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=第121回= 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)<室町時代>

観応の擾乱とは,南北朝期におこった『室町幕府の内部抗争』です。
1349年から1352年まで続きました。

初期の室町幕府は,将軍である「足利尊氏」と,弟の「直義(ただよし)」と
が権限を分割し,恩賞の給与や守護職・地頭職などの任免は「尊氏」,所領
関係の裁判は「直義」の権限でした。しかし,この二頭政治が,幕府内に2
つの党派を生むことになります。

まず,尊氏の執事の「高師直(こうのもろなお)」と「直義」が激しく対立し
ました。尊氏の権限を代行する立場にあった「師直」の勢力拡大に危機感を
もった「直義」は,養子の「直冬(ただふゆ)」を中国地方へ派遣し,師直の
打倒をはかりました。しかし,師直は,自派の軍勢をひきいて幕府をかこみ,
尊氏にせまって直義を引退させたのです。

先手をとられた直義派は,各地で挙兵し,直義も「南朝方」について師直討
伐を正当化し,京都を占領し,両派は全面戦争へ突入しました。そして,両
派の主力が摂津で激突,直義派が勝利して高師直一族は殺されました。また,
東北や関東でも直義派が勝利し,尊氏と直義はいったん「和睦」し,直義は
尊氏の子の「義詮(よしあきら)」を後見するかたちで幕府政治に復帰しまし
た。

しかし,尊氏と義詮があいついで京都をはなれ,直義を挟み撃ちする作戦に
でたため,直義は,京都を脱出,自派勢力の強い北陸をへて鎌倉へ逃走しま
した。今度は尊氏が「南朝方」について直義討伐を正当化し,直義派をおっ
て鎌倉へむかい,直義を降伏に追い込みました。そして,尊氏は鎌倉にはい
り,直義を毒殺しました。

直義の死で一連の抗争は尊氏の勝利で終わりました。しかし,直冬ら直義派
の反抗はつづき,一時は南朝方の勢力挽回をもたらすなど,幕府政治はしば
らく不安定な状態が続きました。


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=第122回= 南北朝の合一(なんぼくちょうのごういつ)<1392年>

南北朝の合一とは,長い間続いた南北朝の動乱に終止符を打ち,南朝と北
朝に分かれていた朝廷を一つに戻したことを言います。

足利尊氏の孫にあたる3代将軍「義満」のころになると,動乱もおさまり
幕府は安定期をむかえていました。そして,義満は,南北朝の合体を図る
べく,南朝側と交渉しました。その結果,1392年,南朝の「後亀山天皇」
が義満の呼びかけに応じる形で京都に帰り,北朝の「後小松天皇」に譲位
することによって南北朝の合一に成功したのです。


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=第123回= 室町幕府(むろまちばくふ)

室町幕府とは,「足利尊氏」が京都にひらいた武家政権のことです。尊氏が
建武政権をたおし新政権を樹立してから,15代将軍「義昭」が1573年「織田
信長」に追放されるまで,約240年間続きました。

1338年,尊氏は「征夷大将軍」に任命されました。室町幕府は,ここから始
まるという考え方もありますが,実際は,1336年,光明天皇をたて「建武式
目」を制定した段階で幕府が誕生したと言っていいでしょう。

室町の呼称は,3代将軍「義満」が1378年に将軍邸として花御所を京都北小
路「室町(現在の京都市上京区)」に造営したことにちなでいます。今回は,
歴代の足利将軍を記しておきます。

【 代 】 将軍名        <在位期間>
【初代】 足利尊氏(たかうじ)  <1338〜1358年>
【2代】 足利義詮(よしあきら) <1358〜1367年>
【3代】 足利義満(よしみつ)  <1368〜1394年>
【4代】 足利義持(よしもち)  <1394〜1423年>
【5代】 足利義量(よしかず)  <1423〜1425年>
【6代】 足利義教(よしのり)  <1429〜1441年>
【7代】 足利義勝(よしかつ)  <1442〜1443年>
【8代】 足利義政(よしまさ)  <1449〜1472年>
【9代】 足利義尚(よしひさ)  <1473〜1489年>
【10代】 足利義稙(よしたね)  <1490〜1493年,1508-1521年>
【11代】 足利義澄(よしずみ)  <1494〜1508年>
【12代】 足利義晴(よしはる)  <1521〜1546年>
【13代】 足利義輝(よしてる)  <1546〜1565年>
【14代】 足利義栄(よしひで)  <1568年>
【15代】 足利義昭(よしあき)  <1568〜1573年>


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=第124回= 管領(かんれい)<室町時代>

管領とは,室町幕府の将軍を『補佐する役職』のことです。幕府の政務全
般を総括しました。もともとは,足利家の家政をとりしきる「執事」が発
展したもので,足利尊氏は,幕府開設後も「高師直(こうのもろなお)」を
執事とし,仁木頼章や細川清氏らがあとを継ぎました。そして,1362年に,
2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)に任命された斯波義将から管領と
よぶようになったものと思われますが,実際に管領という名前が定着する
のは,南北朝末期のことです。

