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=第171回= 足利学校(あしかががっこう)

足利学校とは、下野国足利(現在の栃木県足利市)にあった学校のことです。
もともとは、鎌倉時代に、足利氏の一族の学校として建てられましたが、
室町時代に入って、関東管領「上杉憲実(うえすぎのりざね)」が再興して
から発展することになります。

憲実は、1439年、初代校長として、鎌倉円覚寺の僧「快元(かいげん)」を
迎え、学校を整備しました。学校の管理は禅宗寺院にならって禅僧が行い、
授業では易学を中心に、漢籍や兵法書が講義されました。
そして、イエズス会の宣教師「フランシスコ=ザビエル」から「板東の大
学(ばんどうのだいがく)」と称され、西洋にも紹介されるほど、発展して
いきました。

江戸時代にも徳川氏の保護を得て継続し、明治維新後、1872年に校務を廃
し、学校は蔵書とともに栃木県にひきつがれましたが、のち足利町に返却
され、1903年には学校跡に足利学校遺跡図書館が開設され、現在にいたっ
ています。


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=第172回= 能楽(のうがく)<室町時代・大成>

能楽とは、室町時代に大成された「歌舞をともなう舞台劇」のことです。
もともとは、社寺の祭礼に奉仕する「猿楽能」に民間に発展した「田楽」
が取り入れられて、庶民的な舞台芸術に発展したものと思われます。

そして、室町幕府3代将軍「足利義満」の保護を受けた「観阿弥・世阿弥」
父子により、芸術的な演劇として大成されました。以後、歴代将軍により、
保護され発展していきましたが、応仁の乱により、いったん消滅の危機に
瀕しました。しかし、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった戦国大名の
もとで命脈を保ち、江戸時代になると他の文芸にも大きな影響を与えるよ
うになりました。

その後、江戸幕府の解体や太平洋戦争後の混乱期など、何回か消滅の危機
にさらされることはありましたが、乗り越え、現在にいたっています。


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=第173回= 北山文化(きたやまぶんか)<室町時代・15世紀初頭>

北山文化とは、室町幕府3代将軍「足利義満」のころ栄えた文化のことです。
義満が造営した「北山山荘」が代表的なもので、有名な「鹿苑寺金閣(ろく
おんじきんかく)」は、その一部です。

この文化の大きな特徴として、「公家文化」と「武家文化」の融合があげら
れます。義満の時代になると、南北朝の合一もなり、幕府の権力が確立し、
政治も安定するようになりました。そして「足利尊氏」が、京都に幕府を開
いて以来、地方武士が上洛し、住みついたことで、将軍家を中心とする武家
文化が形成されるようになったのです。そして、それが、平安時代以来の伝
統的な「公家文化」と鎌倉時代以来の新興の「武家文化」が融合するように
なった要因といえます。

また、室町幕府が「禅宗」を保護し「勘合貿易」が開始されたことから、禅
宗に代表される「中国文化」の影響も大きく受けた文化だということもでき
るでしょう。


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=第174回= 東山文化(ひがしやまぶんか)<室町時代・15世紀後半>

東山文化とは、室町幕府8代将軍「足利義政」のころの文化です。義政が
応仁の乱を避け、晩年にいとなんだ「東山山荘」を中心に生みだされた文
化で、有名な「慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく)」は、その一部です。

義政は、政治には意欲を持ちませんでしたが、芸術的資質にすぐれ、きわ
めて個性的な感性を持っていたと言われています。中国からもたらされた
「唐物(からもの)」と呼ばれる美術工芸品を珍重するいっぽう、すぐれた
技芸の持ち主を周辺に集め、すぐれた部分を統合することに力をそそぎま
した。

この文化は、「公家文化」と「武家文化」に加え、「禅宗文化」や新興の
「庶民文化」がまじりあった複合的なもので、「わび・さび」などの余情
と簡素を重んじる美意識が発達しました。また、東山山荘などにみられる
「枯山水(かれさんすい)」の庭園をはじめ、「書院造」とよばれる和風住
宅様式が発生するなど、生活文化的要素も強く、やがて、日本の伝統文化
の源流となり、その後の日本人の生活様式や美意識に強い影響をあたえた
といえるでしょう。


