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=第131回= 倭寇(わこう)<前期倭寇(南北朝期)>

倭寇とは,朝鮮半島や中国大陸沿岸を襲い,人や食糧などを略奪した海賊
のことで,朝鮮や中国側がつけた呼称です。「倭」は,日本,「寇」は外
敵が襲来すること,あるいは外敵そのものを表す言葉ですから「日本から
の侵略者」という意味で使われました。

倭寇の活動は,鎌倉時代からありましたが,激しくなるのは南北朝時代で,
朝鮮半島の「高麗」の記録では,1350年,半島南部の各地に倭寇が襲来,
高麗の軍隊が迎え撃って破ったとあります。以後,1370〜80年代を頂点に,
大規模な倭寇が頻繁におこり,高麗はその対策に苦慮して滅亡を早めたと
さえいわれています。

1392年,高麗にかわって「李氏朝鮮」が成立すると,日本に倭寇禁圧を要
請するいっぽうで防衛体制をととのえ,また投降する倭寇には地位や住居
をあたえるなど懐柔政策を取りました。それによって以後,倭寇の活動は
おもに中国沿岸へと移りましたが,「足利義満」のときにひらかれた「日
明貿易」が軌道に乗ってくると,急激に沈静化に向かいました。


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=第132回= 日明貿易(にちみんぼうえき)<室町時代>

日明貿易とは,室町時代に日本と中国の明の間でおこなわれた「公式」の
貿易です。室町幕府3代将軍「足利義満」は,使節を送り,明に正式な通
交を求めました。そして,1404年,来朝した明使が,「永楽帝」の渡航許
可証である『勘合』を持参し,貿易が開始されることになったので,この
貿易を『勘合貿易』とも呼びます。

4代将軍「足利義持」の時代になると,いったん,明との国交を断ちまし
たが,6代将軍「義教」のときに再開し,以後,16世紀半ばまでの150年間
遣明船は派遣されました。形式上は幕府の主催でしたが,実際は,大寺院
や有力守護大名,博多や堺の大商人らによっておこなわれました。応仁・
文明の乱(1467〜77年)以降は,戦国大名の,細川・大内両氏が利権を争い,
大内氏が勝ち,1551年に大内氏が滅びるまで続きました。

主要輸出品は,硫黄・刀剣・扇などの工芸品,輸入品は銅銭・生糸などで,
貿易の利益は大きかったようです。特に,明銭は日本の貨幣経済に大きな
影響を与え,すでに明ではつかわれていない宋銭・元銭なども輸入された
ため,日明双方の関係者に大きな利益をもたらしました。


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=第133回= 明徳の乱(めいとくのらん)<室町時代・1391年>

明徳の乱とは,1391年に「山名氏清(やまなうじきよ)」が,室町幕府に対
しておこした反乱のことです。

一族合わせて,中国・近畿に11カ国を領し,全国66カ国の6分の1の領国
を持っていたことから「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれた山名
氏の強大な勢力を削減し,将軍権力を強化しようとする「足利義満」の策
謀によって起こされました。

義満は,山名一族の分断をはかり,一族内におこった内紛の兆しをとらえ
て守護職任免などで氏清らを挑発しました。そして,1391年に,氏清と甥
の満幸が挙兵すると,細川・畠山・大内氏らに討伐させ,氏清は戦死,満
幸は出雲にのがれたものの,のちに殺されました。

乱後,山名氏の領国は,但馬(たじま),伯耆(ほうき),因幡(いなば)の3
カ国に削られ,ほかの9カ国は乱鎮圧に功績のあった畠山・細川・大内・
一色・赤松氏らの諸大名に分け与えられました。


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=第134回= 応永の乱(おうえいのらん)<室町時代・1399年>

応永の乱とは,1399年に「大内義弘」が,室町幕府に反抗して敗死した乱
のことです。大内氏は,弘世・義弘の2代にわたり室町幕府の確立に大き
く貢献し,義弘は,6カ国の守護を兼ね,大きな勢力を誇っていました。
また,朝鮮との貿易によって多大な富をたくわえ,畿内最大の貿易港であ
る和泉堺をも手中に収めていました。

そんな中,将軍権力の完成をめざしていた3代将軍「足利義満」は,義弘
の勢力をそぎ外交権を奪おうとして,義弘に圧力をかけました。それに対
して義弘は,かねてから将軍と対立していた鎌倉公方「足利満兼」や,美
濃の土岐氏,丹波の山名氏,近江の京極氏ら有力守護の一族と盟約し,東
西から幕府を攻撃する作戦をたて,1399年,堺に大軍を率いて到着し,戦
闘態勢を取りました。

