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=第191回= 長篠の戦い(ながしののたたかい)<室町時代・1575年>

長篠の戦いとは、1575年5月21日、三河の設楽原(したらがはら)でおこなわ
れた「織田信長・徳川家康」連合軍と「武田勝頼」軍の戦いのことです。
織田側の『鉄砲隊』が、めざましく活躍したことでも有名です。

戦いは、織田・徳川の連合軍が、設楽原へと進出。「馬防柵」を設け「鉄砲
3000挺」を配備しました。それに対し、武田軍は、無敵といわれた騎馬隊に
よる波状攻撃を繰り返しましたが、馬防柵にはばまれて敵陣に突入できず、
そこへ鉄砲隊の一斉射撃をあび、壊滅的な打撃をうけました。

この戦いで、武田方は信玄以来の有力部将をほとんど失い、勝頼も敗走し、
織田・徳川・武田3氏の勢力関係は一変しました。また、この戦いを機に戦
闘の形態も、騎馬による個人戦から鉄砲隊を組織した集団戦法へと移行して
いくことになります。


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=第192回= 安土城(あづちじょう)<安土桃山時代>

安土城とは「織田信長」が、琵琶湖の湖畔に築いた、はじめて5層7重の
本格的な天主閣をもつ城郭です。長篠の戦いの後、1576年に築城を開始し、
主要部分は、1579年に完成しました。

信長はこの城の着工直後、織田家の家督を長男の「信忠」ゆずって安土へ
移り、以後、天下統一の本拠としました。しかし、1582年に「本能寺の変」
が起こり、信長が倒れたため、城は、一時、明智光秀に接収されることに
なります。そして、秀吉と光秀の戦いである「山崎の合戦」の混乱により
焼失しました。


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=第193回= 楽市・楽座(らくいち・らくざ)

楽市・楽座とは、戦国時代に「戦国大名」が、領国内の経済と城下町の繁栄
を目的として採用した政策で、市の閉鎖性や特権的な市座を廃し、商品取引
の円滑化を図りました。特に織田信長の「安土城下」のものが有名です。

中世の荘園制下では、商人や職人たちは、特権的な同業者組合である「座」
を結成して、商品の生産や流通に独占的な権利を持っていました。しかし、
楽市・楽座は、この「座」の存在を否定し、商人の往来を活発にするため、
種々の保護を与え自由に商売できるようにしました。戦国大名や織豊政権は、
こうして楽市場を支配下におき、それを利用して経済の繁栄をめざしたもの
と思われます。


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=第194回= 本能寺の変(ほんのうじのへん)<1582年>

本能寺の変とは、1582年(天正10年)6月2日「明智光秀」が京都の本能寺
で「織田信長」を襲撃して自殺させたとされている事件です。しかし、謎
が多く、戦国最大の謎として、多岐にわたる説があり、現在も解明できて
いません。

ですから、ここでは、ごく一般的に言われている内容を記します。

当時、備中高松城で毛利氏の大軍と対陣していた「羽柴秀吉」の援軍要請
を受けた信長は、光秀に出陣を命じ、みずからも高松へ向かうため安土を
たち、京都の「本能寺」に宿泊しました。光秀は、軍勢を整え、6月1日
の夜出陣しましたが、途中、家臣に本意を告げ、軍を京都へ向けて、2日
の未明に本能寺を襲撃しました。

そのころ、信長の有力部将たちはいずれも畿内をはなれており、信長の周
辺にはわずかに小姓衆らの近習だけでほとんど無防備な状態で、信長は、
森蘭丸らと防戦したものの火中で自殺することになったのです。さらに、
妙覚寺にいた長男の「信忠」もの二条御所に移り光秀と戦いましたが、結
局、自殺。この事件により、織田家は衰退し、以後、明智光秀を倒した、
秀吉により、天下統一への道が引き継がれることになったのです。


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=第195回= 山崎の戦い(やまざきのたたかい)<1582年>

山崎の戦いとは、本能寺の変で織田信長が倒れた後、山城国山崎でおこな
われた「羽柴秀吉」と「明智光秀」との合戦のことです。

当時、備中高松城の水攻めにあたっていた秀吉は、本能寺の変を知るとた
だちに毛利氏と講和し、驚異的な速さで大軍を摂津富田へ戻しました。そ
れが、本能寺の変からわずか10日後のことだったので、この移動は「中国
大返し」と呼ばれています。

また、織田信長の命で四国へ向かっていた信長の三男「信孝」の軍勢も秀
吉と合流し、「高山右近」「細川幽斎」「筒井順慶」らも秀吉側につきま
した。それに対して、明智光秀側は、応援する武将も少なく、半分以下の
軍勢を山崎に集め、秀吉らを迎え撃ちましたが敗れ、近江へ敗走する途中
光秀は、土民に襲われ殺されました。

この戦いに勝利した秀吉は、織田信長の後継者争いにおける発言力が、飛
躍的に高まり、天下人への道を歩くことになるのです。


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=第196回= 賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)<1582年>

