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=第361回= 立憲政友会(りっけんせいゆうかい)

立憲政友会とは、明治後期から昭和前期の代表的な政党の名前で、略して
政友会ということもあります。地主と新興実業家層を基盤に、西園寺公望、
星亨、尾崎行雄らが参加し、挙国一致による国家発展を目指しました。

この政党は、1900年、「伊藤博文」を初代総裁にして、憲政党を中心にし
て結党されました。しかし、憲政党は、自由党の後身の政党だったので、
自由党が、藩閥と妥協したという批判もあります。

伊藤博文は、この政党を基礎に内閣を成立させましたが、彼の独裁的な動
きに反対する党内革新運動が起こると、総裁を西園寺公望に譲り、その後、
第3代の総裁となった「原敬」は、日本で初めての本格的政党内閣を組織
することになります。

しかし、その原敬も暗殺され、以後、脱党・分裂など、党内の度重なる内
紛に悩まされることになります。それでも、高橋是清、田中義一、犬養毅
らが総裁に就任し、内閣を組織しました。

昭和の初期になると、立憲民政党と二大政党時代になりましたが、1932年、
犬養毅が、五・一五事件で暗殺されたあと、第7代総裁の鈴木喜三郎を最
後に衰えていきます。そして、1940年、近衛文麿の新体制運動のもとで解
党しました。


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=第362回= 元老(げんろう)

元老とは、明治時代中期から昭和の初期まで、非公式な天皇の最高顧問と
して、政務の決定に大きな影響力を持った政治家のことです。

元勲優遇とそれに準じた扱いを受けた政治家で、「伊藤博文」「黒田清隆」
「山県有朋」「松方正義」「井上馨」「西郷従道」「大山巌」「桂太郎」
「西園寺公望」の9人を指します。

元老は、特に、後継首相の決定に大きな影響力を持ちました。また、西園
寺公望を除く8人は、薩摩藩と長州藩の出身者でしたので、薩長藩閥政治
体制を陰でささえる黒幕的な役割をはたしました。


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=第363回= 帝国主義(ていこくしゅぎ)

帝国主義は、古代より、さまざまな形で現出しますが、ここでは、19世紀
以降の自由貿易帝国主義について述べます。

帝国主義とは、強大な力を持つ国家が、弱小な国家に対して、政治的、経
済的に支配したり、影響力をふるう活動や政策のことです。

19世紀末には、産業革命の結果、企業の集中や独占が進み、金融資本の産
業支配が進みました。この段階に入ったヨーロッパの列強は、原材料の供
給源、市場の拡大、余剰資本の投下先として、アジアやアフリカなどの国
を侵略し、世界分割が進みました。

早くから帝国主義が進んだ、イギリス、フランスに対し、遅れた、ドイツ、
イタリア、日本などは、植民地の再分割を求めて対抗し、軍拡競争をもた
らし、第一次世界大戦を引き起こすことになります。


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=第364回= 義和団事件(ぎわだんじけん)<1899〜1900年>

義和団事件とは、1899〜1900年に、中国の華北一帯で起きた排外的民衆闘
争のことです。まず、山東省の農民間で起こり、河北省に拡大していきま
す。この闘争の中心となったのが、宗教結社「義和団」でした。

当時、山東省では、義和拳、梅花拳などの拳法を身につけた農民と列強の
保護を受けて入ってきたキリスト教勢力と対立していました。

そして、1897年の宣教師殺害事件を口実に、ドイツが膠州湾に上陸すると、
山東の排外運動は急速に広がり、1899年、鎮圧にむかった清軍との戦闘に
も勝利することになります。このとき、掲げられたスローガンが、清をた
すけて列強を滅ぼせという意味の「扶清滅洋」です。

この義和団の運動は、列強の意をうけて、1900年初めに着任した袁世凱に
よって弾圧され、一時的に衰えますが、同じころ、直隷省(現在の河北省)
に運動が波及し、キリスト教会、外国商品店、鉄道などを破壊しながら天
津を攻略し、さらに北京を目指しました。

そして、ついに入城をはたして列強公使館を包囲したのです。

これに対し列強は、英・露・仏・日など8ヶ国からなる連合軍を派遣し、
北清事変になっていきます。


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=第365回= 北清事変(ほくしんじへん)<明治時代・1900年>

北清事変とは、1900年、清国で起きた義和団による北京の各国公使館区域
の包囲事件に対し、日本や欧米列強の8カ国の軍が共同出兵し、鎮圧した
事件を言います。義和団事件と北清事変をあわせて義和団事件と言うこと
もあります。

出兵した列強は、義和団と戦いながら天津に入り、北京に向かいました。
それに動揺した清国は、守旧派の主導で、列強側に宣戦布告しましたが、
連合軍は、北京を陥落させ、各国公使館員を救出しました。

一方で、清国側も、この事態で失脚した守旧派に代わり、洋務派が義和団
残党を一掃することになります。これで、義和団の運動は終息し、翌年9
月に「北京議定書」で講和しました。

この戦いで、2万2千人という最大規模の軍を派遣し鎮圧に成功した日本
は、「極東の憲兵」としての力が、列強に認められることになります。

また、ロシア軍は、鎮圧後も東山省に残留したため、日露戦争の原因とな
っていきました。


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=第366回= 日英同盟(にちえいどうめい)<明治時代・1902年>

日英同盟とは、アジアにおけるロシアの南下政策に対抗するため、日本と
イギリスが結んだ軍事同盟のことです。日本、イギリスのいずれかが第三
国と交戦するときは中立を守ること。また、いずれかの国が、2国以上と
交戦するときは、それを助けるために参戦することなどを取り決めました。

