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=第201回= 刀狩(かたながり)<安土桃山時代・1588年>

刀狩とは、「豊臣秀吉」が、農民に対し、所有する武器や武具を没収して、
武装することを禁止したの政策のことです。これにより「兵農分離」が著
しく進むことになりました。

それまでは、農民が武器を所有することは普通のことであり、戦国時代の
多くの農民は、合戦に参加したり、土一揆や一向一揆などでも、武器をも
って戦いました。

しかし、織豊政権の時代になって、常備軍の編成が進み、農民兵は不要な
存在となってきたため、武士の支配を安定させるためにも農民から武器を
取り上げることが必要になったのです。

そこで、秀吉は、1588年、全国に3カ条の刀狩令を出して、農民の武器所
有を全面的に禁止しました。本来の目的は、「一揆の防止」ですが、没収
した武器は、京都東山に建設する大仏殿の釘やかすがいに使用するという
理由で行いました。つまり、武器を仏へ寄進するという形を取ることによ
り、実現したわけです。以後、農民は年貢負担者として規定され、武士と
庶民の身分が分離し、固定化することになるのです。


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=第202回= 豊臣秀吉(とよとみひでよし)<1536〜1598年>

豊臣秀吉は、信長の後継者として「天下統一」をはたした武将です。もち
ろん、名前を知らない人はいないでしょう。

秀吉は、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市)の貧しい足軽の子に生まれ、
幼名を「日吉丸」といい、後に「木下藤吉郎」「羽柴秀吉」を名乗りまし
た。織田信長の草履取りから、才覚と機敏な行動によってとりたてられ出
世したと伝えられていますが、確かなことはわかっていません。

その後、信長の下で頭角をあらわし、軍団の実力者となり、信長が本能寺
の変で倒れた後、明智光秀や柴田勝家などを倒すことにより、後継者の地
位を得ました。そして、「太閤検地」や「刀狩」などの政策により、兵農
分離をすすめ、小田原攻めで北条氏を滅ぼし、伊達政宗を服従させて天下
統一を果たしたのです。その後、朝鮮に出兵を企てましたが、途中で亡く
なりました。

【秀吉関連年表】
・1536年 尾張国に生まれる
・1554年 織田信長に仕える
・1573年 長浜城主になる
・1582年 本能寺の変が起きる
・1582年 山崎の戦い(明智光秀を破る)
     清洲会議(後継者争いの主導権を握る)
     賤ヶ岳の戦い(柴田勝家を破る)
     太閤検地をはじめる
・1583年 大坂城を築く
・1584年 小牧・長久手の戦い(織田信雄・徳川家康連合軍と戦う)
・1585年 関白になる
・1586年 太政大臣になり豊臣の姓を賜る
・1588年 刀狩を行う
・1590年 小田原を攻め、天下統一を果たす
・1592年 朝鮮出兵(文禄の役)
・1597年 再び朝鮮出兵(慶長の役)
・1598年 亡くなる


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=第203回= 五大老(ごたいろう)<安土桃山時代>

五大老とは、「豊臣秀吉」が定めた職制の一つで、豊臣政権の最高執政機
関のことです。任命されたのは、「徳川家康」「前田利家」「毛利輝元」
「宇喜多秀家」「小早川隆景」の5人で、隆景の死後は「上杉景勝」が務
めました。任務は、五奉行の顧問役で、政務の中心でした。

この役職が正式に制度化されたのは、秀吉の死の直前で、まだ幼かった秀
吉の子「秀頼」を補佐する態勢を作り、自分の死後の豊臣家の安泰をはか
ろうとしたものと思われます。

五大老の中でも、「徳川家康」と「前田利家」が上位に位置づけられ、秀
吉の遺言で、五大老は五奉行とあわせた十人衆として、合議で政治を行う
ことが定められました。

しかし、秀吉の死の翌年に、前田利家も没したため、事実上家康が政権を
にぎるようになり、さらに「関ヶ原の戦い」で毛利、宇喜多、上杉の3氏
が敗れたため、家康の覇権が確立し、この合議制は、崩壊することになっ
たのです。


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=第204回= 五奉行(ごぶぎょう)<安土桃山時代>

五奉行とは、「豊臣秀吉」が定めた職制の一つで、豊臣政権の最高実務機
関のことで、「前田玄以」「浅野長政」「増田長盛」「石田三成」「長束
正家」の5人の奉行が任命さました。そして、五大老の指揮・監督のもと、
合議制で行政の実務を処理したのです。

