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=第91回= 六波羅探題(ろくはらたんだい)<鎌倉時代>

六波羅探題とは, 鎌倉幕府が「京都」の「六波羅」においた機関です。
主な役割は『朝廷の監視』『西国御家人の統轄』などでした。

1221年に起こった,承久の乱で,京都を占領した「北条泰時」と「時房」
は,乱の後処理を終えた後も京都に残り「六波羅」の南北の2つの居館に
住み,それまでの「京都守護」にかわり京都市中の警備にあたり,朝廷の
動きを監視しました。これが六波羅探題の始まりです。そして,執権につ
ぐ要職として,北条氏一門の有力者が任命されるようになりました。

探題の仕事は,朝廷との交渉および監視,京都をはじめ近国の治安維持な
どですが,後に裁判をつかさどる「評定衆」や「引付衆」などの組織が整
備されると,裁判の管轄範囲は,尾張(鎌倉後期以降三河)以西となり,西
国の行政・司法の元締めとして御家人の統轄にあたりました。その後「鎮
西探題」成立し,九州が管轄外になりました。

そして,1333年に,後醍醐天皇方についた「足利尊氏」に攻められ滅亡す
ることになります。


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=第92回= 連署(れんしょ)<鎌倉時代>

連署とは,鎌倉幕府において『執権を補佐して政務をおこなう職名』のこ
とです。本来は,文書に複数の者が署判することをいいますが,執権とと
もに幕府の公文書である下文(くだしぶみ)・下知状(げちじょう)などに署
判したところから職名となりました。

この職は,1225年,執権「北条泰時」が,みずからの立場を強化するため
叔父の「北条時房」を任命したのが始まりで,以後,連署は執権をふくめ
て「両執権」とか「両後見」などと呼ばれ大きな権力を持つようになりま
した。しかし,権限は同等ではなく,あくまで執権の補佐役でした。

時房以降,北条氏一門の有力者が任命されましたが,連署をおかずに執権
だけで政務をおこなった時期もあったようです。


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=第93回= 評定衆(ひょうじょうしゅう)

評定衆とは,鎌倉,室町幕府における『政務や裁判の評議機関』をいいま
す。1199年将軍「源頼家」のときはじまった「13人の合議制」をもとに,
1225年,執権「北条泰時」が,幕府の政務・裁判の最高評議機関として制
度化しました。

構成メンバーは「北条氏一門」ほか「大江」「二階堂」「三善」「清原」
などの文筆系官僚や「三浦」「千葉」「安達」など有力御家人で,幕府の
合議制の中心的役割をにないました。そして,1249年に訴訟専門機関とし
て「引付衆」がおかれると,両者が一体となって訴訟の審理・裁決にあた
りました。

しかし,北条氏の家督である「得宗」が幕府の実権をにぎり,得宗専制政
治がすすむと評定衆の機能は低下し,幕府政治における評定衆の合議制は
形式化するようになったのです。

室町幕府も評定衆をおきましたが,名目的な存在でしかなく,戦国期にな
って廃止されました。


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=第94回= 御成敗式目(ごせいばいしきもく)

御成敗式目は,執権『北条泰時』が,1232年に制定した「武家」が作った
最初の法律です。制定時の年号から「貞永式目(じょうえいしきもく)」と
もいい,条文は,51か条からなります。

内容的には,源頼朝以来の先例や武家社会の慣習や道理などにもとづき成
文化され,神社や寺院に関することから,守護・地頭の職分,御家人の所
領相続など多岐にわたって規定されました。特に,御家人の所領関係の裁
判についての規定が全体の3分の1を占めていました。

しかし,朝廷の法典である律令を否定しなかったため,式目の適用範囲は,
幕府の勢力内にとどまり,朝廷の支配下では律令の系統をひく「公家法」
が,荘園領主のもとでは「本所法」が効力をもっていました。それも,幕
府勢力が大きくなるにつれて,公平な裁判を重視する武家法の影響は広が
っていき,式目の適用範囲も少しずつ拡大することになります。その後,
必要に応じて発布された個別の法令は「式目追加」と呼ばれました。


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=第95回= 皇族将軍(こうぞくしょうぐん)<鎌倉時代>

鎌倉時代の初代将軍は,源頼朝ですが,頼朝の直系は,三代の実朝が暗殺
されて途絶えてしまいます。そこで執権北条義時は,親王を奉じて将軍を
立てようとしましたが,後鳥羽上皇の反対によって実現しませんでした。
そこで,頼朝の遠縁にあたる摂関家の「藤原(九条)頼経」を新将軍として,
鎌倉に迎えました。これを「摂家将軍」とか「藤原将軍」といいます。

