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=第111回= 持明院統(じみょういんとう)

持明院統とは,鎌倉中期に分裂した2皇統のうちのひとつです。
『後深草天皇』の皇統で,南北朝期の『北朝』にあたります。名称は,後
深草天皇の子の伏見上皇が持明院に住んだことによるものです。
もう一つ皇統である弟の「亀山天皇」の「大覚寺統」と皇位継承や皇室領
をめぐって激しく争いました。
この対立は,鎌倉幕府の調停で「両統迭立」の協約によって解決が図られ
ることになりましたが「大覚寺統」の「後醍醐天皇」が元弘の変で隠岐に
ながされると,鎌倉幕府は『持明院統』の『光厳天皇』を擁立し,さらに
後醍醐天皇の建武の新政をたおした足利尊氏が『持明院統』の『光明天皇』
を擁して北朝が成立しました。
その後は,室町幕府の支持をえた『持明院統』が代々『北朝』の天皇とな
り,1392年,3代将軍足利義満の主導で南朝を合体し,現在にいたってい
ます。


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=第112回= 大覚寺統(だいかくじとう)

大覚寺統は,鎌倉中期に分裂した2皇統のうちのひとつです。
『亀山天皇』の皇統で,南北朝期の『南朝』にあたります。名称は亀山天
皇の子の後宇多上皇が大覚寺を再興して大覚寺殿と称したことによるもの
です。
もう一つ皇統である兄の「後深草天皇」の皇統である「持明院統」と皇位
継承と皇室領をめぐって激しく争いました。この対立は,鎌倉幕府の仲介
による「両統迭立」の協約の成立後,両統が交互に皇位につくことで解決
を図っていましたが『大覚寺統』の『後醍醐天皇』の建武の新政がやぶれ,
足利尊氏が「持明院統」の「光明天皇」を擁して「北朝」をたてると,後
醍醐天皇は大和国『吉野』へのがれ『南朝』をたてました。以後,南朝の
天皇は,後村上・長慶・後亀山天皇と続き,1392年に南北朝の合一が図ら
れ持明院統と合体しました。しかし,このときの講和条件のひとつだった
両統迭立は室町幕府に無視され,その後この皇統から天皇がでることはな
くなりました。


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=第113回= 両統迭立(りょうとうてつりつ)<鎌倉時代>

両統迭立とは,鎌倉時代中期に,天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の
2皇統に分裂した際の妥協策で,両統が交互に皇位につくとした原則のこ
とです。
後嵯峨法皇の死後,皇位継承や皇室領をめぐって第3子の「後深草天皇」
と第7子の「亀山天皇」があらそい,天皇家は「後深草系の持明院統」と,
「亀山系の大覚寺統」に分裂しました。
両統はそれぞれ鎌倉幕府に運動して有利な位置を得ようとしたため,幕府
は『両統迭立』の妥協策をしめし,「後宇多天皇」から「後醍醐天皇」ま
での6代が交互に即位しました。
しかし所領をめぐる争いはこの間も解消せず,1317年,幕府の仲介で「文
保の和談(ぶんぽうのわだん)」が成立しましたが,全面的な和解にはなり
ませんでした。
そして,この和談で即位した大覚寺統の「後醍醐天皇」が討幕運動をすす
めたため,幕府は持明院統を支持し,さらに後醍醐の建武の新政の崩壊後
は足利尊氏の支持する持明院統の北朝と後醍醐の南朝が完全に対立,南北
の争乱に発展しました。


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=第114回= 悪党(あくとう)

悪党とは,鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて,反幕府あるいは反荘園
領主的な行動をとった武装集団をいいます。彼らは在地領主,有力農民,
狩猟・漁労,商工業,交通,金融など非農業的生産にたずさわる者など,
さまざまな階層が含まれていました。
鎌倉幕府は,山賊や海賊とともに禁圧の対象としましたが,彼らは,下級
荘官や代官となって荘園をうけおい,富を蓄積し,鎌倉時代の後期になる
と無視できない勢力となっていきました。
建武の新政を実現した「後醍醐天皇」は「楠木正成」ら悪党の存在に注目
し,彼らを組織して討幕運動に利用しました。その結果,鎌倉幕府は滅亡
し,悪党は,南北朝の争乱をへて安定してくる中で,在地の有力武士であ
る「国人(こくじん)」層へと発展していきます。勢力をのばすために守護
の被官となったり,逆に守護を排斥する「国人一揆」の中核にもなりまし
た。


