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=第141回= 惣(そう)

惣とは、「中世農民の自治的な共同組織」のことで、惣村ともいいます。
荘園体制が崩壊していく過程で、領主の支配が弱くなっていくにつれ、し
だいに階層を超えた地域的結合が強くなっていきました。そして、村落の
自衛、灌漑用水や入会地の管理、あるいは、年貢の徴収まで、自治的に行
うようになりました。
さらに、いくつもの村落をまとめた、〜郷、〜庄と呼ばれる惣郷、惣庄と
いう規模の大きい自治組織も生まれるようになりました。そして、これら
の勢力は、南北朝期から畿内を中心に成長し、後に土一揆の母胎となった
のです。


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=第142回= 寄合(よりあい)

寄合とは、惣の「自治的協議機関」、つまり「村民の会議」のことです。
村民の代表者が集まり、村掟や一揆、入会、農事などについて話し合い、
決定しました。また、一つの惣村だけでなく、いくつかの惣村が集まり、
大寄合を開くこともありました。


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=第143回= 正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき)<1428年>

正長の土一揆とは、近江の馬借の蜂起を契機に、山城から畿内一帯に波及
した土一揆のことで、「徳政」を要求したことから、「正長の徳政一揆」
とも言います。

1428年8月に、まずは、近江の運送業者である馬借が徳政を要求して立ち
上がり、ついで、京都近郊の惣村の結合をもとにした土一揆が、同じく徳
政を要求し、京都の酒屋や土倉を襲い、質物や売買・貸借証文を奪いまし
た。さらに、この動きは、近畿地方やその周辺に広がり、各地で実力によ
る債務破棄や売却権の取戻しなどの私徳政が展開されました。

そのため、「日本開闢以来土民蜂起是れ初め也」と言われ、中央政界に大
きな衝撃を与えました。


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=第144回= 永享の乱(えいきょうのらん)<室町時代・1438年>

永享の乱とは、6代将軍「足利義教(あしかがよしのり)」が、幕府にそむ
いた鎌倉公方の「足利持氏(あしかがもちうじ)」を打ち滅ぼした事件です。

6代将軍に就任した義教は、幕府における将軍権力の強化を狙って、服従
しないものを力で抑えようとしました。そのため、幕府に対して独立性の
強かった鎌倉府と激しく対立し、1438年に義教は、関東に討伐軍を送るこ
とになります。そして、翌年、持氏の自殺によって乱は、終結しました。
以後、関東では、関東管領の上杉氏が実権を握ることになります。


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=第145回= 嘉吉の乱(かきつのらん)<室町時代・1441年>

嘉吉の乱とは、有力守護の「赤松満祐(あかまつみつすけ)」が、室町幕府
6代将軍「足利義教(あしかがよしのり)」を暗殺した事件のことです。

満祐は、播磨・美作・備前の守護でしたが、義教の恐怖政治に恐れをなし、
次に粛清されるのは自分ではないかと疑心暗鬼を抱きました。そして、義
教を自邸に招き暗殺したのです。

その後、満祐は、播磨に下りましたが、山名氏らの諸将に攻められ敗死。
赤松氏の勢力は衰退することになります。同時に、将軍の権威も落ち、幕
府の力も落ちていきました。


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=第146回= 応仁の乱(おうにんのらん)<室町時代・1467〜77年>

応仁の乱とは、京都を中心として起こり、全国に波及した11年間も続いた
内乱で、応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも言います。

15世紀半ばには、幕府の守護大名に対する統制力が弱まり、各地で守護大
名どうしの勢力争いや大名家内部の家督争いなどがおこっていました。
そして、幕府の管領家である「畠山」・「斯波」の両氏の家督相続をめぐ
る争いがおき、また、将軍家でも、8代将軍「足利義政」が当初将軍後継
と決めていた弟の「足利義視」と、義政の妻「日野富子」が押す義政の子
「足利義尚」の家督争いがおこりました。

これらの要因に、幕府の主導権を争う「山名宗全(持豊)」と「細川勝元」
が結びつき天下を二分する大乱に発展したのです。その結果、公家勢力や
将軍の権力は失墜し、戦国時代へと突入するきっかけとなりました。


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=第147回= 下剋上(げこくじょう)

下剋上とは「身分の下の者が上の者を実力でしのいでいく」という現象を
いいます。南北朝時代から戦国時代にかけて公家の没落や荘園制の解体な
どを背景として盛んになりました。

特に、応仁の乱以降は、大きな社会変革の時期で、新しい勢力が次々とお
こり、社会の上下関係はめまぐるしく変化しました。幕府では「守護」が
将軍を下風におき、地方では「守護代」や「国人」が守護にかわって「戦
国大名」となりました。また、荘園では農民が領主に反抗し、農民や民衆
が「土一揆」をおこすなど、いずれも本来の順序を逆転させた社会現象と
いえるでしょう。しかし、その後の「豊臣秀吉」の「検地」と「刀狩」に
よって、その根は断たれることになります。


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=第148回= 山城国一揆(やましろのくにいっき)<室町時代・1485年>

山城国一揆とは、山城国の南部の「国人」が中心となっておこした一揆の
ことです。南山城では、守護大名の畠山家では、畠山政長と義就の家督争
いが続いていました。戦乱の被害にたえかねた南山城3郡では、15〜60歳
の国人たちが集会をひらき、強い態度で両軍に退陣を要求し、これを実現
させました。そして、宇治平等院で、国中掟法を制定し、8年間、守護を
排除した「惣国」という組織を作り、国人36人の合議による支配がおこな
われたのです。しかし、一揆は、内部対立から弱体化し、1493年に解体し
ました。


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=第149回= 加賀一向一揆(かがのいっこういっき)<1488年>

加賀一向一揆とは、1488年、一向宗(浄土真宗)徒が起こした一揆のことです。
この一揆は、本願寺の「蓮如(れんにょ)」の布教により、近畿や東海、北陸
に広まった「浄土真宗本願寺派」の勢力を背景とし、加賀の門徒が国人と手
を結び、守護の「富樫政親(とがしまさちか)」を倒しました。そして、以後
約100年にわたって加賀一国は、一揆が支配する本願寺の領国となりました。


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=第150回= 座(ざ)

座とは、中世の「商工業者の同業組合」のことです。公家や寺社を本所と
仰ぎ、保護を受けました。座は、本所に対して「座役(ざやく)」という税
を納めるかわりに「販売の独占権」を得たり「関銭(せきせん;通行税)」
や「津料(つりょう;港や船着場で徴収される関銭)」を免除されるなど、
さまざまな特権を得ました。室町時代に栄えた座として特に有名なのが、
「大山崎油座(おおやまざきのあぶらざ)」です。
奈良・京都に発達した「座」は、しだいに地方にも成立するようになりま
したが、やがて新興商人が出現し、楽市・楽座政策などによって、独占的
で特権的な座は、廃止されることになります。


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