この条約は、日露戦争を経て、1905年には改訂され、対象国もロシアから
ドイツにうつりました。また、1911年には、アメリカに対して、この条約
を適用しないという改定がなされました。

そして、1921年のワシントン会議において、日英米仏間で締結された「四
カ国条約」により、日英同盟は、廃棄が決定されます。約20年続いた同盟
も、1923年に失効しました。


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=第367回= 日露戦争(にちろせんそう)<明治時代・1904年〜05年>

日露戦争とは、1904年に、朝鮮と満州の支配をめぐって日本とロシアの間
で起きた戦争のことです。

1900年、中国で起こった義和団事件は、列強の出兵により鎮圧されました
が、鎮圧後も、ロシアは、鉄道利権の保護などを名目に送った大軍を満州
に駐留させ、占領状態を続けました。

これに危機感を抱いた日本は、1902年に日英同盟を結び、ロシアと戦う決
意をします。そして、1904年、ついに、ロシアとの戦いが始まりました。

戦況は、まず、旅順のロシア艦隊を攻撃し、しばらくは、日本優位に進ん
でいきます。乃木希典の率いた第三軍による旅順の包囲戦は、大量の死傷
者を出しましたが、ようやく陥落させました。また、大陸では、奉天を占
領し、日本海では、東郷平八郎率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦
隊に打ち勝ち、軍事的勝利を手にします。

しかし、日本は、八万人以上の戦死者を出し、軍事費も国家予算の数年分
にのぼったため、それ以上、戦争を続けることは困難な状況になっていま
した。また、ロシアでも、革命運動が起こるなど、政情が不安定だったた
め、アメリカ大統領「セオドア=ルーズベルト」の仲介により、講和を結
び、終結することになります。


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=第368回= ポーツマス条約 <明治時代・1905年>

ポーツマス条約とは「日露戦争」の講和条約のことです。アメリカの都市
「ポーツマス」で締結されたため、そう呼ばれています。

日本とロシアの講和条約なのに、何故、アメリカで結ばれたのかというと、
アメリカ大統領「セオドア・ルーズベルト」の仲介があったからです。ア
メリカは、中国での利権を考えていたため、ロシアの南下政策を快く思っ
ていませんでした。同時に、日本が強くなりすぎることに警戒を持ってい
ました。また、日本もロシアも戦争を継続しがたい事情を抱えていたため、
アメリカの仲介を求めたのです。

そして、日本側は「小村寿太郎」、ロシア側は「ウィッテ」が代表として
講和が結ばれました。

内容は、日本が、「韓国に対する優越権」「旅順・大連の租借権」「長春
以南の鉄道の利権」「樺太の南半分の領土」「沿海州・カムチャツカ沿岸
の漁業権」を得ることなどです。

しかし、この講和で、日本はロシアから賠償金を得ることができませんで
した。これに対し、日本国民の不満が爆発し、東京の日比谷公園で開かれ
た講和反対国民大会で、焼き打ち事件が起こりました。


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=第369回= 日比谷焼打ち事件(ひびややきうちじけん)<明治時代>

日比谷焼打ち事件とは、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に対する
不満から起こった民衆暴動のことです。

1905年に締結されたポーツマス条約で、日本は、主張していた賠償金を得る
ことができませんでした。そのため、強硬派は、条約が調印された日に、東
京の日比谷公園で講和条約反対国民大会を開きました。

そして、集まった数万の民衆は、大会終了後、条約破棄を叫んで暴徒化し、
官邸、警察署、市電などを次々と焼き打ちしたのです。

政府は、翌日、戒厳令をしき、軍隊を出動させて抑えようとしましたが、結
果的に、死者17名、負傷者2000名以上を出す事件となりました。


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=第370回= 韓国併合(かんこくへいごう)<明治時代・1910年>

韓国併合とは、1910年に調印された「韓国併合条約(日韓併合条約)」に基
づき、日本が韓国(朝鮮)を植民地として支配したことを言います。

帝国主義政策をとる欧米列強は、19世紀後半には、東アジアに進出して、
日本にも食指を伸ばしました。そのため、日本は、明治維新が起こり、富
国強兵政策をとって対抗しようとしました。

同時に、朝鮮半島に欧米列強の拠点を置かれるのを恐れました。朝鮮半島
は、日本の脇腹に位置し、ここに敵対勢力があると大きな脅威になるから
です。

そこで、日本は、朝鮮に国交や通商を求め、日本同様に近代化されること
を期待しましたが、当時、かたくなに鎖国政策をとっていた朝鮮は、これ
を拒否しました。

これに対し、日本では、武力をもってでも開国させようという征韓論が生
まれました。この動きは、大久保利通の反対などで、いったん収まったも
のの、1975年に起きた江華島事件を契機に、日朝修好条規を結び、開国さ
せることになります。

その後、日本は、ロシアの南下政策に対抗するため、日清、日露戦争を戦
い、半島での優位を確立していきます。

1904年の日露開戦時には、日韓議定書を交わし、軍略上必要な土地の収用
を承認させました。また、1907年までに、3度の日韓協約を交わして、韓
国を日本の保護国とし、韓国統監府を開設し、外交権は日本政府の代表で
ある統監にあることや軍隊を解散することを認めさせました。

このような日本による韓国の主権の剥奪に対し、韓国皇帝高宗は、ハーグ
の万国平和会議に密使を送り、日本の不当を訴えましたが失敗し、激化し
た民衆による反日武装蜂起も、日本によって制圧されました。

そして、1909年、初代韓国統監「伊藤博文」が、ハルピン駅頭で、安重根
らに射殺された事件や、日韓協約締結の張本人として民衆の怒りをかって
いた韓国首相「李完用」襲撃事件が起こったのを契機に、日本は併合を急
ぎ、韓国併合条約を締結し、併合を断行したのです。


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