☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第151回= 土倉(どそう/どくら)<鎌倉〜室町時代>

土倉とは、主に室町時代に繁栄した「金融業者」のことです。名前の由来
は、質物保管のための土蔵を構築しているところからきています。奈良や
京都に多く存在し、土倉を兼ねることの多かった酒屋と合わせて、15世紀
初頭には、京都に約350軒、奈良に約200軒もあったといわれます。
土倉は、高利貸しとして暴利をむさぼったため、土一揆の標的にもなりま
した。また、土倉が納めていた税金「倉役」は、酒屋が納めていた「酒役」
とともに、室町幕府の重要な財源となっていました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第152回= 六斎市(ろくさいいち)<室町時代>

六斎市とは、応仁の乱のころから各地で始まった、月6回開かれた「定期市」
のことです。もともと定期市といえば、月に数回、一定の日に行われる市の
ことを指しますが、鎌倉時代には、月3回開かれる「三度の市(三斎市)」が
開かれていました。そして、月3回から月6回へと倍増していったのです。
これは、商工業が発展し、流通経済の発達がもたらしたものといえるでしょ
う。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第153回= 問屋(といや) <室町時代>

問屋とは、委託された貨物を手数料を取って売りさばく「卸売商」のよう
なもので、鎌倉時代に、年貢の保管や輸送を行っていた「問丸(といまる)」
が発展したものです。
問丸は、保管業と運送業を兼ねることが多かったのに対し、問屋は「輸送
部門」を切り離し、商品の「卸売り」と「保管」を専門にしました。そし
て、輸送部門は、別に「馬借」や「車借」と呼ばれる専門業者が現れるよ
うになったのです。
また、問屋は、商品の保管・売買のほか、商人宿の機能も果たしました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第154回= 守護代(しゅごだい)<室町時代>

守護代とは、守護の任国を管理するために現地にとどめた「守護の代官」の
ことです。守護の多くは、京都や鎌倉に駐留したため、任国管理の代官が必
要でした。しかし、守護代は世襲化していき、やがて国人らを配下にして力
をつけ、下剋上をして、守護大名を凌ぐようになり、戦国大名に成長した例
も数知れません。斯波氏の守護代だった「朝倉氏」や「織田氏」は、特に有
名です。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第155回= 戦国時代(せんごくじだい)

戦国時代とは「応仁の乱(1467〜77年)」の後、約1世紀にわたって全国に大
名が割拠し、激しく争った時代を言います。室町幕府の将軍の権威が落ち、
「下剋上」の風潮が支配した時代ですが、そのきざしは、6代将軍「足利義
教」が暗殺された「嘉吉の乱(1441年)」あたりに、すでにありましたが、8
代将軍「足利義政」のときに起こった「応仁の乱」の後に顕著に表れるよう
になります。「守護大名」に代わり「戦国大名」が台頭し、実力による支配
がなされ、各地で興亡が繰り返されましたが、最終的には、信長を経て秀吉
による全国統一により終わりを告げることになります。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第156回= 分国法(ぶんこくほう)<室町時代>

分国法とは、戦国大名が「分国統治」のために制定した「施政方針や法令」
のことをいいます。分国とは、本来は、守護職が保有する国のことをいいま
したが、戦国時代になると、将軍の権威に頼らない独自の支配領域を意味す
るようになり、戦国大名は、その領域にだけ通用する法律を作りました。内
容的には、私的な家訓から軍事・刑事・民事など、多岐にわたり、それぞれ
の国の国法となりました。

代表的な分国法としては、伊達氏の「塵芥集(じんかいしゅう)」や今川氏の
「今川仮名目録(いまがわかなもくろく)」武田氏の「甲州法度之次第(こう
しゅうはっとのしだい)」や朝倉氏の「朝倉孝景条々(あさくらたかかげじ
ょうじょう)」などがあります。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第157回= 古河公方(こがくぼう)<室町時代>

古河公方とは、鎌倉公方が分裂してできたものです。

1449年に、鎌倉公方の足利持氏の子「足利成氏(あしかがしげうじ)」は、
鎌倉に迎えられましたが、関東管領の上杉氏と対立しました。そして、自
らの権力強化を図って、関東管領「上杉憲忠」を謀殺(享徳の乱)したため、
幕府軍の追討を受け、鎌倉から下総古河に逃れたのです。そのため、鎌倉
公方は分裂しました。

