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=第351回= 衆議院(しゅうぎいん)<大日本帝国憲法下>

衆議院には、大日本帝国憲法下におけるものと日本憲法国下におけるもの
がありますが、ここでは、大日本帝国憲法下におけるものに限定して説明
します。

衆議院とは、大日本帝国憲法下において、貴族院とともに議会を構成した
議院の一つです。貴族院とは違い民選の議員によって構成されました。

第1回の選挙は、1890年に行われ、議員定数は 300人で、定員は原則1名
の小選挙区制が採用されました。ただし、選挙権は、「直接国税15円以上
を納める25歳以上の男子」にのみ認められ、被選挙権は、「直接国税15円
以上を納める30歳以上の男子」に限定されました。

衆議院は、予算先議権をもつ以外は、貴族院と対等で、天皇は、衆議院の
解散を命じることができたため、帝国議会自体が、天皇の立法権の協賛機
関として位置づけられていました。

しかし、大正デモクラシーなどの影響によって、徐々に衆議院が政治の中
心となっていき、衆議院の多数議席を占める政党が内閣を組織する「憲政
の常道」が確立した時期もありました。


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=第352回= 条約改正(じょうやくかいせい)

条約改正とは、幕末に、欧米諸国と結んだ不平等条約を改正するため、明
治政府がおこなった一連の外交交渉のことをいいます。

1858年、アメリカ、オランダ、イギリス、フランス、ロシアと結んだ「安
政五カ国条約」は、領事裁判権を与えて治外法権を認める、関税自主権が
ない、最恵国待遇は、外国だけに認めるなど、日本にとって著しく不利な
条約でした。そのため、政権をひきついだ明治政府にとって、この条約の
改正は最大の問題の一つでした。

政府は、まず、1871年、「岩倉具視」全権大使にアメリカとの交渉にあた
らせましたが失敗。1878年には、「寺島宗則」外務卿が、関税自主権回復
の新条約をアメリカとの間に調印しましたが、他国の反対で発効できませ
んでした。

ついで、1882年、「井上馨」外務卿が、2年後の領事裁判権の撤廃、外国
人の国内居住権・営業権の開放、外国人判事の採用などを発案し、さかん
な欧化政策で改正実現を目指しましたが、国内の反対運動もあり、挫折し
ました。

1888年には、外相「大隈重信」が井上案を基調に内容極秘のままアメリカ、
ドイツ、ロシアとの交渉に成功しましたが、その内容が、ロンドン・タイ
ムズ紙に載ると反対運動が再燃し、大隈が、玄洋社員の爆弾をうけて負傷
する事件も起きたため、条約改正は、またしても中止となりました。

これをついだ「青木周蔵」外相の交渉は、改正成功目前まで行きましたが、
1891年に起きた大津事件により、青木が辞職したため中断。「陸奥宗光」
外相によって再開されました。

陸奥は、治外法権の回復に重点をおいて交渉を進め、1894年、日清戦争の
直前に、イギリスと新条約(日英通商航海条約)の締結に成功しました。そ
して、1897年末までに、15カ国との調印をはたし、1899年、条約発効によ
り「治外法権」は撤廃され、「最恵国待遇」も相互のものとなりました。

しかし、関税自主権の回復は遅れ、実現は、外相「小村寿太郎」のときの
1911年になります。そして、ここに、長年の懸案であった条約改正が実現
されたのです。


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=第353回= ノルマントン号事件 <明治時代・1886年>

ノルマントン号事件とは、1886年10月24日、イギリスの貨物船ノルマント
ン号が、紀伊半島沖で沈没した際、船長ドレークをはじめ、イギリス人や
ドイツ人の乗組員が全員脱出したのにもかかわらず、日本人乗客が全員死
亡した事件のことです。

本来、海難事故では、乗客の救助が最優先されなければならないのですが、
日本人乗客を見捨て、自分たちだけが助かるという行為に非難の声があが
りました。

しかし、この海難審判は、神戸のイギリス領事館で、イギリス領事の指揮
のもとに行われました。日本領海内で起こった事件ですが、領事裁判権を
認めていたため、イギリスの裁判になったのです。

審判で、船長は、日本人乗客をボートに誘導したが、彼らは、頑として拒
否したと証言し、審判長も、これを認めたため、船長以下全員が無罪とな
りました。

この結果を知った日本国民は激怒しました。言論界や司法界、財界を巻き
込んで、大激論となったため、最初は傍観していた政府も、兵庫県知事に
ドレークを殺人罪で告訴させました。

そのため、横浜領事館で、再審理が行われたのですが、船長のドレークが、
3ヶ月の禁固になったものの、ほかの乗組員は、無罪のままで、賠償もあ
りませんでした。

この事件により、日本国民は、領事裁判権を認めた不平等条約の不利を痛
感し、条約改正実現への機運が高まっていくことになります。


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=第354回= 大津事件(おおつじけん)<明治時代・1891年>

大津事件とは、1891年5月11日、滋賀県大津で、来日中のロシア皇太子
「ニコライ・アレクサンドロビッチ(後の皇帝ニコライ2世)」が、警衛
中の巡査「津田三蔵」に切りつけられ負傷した事件のことです。

皇太子は、シベリア鉄道起工式に出席する途中に来日していました。し
かし、当時の日本国内には、ロシアの日本侵略説が流れていて、津田は、
皇太子が日本侵略のための調査で訪日したと思いこみ、犯行におよんだ
ものと思われます。