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=第175回= 書院造(しょいんづくり)<室町時代成立>

書院造とは、室町時代に成立した「住宅建築様式」のことです。住宅内部
の座敷飾りとして、床、棚、付書院などを持ち、明障子や襖を多く用いま
した。これは、禅院の書斎の影響を受けているものと思われます。

また、この書院造は、現代日本住宅の基本となっている様式で、現在でも
その影響を受けた建築物が多く見られます。

この様式の代表的な建物としては、室町幕府8代将軍「足利義政」が営ん
だ「東山山荘(後の慈照寺)」の「東求堂(とうぐどう)」で、特に義政の書
斎で茶室にも利用されたという一室「同仁斎(どうじんさい)」が有名です。


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=第176回= 枯山水(かれさんすい)<室町時代成立>

枯山水とは、室町時代の禅院の「作庭様式」の一つを指します。もともと
は、唐山水(からせんずい)からできた言葉で、水を用いず、砂と石で自然
の生命を表現することを特徴としています。

狭い長方形の平庭に白砂と大小15の石を配置した「竜安寺(りょうあんじ)
石庭」は、その代表的なものです。また、夢想疎石(むそうそせき)が作っ
た西芳寺(さいほうじ)庭園の上段にも枯山水が用いられています。


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=第177回= 南蛮人(なんばんじん)

南蛮人とは、戦国時代に来日したポルトガル人やスペイン人、イタリア人
など「南欧系の外国人」を指す言葉です。本来の意味は、単に「南方の外
国人」ということですが、その後に来日した、イギリスやオランダなどの
北欧系の外国人を「紅毛人(こうもうじん)」と呼び区別しました。

彼らの来日により、日本は大きな影響を受け、新たな歴史が始まったとい
っても過言ではないでしょう。


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=第178回= 鉄砲(てっぽう)<室町時代・1543年(伝来)>

鉄砲は、戦国時代のさなか、1543年に「種子島」に漂流したポルトガル人
によって伝えられました。

種子島の島主「種子島時尭(たねがしまときたか)」は、漂流したポルトガ
ル人より、鉄砲を購入し、製法も学ばせました。当時は、銃口から弾薬を
入れる先ごめ式の火縄銃で鉄砲自体も「種子島」と呼ばれ、やがて、国内
でも生産されるようになり、戦術に大きな変化をもたらすことになります。

主な生産地は、和泉(いずみ)の堺、紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)や
近江の国友(くにとも)などで、伝来後、数十年で全国に普及しました。


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=第179回= キリシタン(切支丹)

キリシタンとは「キリスト教(カトリック)およびその信者」を指した呼称
です。キリスト教徒を指すポルトガル語が、そのまま日本語となりました。

キリスト教の伝来当初は、南蛮宗あるいは伴天連(ばてれん)宗などと呼ば
れていましたが、やがてキリシタンが一般的になりました。日本語の当て
字も、最初は、幾里志丹・貴理師端・吉利支丹などと書きましたが、江戸
時代の禁教政策のため、切支丹・切死端・鬼里至端などの悪意や憎悪をこ
めたものになっていきました。


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=第180回= イエズス会

イエズス会とは、1540年に、スペイン人「イグナティウス=ロヨラ」によっ
て創立された「カトリック教会」の修道会です。宗教改革に対抗し、カトリ
ックの擁護や東洋方面への布教を使命とした会で、1549年に、日本にはじめ
てキリスト教を伝えたのも、イエズス会士の「フランシスコ=ザビエル」で
した。

ロヨラは、1534年、ザビエルらの同志とともに、パリで「貞潔、清貧の生活、
聖地イスラエル巡礼」という誓願を立てましたが、オスマン帝国の進攻もあ
り、聖地への道はとざされていました。そこで、彼らは教皇の希望する地へ
宣教におもむくという義務をきめ、教皇に会則を提出、認可され、発足する
ことになったのです。

尚、イエズス会は、1773年にいったん解散しましたが、1814年に再興し、現
在も、全世界で教育活動への協力を中心に活動しています。


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