賤ヶ岳の戦いとは「羽柴秀吉」が、近江の賤ヶ岳付近で「柴田勝家」を破
った戦いのことです。

本能寺の変で信長が倒れた後、山崎の戦いで明智光秀を倒した「羽柴秀吉」
は、その後行われた「清洲会議」で織田信忠の子「三法師」を後継者とし
て推しました。それに対し、織田家の筆頭家老「柴田勝家」は、信長の三
男「織田(神戸)信孝」を後継者と考えていたので、二人は激しく対立する
ようになり、ついに武力衝突することになったのです。

戦いは、加藤清正、福島正則ら賤ヶ岳7本槍と呼ばれた武将の活躍もあり、
秀吉の勝利に終わり、敗れた勝家は、越前北庄で、信長の妹で妻のお市と
ともに自殺しました。この戦いの勝利で、ますます秀吉は、信長の後継者
の道を固め、天下人へ近づくことになるのです。


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=第197回= 小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)<1584年>

小牧・長久手の戦いとは、1584年、尾張の小牧・長久手のあたりでおこった
「羽柴秀吉」と「徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)」連合軍との合戦のこ
とで、秀吉と家康が、唯一、直接対決した戦いとして有名です。

信長の死後、秀吉が勢力をのばし、信長の2男「信雄」と対立していきまし
た。身の危険を感じた信雄は、織田家の盟友「家康」と連合して秀吉に対抗
したのです。

戦いは、相手の動きをうかがったまま睨み合いが続き、対峙して8ヶ月、主
力をぶつけ合う戦闘は、行なわれませんでした。戦局打開のため、秀吉軍の
三好秀次・池田恒興・森長可は、密かに本隊を抜け出て、家康が留守の三河
を奇襲しようと出兵しましたが、これを察知した家康は、長久手で待ち受け
秀吉軍を撃破しました。

対陣が長期におよび、大苦戦を強いられた秀吉でしたが、信雄を懐柔する策
に出て、信雄と「単独講和」を結ぶことを試み、成功しました。これにより、
家康は、秀吉と戦う大義名分を失い、岡崎城に戻ることになります。そして、
のちに秀吉と講和しました。

この戦いで、秀吉、家康、双方が実力を認め合うことになり、秀吉は、天下
人への道を一歩進め、家康も、政治的な地位を固めることになるのです。


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=第198回= 小田原攻め(おだわらぜめ)<1590年>

小田原攻めとは「豊臣秀吉」が小田原の「後北条氏」を滅ぼした合戦のこと
です。この戦いには、東北の雄「伊達政宗」も参陣し、秀吉に臣従したため、
全国統一が完成しました。

四国・九州を平定した秀吉は、関東の「北条氏政・氏直」父子に、上洛して
服属するよう要求していましたが、北条氏は、これをたびたび拒否していた
ため、1589年末、秀吉は、小田原攻めを発令しました。

北条氏は、小田原城での籠城する作戦を採用しましたが、秀吉は、徳川家康
をはじめ、織田信雄、上杉景勝、前田利家など諸大名の軍勢を集め、圧倒的
な兵力と物量で小田原城を陸海から包囲しました。そして、関東各地の支城
を片っ端から攻め落としていったのです。

小田原城に孤立した北条氏は、1590年7月、ついに城を開き、降伏しました。
氏政は自殺し、氏直は紀伊高野山に追放されました。この戦いで 100年以上
続いた戦国時代に終止符が打たれることになったのです。


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=第199回= 検地(けんち)

検地とは、大名が領国内の土地や農民に対する支配権を確立するために実
施した「土地の調査」のことです。

戦国大名や「織田信長」は、土地を給されている武士や寺社・村落に、田
畑の面積や収量、作人などの明細を報告させました。このような方式は、
「指出検地」と呼ばれ、後に「豊臣秀吉」が行った「太閤検地」のように、
統一した基準で直接調査したものとはとは区別されます。


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=第200回= 太閤検地(たいこうけんち)<安土桃山時代>

太閤検地とは、「豊臣秀吉」が全国的に「統一基準」でおこなった検地の
ことです。秀吉は、征服した土地に対して、次々に検地を行い、統一が進
むにつれ、全国に拡大していくことになります。実施は、実務派の家臣で
ある「石田三成」「浅野長政」「増田長盛」らを中心に行われました。

これにより、複雑な荘園制での土地制度が、整理、一新され、領主と農民
の関係は田畑ごとに一領主一農民となり、荘園制の時代は完全に終わるこ
とになります。また、検地帳は、生産高を基調とした「石高」で統一され、
「石高制」が確立しました。

この検地では、土地面積の表示方法も、それまでの、1反を360歩とする方
式から、300歩を1反、10反を1町とする新制が採用するとともに、枡の容
量も「京枡」に統一し、村ごとに田畑・屋敷地の面積や等級を調査して石高
を定めました。


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