っている。四諦(四つの真理)説はしばしば仏教教義の核心といわれるが、内容は無我説と縁起説を総合と考えてよいだろう。
無我説と縁起説は実践の中から抽出された哲学理論といえる。無我説は「人間はなぜ死ぬのか、人間とはいったい何なのか」という問いを徹底して考えている。現代の言葉でいえば原始仏教の自己理論である。その結論が「無我」であった。自己の生存には何の根拠もない、人間はあらかじめ生存の目的を与えられているわけではないということであった。
` これに対して縁起説は高度に哲学的な世界解釈の理論である。「この世界はいったいどのように成立しているのか」という問いに対する答えである。人間は常に他人や他者、つまり周囲の世界の事物と関わりながら生きている、だがその世界はいったいどのような根拠をもって存在しているのかとかれらは真剣に考えた。答えは、世界も何かの根拠を持って存在しているわけではない、<縁>によって生じているだけだ、現象として現れているのに過ぎないというものであった。
八聖道と慈悲の教えは実践論である。八正道は<解脱>への道であり、宗教としての原始仏教の中核になるものである。<慈悲>は、釈迦が人の生き方を説いたもので、原始仏教の倫理思想といえる。ただし単なる道徳説ではない。解脱と並んで人の生きることの意味を追求する思想であった。その結論は「生きものを殺してはならない」という不殺生の教えであった。私は慈悲とは一言でいえば生命への共感だと考えている。
これらの四つの教義は一見バラバラに説かれているように見え、経典にはしばしば互いに矛盾する表現も現れる。しかし注意深く見れば、互いに密接に絡み合っていて、極めて論理的、合理的な構造を持っている。
` 釈迦の説法について、しばしば「対機説法」ということがいわれてきた。「人を見て法を説く」、つまり相手の人柄や能力によって違う話し方をするという意味で、釈迦の「方便」などと評価されてきた。しかしこうした評価は改める必要があるだろう。しばしばその場限りで適当なことをいうための弁解に使われてきた恨みがあるからである。私の理解し得た限りで、原始仏教の経典の言葉は首尾一貫している。原始仏教の経典は一つの思想の歴史的展開としてもっと統一的に読み取る努力が求められるのではなかろうか。
なお上にあげた四つの教義のほかに輪廻説がある。仏教の長い歴史の中で極めて重要な役割を果たしてきた。しかし原始仏教の教義体系の中に収まらない特殊な性格を持っている。したがってこの点は最終章で別に検討することにしたい。