のち管領には足利氏一族の「斯波」・「細川」・「畠山」氏が交代で就任
したので,この3氏を『三管領』とよびます。管領の権限は,鎌倉時代の
執権などに比べて,極めて弱く,将軍が幼少の場合などをのぞけば,管領
が有力守護大名の上にたって権力をふるうことはありませんでした。


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=第125回= 四職(ししき)<室町時代>

四職とは,室町幕府において,京都内外の警備や刑事裁判を司る「侍所」の
長官(所司)に任命された「赤松」「一色」「山名」「京極」の四氏のことを
言います。

前回勉強した,三管領(細川・斯波・畠山)とともに,三管領・四職として,
重要な役割を果たしました。これらの有力守護は,在京し,幕府の中枢とし
て政務を決定し幕政にあたりました。


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=第126回= 鎌倉公方(かまくらくぼう)<室町時代>

鎌倉公方とは,室町幕府の地方行政機関「鎌倉府」の長官のことです。鎌
倉府は幕府とほぼ同じ組織をもち,関東管領をはじめ評定衆や引付衆,政
所,問注所,侍所などが置かれました。

足利尊氏は,最初,子の義詮(よしあきら)を鎌倉に置き,幼少の義詮を上
杉・高・斯波氏らに補佐させましたが,1349年京都で直義が失脚すると,
かわって義詮の弟の基氏(もとうじ)を鎌倉公方として東国の支配を任せま
した。管轄地域は,はじめ,関東8カ国に伊豆・甲斐を加えた10カ国でし
たが,のちに,陸奥・出羽両国が加えられました。


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=第127回= 関東管領(かんとうかんれい)<室町時代>

関東管領とは「鎌倉公方を補佐する」室町幕府の役職です。足利基氏が,
鎌倉公方となって「上杉憲顕」が関東管領に任命され,その後,上杉氏が
この職を世襲するようになりました。

1438年に,鎌倉公方の「足利持氏」が幕府にそむいて滅ぶと,その子成氏
が下総国古河(こが)におわれて「古河公方」となり,関東管領と古河公方
が争うようになりましたが,関東支配の名目と実権はしだいに関東管領が
にぎるようになります。

しかし,戦国期に後北条氏が勢力をのばすと,時の関東管領「上杉憲政」
は越後国にのがれ,1561年,上杉の家名と関東管領職を「長尾景虎(上杉謙
信)」に譲りました。謙信は関東進出の名目は手にしましたが実現はできず,
謙信の死とともに関東管領は名実ともになくなりました。


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=第128回= 半済令(はんぜいれい)<室町時代>

半済令とは,元々は,南北朝期に室町幕府がだした兵粮米調達に関する法
令で,守護が内乱による軍事費用調達のため,寺社本所領荘園の年貢の半
分を徴収し,配下の武士に給付することを認めたものを言います。
1352年に,足利尊氏が内乱のはげしかった近江・美濃・尾張の3国の本所
領荘園に実施したのが最初で,はじめは1年に限られていましたが,半済
を与えられた武士はそれを口実に「荘園を侵害」し,やがては「土地」ま
でも半分領有するようになりました。そこで幕府は,1368年に「応安の半
済令」を出し,皇室領などの一部の例外を除き,すべての荘園の土地を荘
園領主と武士で「折半」させました。これにより荘園領主は大きな打撃を
うけ,半済給与権をにぎる「守護」は,領国への支配を強めることができ
るようになりました。


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=第129回= 守護大名(しゅごだいみょう)<室町時代>

守護大名とは,室町時代に,任国を「領国化」した有力守護を指します。
第2次世界大戦後,鎌倉幕府と室町幕府の守護の性格の違いを表現する歴
史用語として使われるようになりました。

鎌倉幕府の守護は,基本的には任国の御家人統率と警察行為に権限が限定
されてて,原則的には世襲もされていませんでした。室町幕府もはじめは
鎌倉幕府の制度にならっていましたが,南北朝の動乱で,多くの権限を与
えるようになり,守護職を世襲させる傾向もでてくるようになりました。
これは,動乱による政務の混乱で幕府が事務手続を総括できなかったこと
や,守護が持つ国ごとの軍事指揮権を幕府が必要としたためです。

守護は,幕府の判決を執行するほか,半済を国内の武士に軍事費用として
給付したり,段銭の徴収権,敵方没収地を国内の武士に一時あずける職権
など広範囲の公的権限を与えられました。これにより任国の荘園・公領に
強い支配権をおよぼし,多くの国内の武士を家臣化していくことになった
のです。


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=第130回= 国人(こくじん)<室町時代>

国人とは,室町時代の「在地領主」で,多くの場合,守護の家臣になって
いない,その国「はえぬきの武士」をいいます。領地の大きさは,さまざ
まですが,領地・支配地との結びつきは強いといえます。

室町幕府の「守護」による地方支配がすすむ中で,その家臣となることを
望まない国人が,外部勢力に対抗して独自に領地を支配しようとし,とき
には,国人一揆を起こし,守護と激しく対抗することもありました。1485
年に起きた「山城国一揆」は,特に有名です。

国人の多くは,のちに「守護大名」や「戦国大名」の家臣団に組み込まれ
ていくことになりますが,中には中国の「毛利氏」のように国人から「戦
国大名」へと成長したものもありました。


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