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=第181回= 宣教師(せんきょうし)

宣教師とは、一般的に「キリスト教会」が「外国での伝道」のために派遣
する「牧師」や「司祭」のことです。日本では、16世紀以降にに来日した
宣教師のうち、司祭職のものを、特に「伴天連(ばてれん)」と呼びました。
これは、ポルトガル語のパードレ(神父)から来たものです。

来日した、主な宣教師を挙げておきます。

 ・ガスパル・ヴィレラ(1556年来日・ポルトガル人) 
   主に畿内で伝道。堺の状況を報告
 ・ルイス・フロイス(1563年来日・ポルトガル人)
   京都で信長と謁見。「日本史」の著者。
 ・オルガンティーノ(1570年来日・イタリア人)
   京都に南蛮寺を建立。安土にセミナリオを建設。
 ・ヴァリニャーニ(1579年来日・イタリア人)
   天正遣欧使節を率いて長崎を出航。使節の帰国と一緒に再来日。


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=第182回= キリシタン大名

キリシタン大名とは、キリスト教に入信した大名のことです。戦国時代に
伝えられたキリスト教は、貿易のメリットなどを考え、多くの大名たちが、
保護しました。そして、キリスト教に入信し、キリシタン大名と呼ばれる
ことになります。

キリシタン大名は、特に、九州地方や近畿地方に多く見られました。主な
大名は、次のとおりです。

・大友宗麟(おおともそうりん) 豊後の領主(洗礼名:フランシスコ)
・大村純忠(おおむらすみただ) 肥前大村の領主(洗礼名:バルトロメオ)
・有馬晴信(ありまはるのぶ)  肥前有馬の領主(洗礼名:ジョンプロタシオ)
・黒田孝高(くろだよしたか)  秀吉の軍師(洗礼名:シメオン)
・高山右近(たかやまうこん)  高槻城主(洗礼名:ジュスト)


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=第183回= 天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)<1582年・出発>

天正遣欧使節とは、日本からローマ教皇のもとへ派遣された「少年使節」
のことです。1582年に、来日中の宣教師「ヴァリニャーニ」が離日するに
際、計画・実行されたもので、九州のキリシタン大名「大友宗麟」「大村
純忠」「有馬晴信」の3大名の使節として送られました。

派遣されたメンバーは、正使として「伊東マンショ」と「千々石(ちぢわ)
ミゲル」、副使として「原マルチノ」と「中浦ジュリアン」の4人の少年
で、ゴア、リスボン、マドリード、フィレンツェをへて、1585年ローマに
入り、教皇に謁見しました。

しかし、1590年に帰国したときは、すでに豊臣秀吉の伴天連追放令が出た
後で、キリスト教が禁止されていました。4人は聚楽第で秀吉に拝謁し、
ヨーロッパの珍しいものを贈ったり、楽器を演奏したりしましたが、その
後、キリスト教の取締りが厳しくなり、「千々石ミゲル」は信仰を捨て、
「伊東マンショ」は病死、「原マルチノ」は、マカオに追放されました。
ただ一人信仰を守った「中浦ジュリアン」は、捕らえられ処刑されました。

悲劇的な末路をたどった彼らですが、日本に活版印刷機と印刷術がもたし
たことや、キリスト教世界に日本をアピールしたことは、非常に大きな意
味があったと言えるでしょう。


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=第184回= セミナリオ(Seminario)<室町〜江戸時代>

セミナリオとは、イエズス会が日本人キリシタンの聖職者を養成するため
に設置した「宗教教育施設」のことで「神学校」と訳されることもありま
す。1579年に来日したイエズス会のヴァリニャーニが、翌年、肥前の有馬
と近江の安土に開設し、ラテン語やキリスト教の教義のほか、西洋の音楽
や美術工芸なども教えました。

しかし、1582年に「本能寺の変」がおこると、安土のセミナリオは、京都、
高槻、大坂と各地を転々とし、1588年には有馬のセミナリオと合併するこ
とになります。更に、戦乱と迫害によって九州北西部を転々とし、1613年、
江戸幕府による禁教令が出され、翌年に消滅しました。


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=第185回= コレジオ(Collegio)<室町〜江戸時代>

コレジオとは、イエズス会が聖職者の養成と西洋文化を教えるため日本に
設置した「大学」で、「学院」あるいは「神学院」と訳されます。

イエズス会の「ヴァリニャーニ」は、1580年、キリシタン大名「大友宗麟」
の援助をうけて、豊後府内(大分市)にコレジオを開設しました。そして、
ヨーロッパ人修道士やノビシヤド(修練院)の卒業者を入学させ、神学・哲
学・ラテン語・日本語・日本文学・自然科学などを教えました。

しかし、大友氏の没落や豊臣秀吉によるキリシタン弾圧の迫害のため、山
口や西九州各地を転々とすることになります。そして、1597年には、長崎
に移り、1614年まで続きました。その間、キリスト教思想やヨーロッパの
学問を紹介し、また辞書や物語などキリシタン版とよばれる書物の刊行を
行うなど、文化史上に大きな業績を残したのです。