以後、古河公方は、「政氏(まさうじ)」「高基(たかもと)」「晴氏(はるう
じ)」と続きましたが、1554年、北条氏康に古河城を奪われ、事実上滅亡し、
北条氏に擁された「義氏(よしうじ)」で絶えることになります。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第158回= 堀越公方(ほりごえくぼう)<室町時代>

堀越公方とは、上杉氏が、古河公方に対抗して、将軍「足利義政」の兄弟
である「政知(まさとも)」を迎え、1457年に伊豆堀越に設置したものです。
このころの関東は、鎌倉公方が、古河公方と堀越公方に分裂しただけでな
く、関東管領の上杉氏も、「山内(やまのうち)」と「扇谷(おおぎがやつ)」
に分かれて争っていたため、この混乱に乗じて、堀越公方は、北条早雲に
よって滅ぼされました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第159回= 北条早雲(ほうじょうそううん)<室町時代・1432〜1519年>

北条早雲は、下剋上の代表のような「戦国大名」です。鎌倉時代の北条氏と
区別するため、早雲以後の北条氏を「後北条氏」と呼ぶこともあります。

早雲は、この後北条氏の初代で、本名は「伊勢新九郎長氏」といいます。し
かし、異説も多く、はっきりしたことはわかっていません。また、出身にも
諸説があり、こちらもはっきりしませんが、室町幕府の臣である伊勢氏の流
れとする説が有力のようです。

早雲は、初めは、駿河の今川氏親(いまがわうじちか)の外戚として、今川氏
に寄食していましたが、関東管領の上杉氏の抗争を利用して領域を拡大しま
した。まず、1491年、堀越公方の「足利政知」の死後、政情不安定になって
いた伊豆へ攻め入り政知の子「茶々丸」を殺し、伊豆韮山(にらやま)に本拠
を移し、1495年、小田原城を奪い、ここを本拠として相模の平定にかかりま
した。後に、ほぼ相模一国を制圧し、戦国大名への道を歩んだのです。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第160回= 武田信玄(たけだしんげん)<室町時代・1521〜73年>

武田信玄は、戦国時代の代表的な武将の一人で、名は「晴信」、出家して
「信玄」と号しました。信玄は、清和源氏の子孫で、甲斐を本拠とした戦
国大名「武田信虎」の子でしたが、1541年、粗暴なふるまいで家臣の支持
を失っていた父・信虎を追放し、当主となりました。

以後、領国の甲斐をかためると信濃への侵攻を開始し、諏訪・小笠原・村
上氏らを破り勢力を広げ、北信濃へ進出、越後の「上杉謙信」と対立する
ことになりましたした。

そこで、信玄は、相模の「北条氏康」駿河の「今川義元」と「三国同盟」
を結び、背後をかためた上で、謙信と何度も川中島で激突することになり
ます。これが有名な「川中島の合戦」で、1561年の第4回の合戦が最大の
激戦で、以後、優位にたった信玄は信濃全域をほぼ掌握し、さらに飛騨や
西上野へと侵攻しました。

また、今川義元の没後は、義元の娘を妻としていた長男の「義信」を反逆
罪で刑死させ、今川氏との同盟関係を断ち、後に駿河も領有しました。さ
らに、北条氏とも敵対して小田原城を包囲、氏康の遺言で和議が成立する
まで激しい戦いをくりひろげました。

信玄は、「織田信長」が台頭してくると「石山本願寺」や、近江の「浅井
長政」、越前の「朝倉義景」らと結び、信長包囲網の中心となりました。
また、1572年、大軍をひきいて上洛の軍をおこし、遠江・三方ヶ原(とおと
うみ・みかたがはら)で、「徳川家康・信長」の連合軍を破り、強さを見せ
つけましたが、三河の陣中で病にたおれ、甲斐へ戻る途中、天下統一の志
半ばで、病没することになります。

信玄は、分国法「甲州法度之次第」を制定したり、「信玄堤」で知られる
釜無川の治水工事をするなど、武将としてだけでなく、すぐれた政治手腕
も発揮しました。


★ バックナンバー目次へ ★   ★ TOPのページへ ★  ★ 次(161〜170)へ ★