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=第115回= 正中の変(しょうちゅうのへん)<鎌倉時代・1324年>

正中の変とは,「後醍醐天皇」が,鎌倉幕府を打倒しようとして失敗した
政変のことです。

後醍醐天皇は,1318年の即位以来,延喜・天暦の治にかえることを目標に
親政を目指していました。そして,1321年に,院政をやめ,朝廷内での親
政を開始しました。しかし,国家権力の大部分は鎌倉幕府がにぎっていま
したので,幕府があるかぎり本当の天皇親政は実現しないということで,
ひそかに幕府を倒す計画を立てたのです。

天皇は近臣の日野資朝(ひのすけとも)や蔵人頭の日野俊基(ひのとしもと)
美濃国の武士の土岐頼兼・多治見国長ら反幕府勢力をあつめ討幕計画を進
めました。そして,1324年9月23日の北野祭当日に混雑を利用して挙兵する
計画でしたが,同志の密告で事前に発覚し,失敗に終わりました。

その結果,頼兼・国長は六波羅探題の軍勢にせめられて自殺し,資朝は佐
渡へ流されましたが,後醍醐天皇は,関与していないと釈明し,この変に
おいては,無事にすみました。


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=第116回= 元弘の変(げんこうのへん)<鎌倉時代・1331年>

元弘の変とは,鎌倉幕府打倒のために「後醍醐天皇」が挙兵をくわだてて
失敗した事件のことです。天皇にとっては,「正中の変」につぐ2度目の
倒幕計画でしたが,元弘の変という場合,この事件以降,1333年に鎌倉幕
府が滅亡するまでを指すこともあります。

この挙兵計画も,正中の変と同様に事前に発覚し,首謀者として日野俊基・
文観(もんかん)らは逮捕されましたが,とりあえず,天皇は,追及をのが
れました。しかし,天皇は,三種の神器の神璽(しんじ)と宝剣をもって,
数人の公卿とともに京都を脱出し,笠置山にたてこもりました。
幕府は,持明院統の光厳(こうごん)天皇を擁立し,大軍を派遣して笠置山
を攻略,のがれた天皇を山中で逮捕すると,翌年「隠岐」へ流しました。


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=第117回= 建武の新政(けんむのしんせい)その1

建武の新政とは,1333年の「鎌倉幕府の滅亡」から,1336年の「南北両朝
の分裂」まで,約2年半にわたり『後醍醐天皇』の主導でおこなわれた政
治のことです。今回は,後醍醐天皇の新政権樹立までを見てみましょう。

鎌倉時代末期に即位した後醍醐天皇は,天皇による「親政」こそが政治の
あるべき姿と考え,平安時代前期の「醍醐・村上」両天皇の政治,いわゆ
る,「延喜・天暦の治」を理想とし,生前より「後醍醐」を名乗りました。
そして,1321年に「院政」を廃して「朝廷内での天皇親政」を実現し,幕
府打倒の計画をすすめました。しかし,倒幕計画の「正中の変」・「元弘
の変」が失敗におわり「隠岐」に流されました。

ところが,楠木正成・護良親王らの挙兵で畿内は騒乱状態となり,1333年,
「足利尊氏」・「新田義貞」らが討幕側にねがえると鎌倉幕府は滅亡。隠岐
を脱出して船上山で討幕運動を指揮していた後醍醐天皇は,天皇親政による
新政権の樹立に成功したのです。


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=第118回= 建武の新政(けんむのしんせい)2

建武の新政とは,1333年の「鎌倉幕府の滅亡」から,1336年の「南北両朝
の分裂」まで,約2年半にわたり『後醍醐天皇』の主導でおこなわれた政
治のことです。今回は,後醍醐天皇の政治と,失敗し,南北朝が分裂まで
を見てみましょう。

