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=第101回= 弘安の役(こうあんのえき)<鎌倉時代・1281年>

弘安の役とは,二度にわたるモンゴルの襲来の二回目を言います。
1281年にフビライは,再び日本遠征の命令をくだし,東路軍と江南軍にわ
けて出発させました。
まず,東路軍が朝鮮の合浦を出発し,対馬・壱岐をおそい博多湾に攻め込
みました。しかし,日本軍も奮戦し,東路軍はいったん壱岐にしりぞき,
江南軍の到着を待ちました。おくれて江南軍は,慶元を出発し,東路軍と
合流し,肥前国鷹島にうつりました。ところが,夜半に大暴風雨がおそい,
元軍は壊滅的な打撃をうけ退却したのです。


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=第102回= 鎮西探題(ちんぜいたんだい)<鎌倉時代>

鎮西探題とは,鎌倉幕府が,九州地方の御家人を支配するために「博多」
においた統治機関です。

弘安の役の後も「元」は日本征服を計画していたため,幕府は警戒を緩め
ず,九州地方の御家人を引き続き「異国警固番役」に動員しました。また,
御家人以外でも,全国の荘園・公領の武士も動員する権利を朝廷から獲得
し,元寇を機に西国一帯に幕府支配を強めていきました。そして,北条一
門を「鎮西探題」として送り込み,九州地方の政務や裁判など,御家人の
指揮にあたらせたのです。

長官である「探題」のもとには,裁判事務をおこなう評定衆,引付衆,引
付奉行人が置かれ,九州の有力な御家人が任命されました。長官は,北条
氏一族にうけつがれ,鎌倉幕府の九州統治機関として続きました。
しかし,1333年,反鎌倉幕府勢力の御家人,大宰府長官「少弐貞経」や地
元の有力守護「大友貞宗」や「島津貞久」らの襲撃をうけ,滅亡しました。


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=第103回= 霜月騒動(しもつきそうどう)<鎌倉時代・1285年>

霜月騒動とは,御内人首座(内管領)の『平頼綱』が有力御家人『安達泰盛』
一族を滅ぼした騒動です。

北条時宗の執権時には,頼綱,泰盛ともに実力者として勢力争いを続けてき
ました。しかし,両者の争いの調停役を務めてきた時宗が,33歳の若さで死
去すると,対立は激化し,1285年11月,頼綱は兵を集め,泰盛一族を滅ぼし
たのです。

以後,御家人の代表者が政治に関与する機会は,少なくなり,得宗と得宗を
支える一門や御内人による得宗専制政治が確立したのです。


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=第104回= 永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)<鎌倉時代・1297年>

永仁の徳政令とは,鎌倉幕府が出した「御家人救済」のための政策の一つ
です。

もともと「徳政」とは,儒教の天人相関説にもとづき天変地異や疫病の流
行などの災いを招かぬように行われる特別な仁徳ある政治を表していたの
ですが,しだいに債務や貸借の破棄・無効を表すようになりました。

内容は『御家人の所領の売買・質入れの禁止』『売却地や質流れ地の御家
人への無償返還』『債権債務の訴訟の不受理』など,思い切ったものでし
たが,効果はさほど上がらなかったようです。

しかし,この令が発せられたことにより「徳政は所領回復令」という意識
がひろく社会に浸透することになったのです。


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=第105回= 浄土宗(じょうどしゅう)

浄土宗は,いわゆる「鎌倉新仏教」といわれる6つの宗派のうち一つで,
開祖は『法然(ほうねん)』,中心寺院は「知恩院(ちおんいん)」です。

開宗は,鎌倉心仏教の中では一番早く,主要著書である,1198年の「選択
本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)」成立時とされており,
念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば極楽往生できるという「専修念仏」を説き
ました。

法然は,美作の武士の家に生まれ,はじめ「比叡山」で修行して「天台宗」
の教えを学んでいました。しかし,しだいに当時の仏教界のあり方に疑問
をもつようになり,源信の「往生要集」などに影響され,しだいに念仏に
近づいていき,専修念仏を説くようになったのです。

この教えは,貴族だけでなく武士や庶民の心をとらえ,広まっていきまし
たが,これに反発した旧仏教側から非難され,結局,法然は「土佐」流さ
れることになります。

しかし,法然の没後,弟子たちが迫害に耐え,教えを広めていきました。
また,法然の門からは,後に新仏教6宗派の「浄土真宗」を開いた「親鸞」
や「時宗」を開いた「一遍」も出ました。


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=第106回= 浄土真宗(じょうどしんしゅう)

浄土真宗は,いわゆる「鎌倉新仏教」といわれる6つの宗派のうち一つで,
開祖は『親鸞(しんらん)』,中心寺院は「本願寺(ほんがんじ)」です。別
名として「一向宗」「門徒宗」などと呼ばれる場合もあります。