しかし,1247年,三浦泰村一族を滅ぼし北条氏の地位を不動のものとする
と,藤原将軍に代わる「皇族将軍」を迎えることになりました。皇族将軍
は「親王将軍」とも言い後嵯峨天皇の皇子「宗尊親王」が迎えられました。
以後,皇族将軍は,四代にわたり続きますが,いずれも実権はなく名目だ
けの将軍でした。

【鎌倉時代歴代将軍】四代,五代は「藤原将軍」六代より「皇族将軍」

 ・初代:源 頼朝(みなもとのよりとも)
 ・二代:源 頼家(みなもとのよりいえ)
 ・三代:源 実朝(みなもとのさねとも)
 ・四代:藤原頼経(ふじわらのよりつね)
 ・五代:藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)
 ・六代:宗尊親王(むねたかしんのう)
 ・七代:惟康親王(これやすしんのう)
 ・八代:久明親王(ひさあきらしんのう)
 ・九代:守邦親王(もりくにしんのう)


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=第96回= 引付衆(ひきつけしゅう)

引付衆とは,五代執権『北条時頼』のときに設置された「訴訟審理」の実
務にあたる幕府の職名です。時頼は,裁判制度の確立につとめ,評定衆の
会議である「評定」のもとに新たに「引付」を置きました。そして,引付
衆を任命し,御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ,敏速で公
正な裁判をめざしたのです。


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=第97回= 宝治合戦(ほうじかっせん)<鎌倉時代・1247年>

宝治合戦とは,鎌倉幕府5代執権『北条時頼』が,外祖父の「安達景盛」
とともに有力御家人だった「三浦泰村」一族をほろぼした戦いです。
時頼は,母の実家である安達氏に命じて三浦氏を挑発し,合戦の末,三浦
一族ほか,500余名を自害に追い込みました。
この戦いの勝利により,北条氏に対抗する有力な氏族はいなくなり,幕府
内での北条氏の地位を不動のものにし,藤原将軍に代わる皇族将軍をむか
え,北条氏独裁の性格を強めていきました。


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=第98回= 地頭請(じとううけ)<鎌倉時代>

地頭請とは,荘園領主が,地頭に荘園の管理をいっさい任せ,その代わり
に一定額の年貢を納めてもらうという契約のことです。

鎌倉時代になると,地頭は,徴収した年貢を荘園領主におさめず横領した
り,荘園そのものを横領するなどの荘園侵略がしばしばおきました。こう
した地頭の支配権拡大の動きに対し,領主たちも幕府に訴えたりしました
が,現地に根をおろした地頭の行動を阻止することは事実上不可能に近か
ったのです。

そこで,荘園領主たちは,一定額の年貢収納をうけおわせて収入をはかる
かわりに,地頭の荘園支配に口をはさまないという契約を結び紛争の解決
をはかりました。ですから,地頭請とは,荘園領主と地頭との争いの妥協
の産物だったといえるでしょう。


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=第99回= 下地中分(したじちゅうぶん)<鎌倉時代>

下地中分とは,荘園領主と地頭が下地つまり「荘園」を「折半」し,それぞ
れの領有権をみとめ,たがいに干渉しないとする方法です。前回勉強した地
頭請と内容は違いますが,地頭の荘園侵略に対するの解決方法の一つでした。

分割方法は,必ずしも均等ではなく,話し合いによる和与中分と,荘園領主
の申請をうけた幕府が一方的に命令する強制的な中分がありました。これに
よって荘園は荘園領主と地頭に二分され,幕府からの承認も受け,地頭も一
円支配をおこなうことができるようになったのです。


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=第100回= 文永の役(ぶんえいのえき)<鎌倉時代・1274年>

文永の役とは,2度にわたるモンゴルの襲来,つまり「元寇」の1回目
を言います。

モンゴルの5代皇帝「フビライ」は,中国の南宋や朝鮮の高麗をほぼお
さえると,日本も支配下におこうと計画し,たびたび使者を送り服属を
迫るようになりました。しかし,鎌倉幕府の執権「北条時宗」はこれを
拒絶し,北九州の防衛をかためました。

1271年に国号を元と定め,元の初代皇帝となったフビライは,1274年に
元兵と高麗兵からなる軍を出発させ,対馬や壱岐をおそいました。そし
て,博多湾に侵入し,日本軍と戦いました。
日本軍は,元のもちいる集団戦法や火薬をつかった火器攻撃のため大苦
戦し,大宰府の水城までしりぞきました。しかし,日没にともない船に
ひきかえしていた元軍は,その夜におこった大暴風雨によって船の多く
が転覆したため,残った船をまとめて退却したといわれています。


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