鎌倉幕府が滅亡すると,後醍醐天皇は帰京し,「記録所」・「恩賞方」と
いう天皇みずから裁決する機関を復活させ,「雑訴決断所」や「武者所」
を新設しました。そして,1334年には「建武」と改元し,通貨の発行・大
内裏の造営なども計画しました。

天皇は,それまでの法慣習を無視し,領地の安堵は,天皇の「綸旨」によ
るとするなど,自分の裁断を絶対としたため,混乱をまねきました。また,
「公家」を重んじ「武家」を軽んじたため,武士たちから反感を買うこと
になります。例えば,守護と国司をおきながら,守護の権限を弱めて,地
方行政権の多くを国司にあたえたり,「御家人」という旧幕府の特権身分
の廃止をうちだしたことなどがあげられます。そのほか,側近を破格に昇
進させるなど,人事の乱れが政務の乱れにつながり,武士たちの不満をさ
らに大きくしました。

新政に失望した武士たちは「足利尊氏」に幕府の再建を期待しました。尊
氏は「中先代の乱」を機会に関東にくだり,鎮圧後,反旗をひるがえし,
天皇方の軍と戦い京都を制圧して「光明天皇」を擁立しました。この時点
で,建武の新政は終わることになります。そして,後醍醐天皇は,吉野へ
逃亡し,以後,60年にわたる「南北朝の動乱」が始まることになりました。


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=第119回= 中先代の乱(なかせんだいのらん)<1335年>

中先代の乱とは,北条高時の子の「時行(ときゆき)」が,鎌倉幕府の復活
をめざし建武政権に対しておこした反乱です。中先代の名は,それまでの
執権北条氏を「先代」,足利尊氏を「後代」とよんだため,執権政治の復
活をはかった時行を「中先代」とよんだことによるものです。

1335年,北条時行は,信濃国の諏訪頼重らとともに挙兵し,鎌倉にいて関
東をおさめていた,足利尊氏の弟「足利直義(あしかがただよし)」をやぶ
り,鎌倉をおとしました。直義は幽閉中の「護良親王」を殺して三河国に
逃亡しました。それに対し,京都にいた足利尊氏は,後醍醐天皇の制止を
無視し大軍をひきいて出陣し,三河で直義と合流しました。
そして,尊氏・直義の軍勢は,東海道筋の時行軍を連破し,鎌倉を奪還。
諏訪頼重は自殺,時行は逃走して乱はおさめられました。乱後,尊氏・直
義兄弟は天皇の帰京命令にしたがわず関東にとどまり,建武政権にそむく
ことになります。


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=第120回= 南北朝の動乱(なんぼくちょうのどうらん)

南北朝の動乱とは,朝廷が京都の「北朝」と大和国吉野の「南朝」に分裂
し,南北両朝勢力があらそったことをいいます。鎌倉幕府滅亡から,南北
朝が合一した1392年までを,時代区分のひとつとして「南北朝時代」とい
うこともあります。

動乱は,建武の新政期ふくめないで1336年,足利尊氏が,持明院統の「光
明天皇」をたて,「後醍醐天皇」が「吉野」にうつり朝廷が南北に完全分
裂したときを始まりとします。そして,3代将軍「足利義満」が地位を強
化し,両朝合一の実現により終わりを告げます。

この間,南朝方が組織的に抵抗できたのは,初期の一時期だけでしたが,
それでも動乱が長く続いた要因は,北朝方すなわち「幕府」がしばしば分
裂をくりかえしていたためです。また,社会の動きから考えると,この時
代には大きな社会的・経済的変動がありました。鎌倉時代には領地の「分
割相続」を基礎にしていましたが,領地の分割相続が困難になったことで,
嫡子の「単独相続」へと転換しつつありました。こうした変化が,武士団
が,分裂と対立を引き起こし,一方が北朝につけば,反対側が南朝につく
という具合で動乱が拡大し,長引いたのです。


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