浄土真宗は,もともと「法然」の「浄土宗」に源を発し,その門下のひと
りであった『親鸞』の系譜が独自の展開をみせ一宗をなしたものです。

親鸞は,法然の弟子でしたから,法然が土佐に流されたとき,弟子の一人
として「越後」に流されました。しかし,のちに関東地方に移って,長く
地方の農村で思索と布教の生活を送りました。

親鸞の教えは,法然の教えを一歩進めて,念仏による往生を説いた浄土宗
に対し,念仏を必要とせず,ただ阿弥陀仏を信じることで救われるとした
ものです。信心をえた人は,現世においてすでに往生が約束され,如来に
も等しいとされました。また,末法の世では悪人(煩悩の深い人間)こそ救
われるという「悪人正機説」をとなえ,自ら肉食妻帯を実践しました。


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=第107回= 日蓮宗(にちれんしゅう)

日蓮宗は,いわゆる「鎌倉新仏教」といわれる6つの宗派のうち一つで,
開祖は『日蓮』,中心寺院は「久遠寺(くおんじ)」です。

日蓮は,最初,天台宗を学び,やがて「法華経」を正しい教えとして選び
ました。そして,題目「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」
を唱え,善行をつむことが救いとなるとし,その積極的な実践を奨励しま
した。また,個人の救済だけでなく,社会や国家全体の救済を主張したと
ころにも特徴があります。

しかし,激しい他宗の攻撃や国難の到来を予言したりして布教したので,
しばしば幕府の迫害を受けましたが,日蓮の教えは,関東の武士層や商工
業者中心に広まっていきました。


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=第108回= 時宗(じしゅう)

時宗は,いわゆる「鎌倉新仏教」といわれる6つの宗派のうち一つで,遊
行宗(ゆぎょうしゅう)ともいい,開祖は『一遍(いっぺん)』,中心寺院は
「清浄光寺(しょうじょうこうじ)」です。 

一遍は,はじめ「浄土宗」西山派の聖達(しょうたつ)に師事しましたが,
熊野権現の神託をうけ,念仏を書いた紙の札をあう人ごとにさずける「賦
算(ふさん)」と,念仏をとなえながらおどる「踊念仏」を中心として布教
をおこない,当時,地方の武士や農民に広く受け入れられました。

そして,一遍を聖とあおぐ信者集団が形成され,これを「時衆」といい,
江戸時代には宗派を「時宗」と呼ぶようになったのです。


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=第109回= 臨済宗(りんざいしゅう)

臨済宗は,いわゆる「鎌倉新仏教」といわれる6つの宗派のうち一つで,そ
の中でも座禅を重視する『禅宗』と呼ばれる2つの宗派のうちの一つです。
この宗派は,もともと中国で発展したものですが,日本の臨済宗の開祖は,
『栄西(えいさい・ようさい)』で,中心寺院は「建仁寺(けんにんじ)」でし
た。 

栄西は,はじめ比叡山で天台教学を学んでいましたが,南宗禅をまなぶため
2度にわたり中国に渡航し,臨済禅を学び,帰国後は博多に聖福寺をたてて,
戒律を重視する禅をひろめる第一歩としました。

しかし,延暦寺の反発にあい「興禅護国論」を著して弁明しましたが,布教
を禁止されることになります。そこで,栄西は,鎌倉にうつって,鎌倉幕府
の北条政子に近づき,幕府の信任をえて鎌倉に寿福寺を開創しました。

また,1202年には,将軍「源頼家」が京都に建立した「建仁寺」に開山とし
てむかえられ,以後,鎌倉幕府は,臨済宗を重視するようになり,のちに宋
から禅僧を招き,建長寺や円覚寺などを建立するようになったのです。


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=第110回= 曹洞宗(そうとうしゅう)

曹洞宗は,いわゆる「鎌倉新仏教」といわれる6つの宗派のうち一つで,そ
の中でも座禅を重視する『禅宗』と呼ばれる2つの宗派のうちの一つです。
この宗派は,もともと中国で発展したものですが,日本の曹洞宗の開祖は,
『道元(どうげん)』で,中心寺院は「永平寺(えいへいじ)」でした。

貴族の家に生まれ,栄西門下で学んだ道元は,24歳のときに宋にわたって禅
を学びました。帰国後は,正しい座禅の行法を示し,曹洞宗の布教につとめ
ました。

しかし,道元の名声が高まり,教団が拡大するにつれて,旧仏教側からの圧
迫が強まったため,波多野義重(はたのよししげ)のまねきをうけて,越前国
に永平寺をひらいて移ることになります。以後,道元は永平寺を根本道場と
し,「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」をはじめとする著作をあらわして弟
子の養成につとめました。

曹洞宗の教えは,「只管打座(しかんたざ)」,つまり,ただひたすら黙々と
座禅し,悟りの境地をみいだそうとした点に特徴がありました。


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