しかし,義弘の挙兵に呼応したはずの満兼は,武蔵府中で出陣したところ
で進軍を断念し,美濃・丹波・近江でおこった反乱もたちまち鎮圧され,
堺は,幕府軍の総攻撃によっておち,義弘は戦死,弟の弘茂(ひろもち)は
降伏して乱は終わります。こうして義満の目的は達成され,室町幕府の全
盛期を迎えることになるのです。


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=第135回= 勘合(かんごう)

勘合とは,明が貿易統制のために使用した「割符」のことです。日明間で
使用された勘合は,日字勘合と本字勘合の二種類があり,明から日本への
船には「日字勘合」,日本から明への船には「本字勘合」が用いられまし
た。

勘合は「日字○號」「本字○號」(○の中には,「壱」などの数字が入る)
の文書を,それぞれ中央から折半し,一方を勘合,一方を勘合底簿として
照合することにより,倭寇などと区別することができるため,正式な使者
である証として使われたのです。


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=第136回= 寧波の乱(にんぽーのらん)<室町時代・1523年>

寧波の乱とは,中国の港である「寧波」で,大内氏と細川氏の勘合船が,
貿易の主導権をめぐって争った事件です。

大内氏は,正徳年号の新しい勘合を持ち,先に入港していました。後から
入港した細川氏は,古い勘合を所持していたのにもかかわらず,明の役人
に賄賂を贈り優先権を得たため,怒った大内氏が,細川氏の船を焼き,使
節を殺しました。

この事件で,貿易は一時中断されましたが,以後,大内氏が,貿易を独占
するようになりました。


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=第137回= 日朝貿易(にっちょうぼうえき)<室町時代>

日朝貿易とは,14世紀末より約100年間続いた日本と李氏朝鮮の貿易のこと
です。当時,倭寇に悩まされていた朝鮮の禁圧要請を機にはじめられまし
た。

この貿易は,明との貿易とは違い,はじめから幕府だけでなく,守護大名
や豪族,商人なども参加して行われたため,朝鮮側は,対馬の「宗氏」を
通し,厳格な規制を設け,貿易を統制しました。
なお,主な輸入品は「綿布」「大蔵経」「人参」などで,輸出品は「銅」
「硫黄」「刀剣」「染料」などでした。


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=第138回= 応永の外冦(おうえいのがいこう)<室町時代・1419年>

応永の外冦とは,朝鮮が,1419年に「対馬」を突如襲撃した事件のことです。
倭寇を恐れていた朝鮮は,彼らの根拠地を対馬とみなし,約 200隻の軍船を
さしむけました。

これは,前年,島主の「宗貞茂」が死亡し,後を継いだ「貞盛」が幼なかっ
たため,貞茂時代には,比較的円滑に行われていた日朝間の貿易が,再び倭
寇の手によって荒らされることに対する予防措置であったと考えられます。

この事件で,日朝貿易は一時中断しましたが,1423年に再開され,以後,16
世紀まで非常に活発に行われるようになりました。


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=第139回= 三浦の乱(さんぽのらん)<室町時代・1510年>

三浦の乱とは、朝鮮の「三浦」に住む日本人居留民がおこした乱のことで
す。「三浦」とは、李氏朝鮮が、日朝貿易のために、開いた3つの港のこ
とで富山浦(ふざんほ)・乃面浦(ないじほ)・塩浦(えんぽ)の3つをさしま
す。朝鮮は、ここに日本の使節の接待と貿易のために「倭館(わかん)」を
おきました。

1510年、三浦に住む日本人は、統制が強化されるのに反発して、対馬島主
の宗氏の支援を得て蜂起しました。しかし、鎮圧され、以後、日朝貿易は、
衰退の一途をたどることになったのです。


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=第140回= 琉球王国(りゅうきゅうおうこく)<1429年(成立)>

琉球王国とは「沖縄諸島」に成立した王国のことです。沖縄は、14世紀の
中ごろ、北山(ほくざん)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)の三王国が、
分立していましたが、1429年に、中山王の「尚巴志(しょうはし)」が、こ
れらの三山を統一し、琉球王国がつくられました。

統一後、尚氏は、首里城を大規模に修築し政府を整備しました。また、明
や日本などと国交を結ぶとともに海外貿易をさかんに行いました。琉球船
の行動範囲は、日本や朝鮮、明などの東アジアにとどまらず、南方のジャ
ワ島やスマトラ島、インドシナ半島などにおよびました。そのため、琉球
は、東南アジア諸国間の中継貿易に活躍することとなり、東アジアの重要
な交易市場になり、大いに繁栄しました。

しかし、1609年、薩摩の島津氏に服属し、1879年の沖縄県設置によって日
本に帰属することになります。


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