津田巡査は、すぐに取り押さえられ、皇太子も額に2ヶ所傷を負っただ
けで、幸い命に別状はありませんでしたが、ロシアの報復を恐れた政府
は、犯人に大逆罪を適用し、死刑にするよう大審院に求めました。

ところが、大審院長の「児島惟謙」は、これに強く反発し、政府の干渉
を退け、刑法に則り、無期懲役の判決を下しました。それにより「司法
権の独立」が守られ、歴史的に大きな意義を持つことになりました。


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=第355回= 日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)

日英通商航海条約とは、安政五ヶ国条約以来の不平等の一部を打破した最
初の条約のことです。この条約により、「領事裁判権の撤廃」と「関税自
主権の一部回復」、「最恵国待遇の相互化」などを実現しました。

条約は、1894年、外務大臣「陸奥宗光」の外交交渉をうけ、駐英公使「青
木周蔵」とイギリス外相「キンバリー」によりロンドンで調印されました。

その結果、他のヨーロッパ諸国やアメリカもイギリスに準じて、1897年ま
でに改正に応じ、1899年より実施されることになります。

しかし、関税自主権は、一部しか回復させることができなかったため、不
平等条約の完全な改正は、1911年まで持ち越されることになりました。


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=第356回= 甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう) <1894年>

甲午農民戦争とは、1894年、朝鮮半島で起きた農民の反乱のことで、東学
党の乱ともいいます。

当時の朝鮮は、政治の腐敗、天災などによって社会不安が増大し、列強の
進出もあって経済的混乱が生じていました。農民の生活は、悪化の一路を
たどり、各地で反乱がおきる状況でした。

そして、民間宗教である東学の幹部を指導者にたてた農民反乱が引き金と
なって全羅道の農民たちが、租税の減免、腐敗した官吏の罷免、米流出の
防止などを要求して兵をあげました。

朝鮮政府は、この乱を鎮めることができず、清国に援軍を要請しましたが、
この動きにあわせ、朝鮮進出の機会を狙っていた日本も派兵しました。そ
のため、朝鮮政府は、方針を変更して農民側の要求をほぼ受け入れて事態
を鎮静化させ、日清両軍の撤兵を要請しました。

しかし、朝鮮からの撤兵を拒否しつづけた日本軍が王宮を占領して親日政
府を組織させた事件をきっかけに日清戦争が勃発することになります。


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=第357回= 日清戦争(にっしんせんそう)<明治時代・1894年〜95年>

日清戦争とは、1894年、朝鮮の支配をめぐっておきた日本と清国との戦争
のことです。甲午農民戦争(東学党の乱)を契機に出兵した日清両国が、ぶ
つかることになりました。

戦いは、まず、1894年7月25日の「豊島沖の海戦」をきっかけに始まりま
した。8月1日には、日本が、宣戦を布告し、9月には、清国の拠点とな
っていた「平壌」を陥落させ、「黄海の海戦」でも大勝しました。

更に、「旅順」「威海衛」を占領し、戦いは、軍隊の装備・戦意にまさる
日本側の優勢のうちに進みました。

そして、1895年4月、日本全権「伊藤博文」「陸奥宗光」と清国全権「李
鴻章」との間に講和が成立して「下関条約」が結ばれ戦争は終結すること
になります。この戦争で、日本は、約2億円の戦費を使いましたが、これ
は、当時の国家予算の2倍以上でした。


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=第358回= 下関条約(しものせきじょうやく)<明治時代・1895年>

下関条約とは、日清戦争の講和条約です。1895年4月、日本全権の「伊藤
博文」と「陸奥宗光」、清国全権「李鴻章」との間で調印されました。

主な内容は、次のとおりです。

 ・清国が、朝鮮の独立を認めること。

 ・日本に遼東半島・台湾・澎湖島を譲り渡すこと。

 ・賠償金を2億両(当時の日本円で約3億円)を支払うこと。

 ・沙市・重慶・蘇州・杭州の開市、開港と揚子江航行権を認めること


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=第359回= 三国干渉(さんごくかんしょう)<明治時代・1895年>

三国干渉とは、ロシア・フランス・ドイツの三国から、日本が日清戦争で得
た遼東半島を清に返すように要求され、それに従った事件を言います。

当時、満州(中国東北部)への進出を狙っていたロシアは、日本が遼東半島を
得たことに反発しました。そして、ドイツ・フランスを誘い、遼東半島を清
国に返還するよう日本に要求しました。

日本は、大国の要求に対し、対抗する力がないと判断して、要求をのみまし
た。以後、日本は、臥薪嘗胆を合言葉に、ロシアに対する国民の敵意を増大
させることになります。

尚、遼東半島返還の代償として清国から3000万両(約4500万円)を得ました。


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=第360回= 軍部大臣現役武官制 <明治時代・1900年>

軍部大臣現役武官制とは、陸軍、海軍の担当大臣を、現役の大将・中将に
限定して任用する制度のことです。政党勢力が、軍部に対して影響力を持
つことを排除する狙いで制定されました。

これにより、軍部の政治に対する干渉が高まり、軍部の了解なしには政治
ができない政府を作ることになり、後に、軍部大臣の就任を拒否すること
により内閣を倒す手段としても用いられました。

こうした軍部の横暴に対する政党の抵抗も大きく、1913年の山本権兵衛内
閣のとき、任用資格を現役以外の予備役、後備役まで拡大しましたが、実
際は、現役以外の大臣は現れませんでした。そして、1936年の二・二六事
件後の広田弘毅内閣のとき現役制が復活します。

この制度により、統帥権の独立とともに、軍が日本の政治を左右する有力
な手段となり、太平洋戦争の開始と敗戦をもたらす一因となりました。


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