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=第186回= 南蛮文化(なんばんぶんか)<安土桃山〜江戸時代>

南蛮文化とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて「スペイン人」や
「ポルトガル人」が日本にもたらした文化のことです。もちろん、キリス
ト教の影響は大きいのですが、医学・天文学・地理学や航海・測量技術な
ど、必ずしもキリスト教とは関係しないものも多く、当時のヨーロッパ文
化がもたらしたものといえるでしょう。

その中でも、「天正遣欧使節」が帰国の際にもちかえった「活版印刷機」
と「印刷技術」によって、後ににキリシタン版といわれる辞書や語学書、
文学書などの書物が刊行されたことは、特筆されます。

ここで、南蛮系の主な外来語をあげておきます。

<食 物> テンプラ、カステラ、ボウロ、コンペイトウ、パンなど
<衣料品> カッパ、ビロード、ラシャ、ジュバン、メリヤス、ボタンなど
<その他> タバコ、シャボン、カルタ、カナリアなど


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=第187回= 織豊政権(しょくほうせいけん)<安土桃山時代>

織豊政権とは、文字どおり「織田信長」と「豊臣秀吉」の政権のことをい
います。具体的には、室町幕府15代将軍「足利義昭」を京都から追い出し、
事実上、室町幕府が滅亡した1573年から「徳川家康」が征夷大将軍に就任
した 1603年までを指すことが多いようです。約100年続いた戦国の世を終
わらせ天下統一事業を完成し、封建制の確立の基礎を築いた政権であると
いえるでしょう。


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=第188回= 織田信長(おだのぶなが)<1534〜1582年>

織田信長といえば、知らない人がいないほど有名な人物です。尾張の守護代
「織田信秀」の子で、天下統一事業を展開しましたが、志半ばで「本能寺の
変」により倒れました。信長の主な業績は、下記のとおりです。

【信長関連年表】
・1534年 尾張国で織田信秀の子として生まれる
・1551年 織田家の当主となる
・1560年 桶狭間の戦い(今川義元を破る)
・1568年 足利義昭を奉じ入京
・1570年 姉川の戦い(浅井,朝倉を破る)石山戦争開始
・1571年 比叡山延暦寺の焼打ち
・1573年 足利義昭の追放(室町幕府の滅亡)
・1574年 伊勢長島の一向一揆平定
・1575年 長篠の戦い(武田勝頼を破る)越前一向一揆の平定
・1576年 安土城を築く
・1580年 石山戦争終わる(本願寺を屈服させる)
・1582年 天目山の戦い(武田氏を滅亡させる)
・1582年 本能寺の変(明智光秀に殺される)


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=第189回= 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)<室町時代・1560年>

桶狭間の戦いとは、1560年5月19日に尾張(おわり)の桶狭間一帯でおこなわ
れた「今川義元」と「織田信長」の合戦のことです。諸説はありますが、今
川軍は、約2万、織田軍は、3千前後と圧倒的な兵力差があったのにもかか
わらず、織田軍が勝利し、日本史史上でも、有数の劇的な戦いであり、信長
が、メジャーデビューを果たした戦いといえるでしょう。

当時、今川義元は、駿河(するが)・遠江(とおとうみ)を本拠に三河(みかわ)
を領国化した東海の大大名だったのに対し、信長は、ようやく尾張をほぼ統
一したばかりの新興大名でした。義元の侵攻に対し、その力関係から籠城説
を唱える重臣もいましたが、信長はそれをしりぞけ、わずかな手兵をひきい
て清洲城を出発、今川軍休止の情報を知り、奇襲戦を決断し、いっきに桶狭
間の義元本陣を急襲して、義元を討ち取りました。

信長の勝因は、今川方が油断し兵力を分散していたことや、直前にはげしい
風雨があって、奇襲に気づかなかったことなどがあげられますが、やはり、
的確な情報把握と機敏な判断によるものが大きいといえるでしょう。

この戦い以後、今川氏の勢力はおとろえ、信長は、今川氏の支配から脱して
独立した「徳川家康」と同盟して、天下統一への道をあゆみはじめることに
なります。この戦いの勝敗が日本史を大きく変えたといっても過言ではあり
ません。


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=第190回= 姉川の戦い(あねがわのたたかい)<室町時代・1570年>

姉川の戦いとは、1570年6月28日、近江国「姉川」でおこなわれた「織田
信長・徳川家康」連合軍と「浅井長政・朝倉義景」連合軍の合戦のことで
す。

信長の上洛命令に従わなかった越前の朝倉氏を攻めたとき、信長の妹婿の
「浅井長政」は朝倉氏との友好関係を重視して、同盟をむすんでいた信長
に反旗をひるがえしました。これに怒った信長は家康の援軍をもとめ、浅
井氏を攻撃。浅井氏も朝倉氏の援軍をもとめ、姉川をはさんで激突したの
です。

戦いは、はじめ、浅井・朝倉側が優勢でしたが、徳川軍の善戦によって盛
り返し、結果的には、織田・徳川連合軍の大勝利となりました。この敗戦
で、両氏の勢力はおとろえ、3年後、信長に滅ぼされることになります。


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