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=第161回= 上杉謙信(うえすぎけんしん)<室町時代・1530〜78年>

上杉謙信は、戦国時代を代表する武将の一人です。越後守護代「長尾為景
(ながおためかげ)」の子で、はじめは「長尾景虎(ながおかげとら)」を称
していましたが、「上杉憲政」から上杉の姓と「関東管領」職をゆずられ
て名を「上杉政虎(うえすぎまさとら)」とあらためました。そして、のち
に「輝虎(てるとら)」とあらため、出家して「謙信」と号したのです。

謙信は、武田信玄との川中島の合戦や、関東における北条氏との合戦、越
中や能登での織田軍との合戦など勇猛に戦いましたが、急病死したため、
覇権の野望を果たすことができませんでした。彼の指揮ぶりは、天才的な
ものがあった半面、権威や伝統にとらわれ、領国統治では他の戦国大名の
おこなったような分国法の制定や検地などの政策はとらず、家臣団の編成
や統制も旧体制のものにとどまりました。

また、潔癖な性格の持ち主で、毘沙門天(びしゃもんてん)を信仰し、生涯
独身をとおしたため子がなく、謙信没後、跡目争いがおこり、養子の長尾
政景の子「景勝」越後の支配者となりました。


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=第162回= 毛利元就(もうりもとなり)<室町時代・1497〜1571年>

毛利元就は、中国地方を中心とした代表的な戦国武将の一人です。元就は、
側室の子でしたが、兄や甥が早世したため、家督をつぐことになりました。

当時の中国地方は「尼子氏」と「大内氏」の両勢力に2分されていました。
元就は、国人領主として、はじめ出雲の「尼子晴久」に、のちに周防・長門
の「大内義隆」に属しつつ、次男「元春」を「吉川(きっかわ)氏」へ、3男
「隆景」を「小早川氏」へ、それぞれ養子としていれ、安芸と備後で勢力を
伸ばしていきました。

そして、大内義隆が「陶晴賢(すえはるかた)」によって滅ぼされると、1555
年「厳島の戦」で晴賢をうち、その後、大内氏の領国をそっくり勢力下にお
さめ、さらに1566年には、尼子氏をもくだし、中国地方10カ国と豊前・伊予
の一部を支配する戦国大名に成長しました。

元就は、戦術より計略にすぐれた武将で、性格は細心・慎重だったようです。
1本の矢は簡単に折れるが、3本まとめると折れにくいということを示し、
3兄弟の結束を説いたというエピソード有名です。最近では、この話は、実
話ではないと言われていますが、実際、この時代には珍しく、3兄弟の結束
はかたく、次男「元春の吉川氏」と三男「隆景の小早川氏」は、毛利の両川
(りょうせん)と呼ばれ、毛利本家をささえました。


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=第163回= 足軽(あしがる)

足軽とは「歩兵」として軍役に服する雑兵のことです。応仁の乱のころから
起こり、組織されていきましたが、鉄砲や長槍などを使用するようになって
から、より重要性を増していきました。特に、織田信長の足軽鉄砲隊などが
代表的なもので、戦いに大きな役割を演じました。


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=第164回= 城下町(じょうかまち)

城下町とは、戦国時代、戦国大名が城郭を中心として家臣団や商工業者を
集住させ、計画的に建設した都市のことです。
戦国時代になって戦国大名の領国支配が進んで、大規模な城郭が整備され、
その城下に町場が発展して城下町となりました。

信長や秀吉の時代になると、兵農分離が進み、家臣団や商人・職人を城下
に集中させた城下町がつくられ、楽市・楽座や関所の廃止などで商工業の
発展がはかられ、以後、城下町は、大名領国の政治・経済の中心として本
格的に発展していきました。

江戸時代になると、徳川政権の確立期に、諸大名の配置替えが大規模にお
こなわれたこともあって、全国各地に新しい城下町が数多くつくられまし
た。しかし、元禄期ごろを頂点として領主財政がいきづまり、江戸や大坂
の都市商人が台頭してくると城下町経済はしだいに活況をうしない、明治
維新によって大名の支配する城下町の存在意義は消滅しました。

しかし、それらは、広大な城地や武家地に県庁をはじめとする官公署や主
要学校がおかれるなど、旧城下町がそのまま地域の中心的都市へと発展し、
近代都市の源流のひとつとなったのです。


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=第165回= 町衆(まちしゅう)

町衆とは、京都で形成された自治的組織「町(ちょう)」の中心的構成員を
言います。

中世の京都では、道路をはさんだ両側の店舗が結束し「町」を構成しまし
た。「町」は、特に、応仁の乱以後、数町で組織した町組(ちょうぐみ)を
結成し、自治的な性格を強めました。

町衆は原則として町内に家をもって、輪番で世話役をおこなうなど、一定
の義務と権利をもち「町の防衛」もおこないました。中心的な構成員は、
「酒屋・土倉」などの富裕な商工業者で、時として反権力的な行動をとる
こともありましたが、祇園祭に代表されるように民衆芸能や文化の担い手
としても、大きな力を持ちました。


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=第166回= 五山(ござん)

五山とは、南宋の官寺の制(かんじのせい)にならった臨済宗の寺格のこと
で、鎌倉時代に始まり、室町時代、足利義満のころ制度的に完成しました。

京都五山、鎌倉五山は、次のとおりです。

【京都五山】
・南禅寺(なんぜんじ)・・・・別格上位
・天竜寺(てんりゅうじ)・・・京都五山第1位
・相国寺(しょうこくじ)・・・京都五山第2位
・建仁寺(けんにんじ)・・・・京都五山第3位
・東福寺(とうふくじ)・・・・京都五山第4位
・万寿寺(まんじゅじ)・・・・京都五山第5位

【鎌倉五山】
・建長寺(けんちょうじ)・・・鎌倉五山第1位
・円覚寺(えんかくじ)・・・・鎌倉五山第2位
・寿福治(じゅふくじ)・・・・鎌倉五山第3位
・浄智寺(じょうちじ)・・・・鎌倉五山第4位
・浄妙寺(じょうみょうじ)・・鎌倉五山第5位


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=第167回= 蓮如(れんにょ)<室町時代・1415〜99年>

蓮如とは、浄土真宗(一向宗)の本願寺派の僧侶で、本願寺8世。当時不振
だった本願寺を興隆し、「中興の祖」といわれた人物です。蓮如は、法号
で、名は「兼寿(けんじゅ))」です。

1465年に比叡山の衆徒に本願寺を焼かれたため、1471年に越前吉崎に坊舎
を構え、教化活動を展開しました。そして、1478年に山科に本願寺を再建
し、1496年には、大坂石山に坊舎を建て、後の石山本願寺の基礎を築きま
した。


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=第168回= 石山本願寺(いしやまほんがんじ)

石山本願寺とは、蓮如(れんにょ)が、現在の大阪に、本願寺の別院として
建立したもので、1532年の法華一揆によって、山科本願寺が焼かれた後、
本寺になりました。

この寺は、本願寺11世の顕如(けんにょ)のころ、織田信長との争いで有名
です。1570年から1580年にかけて、激しく争いましたが、結局、和睦がな
り、顕如らは、退去することになりました。


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=第169回= 神皇正統記(じんのうしょうとうき)<室町時代>

神皇正統記とは、後醍醐天皇の側近「北畠親房(きたばたけちかふさ)」が
書いた歴史書です。親房は、常陸国小田城で北朝と対戦しながら、この書
を著しました。内容は、「大日本は神国なり」に始まり、神代より、後村
上天皇までの歴史を天皇中心に書かれています。
そして、何よりも、大義名分論に基づき、「南朝の正当性」を主張してい
るところが特徴です。成立は、1339年ごろと思われます。


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=第170回= 梅松論(ばいしょうろん)<室町時代>

梅松論は、足利尊氏の幕府創設を中心とした南北朝時代を描いた戦記です。
神皇正統記が、南朝の正当性を主張しているのに対し、足利尊氏の側から
書かれたものとして、対比されます。作者は、足利氏の家臣らしく、幕府
の正当性と一門の繁栄を梅松にたとえて名づけたようです。


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