担当は、前田玄以が、公家や寺社の管轄、長束正家は、財政関係、浅野長
政・石田三成・増田長盛の3名は、一般行政と司法です。大事な案件は、
5人が協力して行い、特に豊臣氏の直轄領については「秀頼」が成人する
まで、5人が連帯責任を負いました。

しかし、秀吉が死に、五大老の上位だった前田利家も死去すると、浅野と
他の4奉行が分裂。また、石田三成が失脚し、浅野も閉居・謹慎すること
となり、行政の実権は、家康のものとなります。そして、「関ヶ原の戦い」
で、残った3奉行も敗北して、五奉行制は崩壊したのです。


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=第205回= 文禄の役(ぶんろくのえき)<安土桃山時代>

文禄の役とは、「豊臣秀吉」が2度にわたっておこした「朝鮮出兵」の1回
目を言います。朝鮮では当時の干支から「壬辰倭乱(じんしんわらん)」と呼
んでいます。

全国統一をなしとげた秀吉は、次に領土拡張をもとめて中国の「明」への侵
攻を計画し、朝鮮にその案内を要求しました。しかし、朝鮮側に拒否された
ため、1592年、15万余りの軍送ったのです。

当時の日本軍は、戦国時代を戦い抜いてきた歴戦の大名たちの軍隊でしたの
で、はじめのうちは勝利を重ね、明の国境近くまで侵攻しました。しかし、
明の援軍が参戦し、戦局はこう着状態になり、「李舜臣(りしゅんしん)」率
いる朝鮮水軍によって補給路を攪乱され、しだいに不利となっていきました。

そして、1593年、明と講和をはかることになります。


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=第206回= 慶長の役(けいちょうのえき)<安土桃山時代>

慶長の役とは、「豊臣秀吉」が2度にわたっておこした「朝鮮出兵」の2回
目を言います。朝鮮では、当時の干支から「丁酉倭乱(ていゆうわらん)」と
呼んでいます。 

1回目の朝鮮出兵である「文禄の役」では、1593年、明と講和をはかること
になりましたが、交渉の裏で、日本軍の「小西行長」と明軍との間に画策が
あり、秀吉は、状況を正確に把握していませんでした。そのため、秀吉の意
図とかけはなれたものになり、怒った秀吉は、1597年に、再出兵を命じたの
です。しかし、朝鮮軍と明軍の反撃を受け、日本軍は前回以上の苦戦を強い
られ、翌年8月の秀吉の死を機会に全軍撤退することになりました。

この戦争での日本の侵略は、朝鮮に莫大な被害を与えただけでなく、多くの
朝鮮人民を捕虜として日本に連行しました。特に、製陶技術者を連行し、唐
津焼や薩摩焼などの陶磁器の技術は、このときにつたえられたものと言われ
ています。

この2度にわたる朝鮮出兵の失敗が、豊臣政権の崩壊をはやめたと言っても
過言ではないでしょう。


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=第207回= 桃山文化(ももやまぶんか)<安土桃山時代>

桃山文化とは、「織田信長」「豊臣秀吉」の政権期を中心とした文化のこと
です。戦国期の動乱をへて天下統一をすすめる「新興」の戦国大名や都市豪
商層が担い手だったことから、「豪華」で「雄大」な躍動感にあふれた文化
が花開きました。

代表的なものは、豪華な「城郭建築」で、「安土城」「大坂城」「聚楽第」
「伏見城」など、天守閣をもつ壮大華麗な城郭が建設されましれた。また、
住宅は、東山文化の時代に発達した「書院造」が大名・豪商の邸宅にとりい
れられ、それはやがて日本住宅の基本となっていきます。

桃山文化の主なものをあげておきます。

 ・建築:大坂城,姫路城,聚楽第など。

 ・障壁画:狩野永徳,狩野山楽など。

 ・茶の湯:千利休→茶道として大成。

 ・歌舞伎踊り:出雲の阿国(いずものおくに)


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=第208回= 千利休(せんのりきゅう)<1522〜1591年>

千利休は、安土桃山時代の「茶人」で、「茶道」の大成者です。堺の豪商
の出身で千宗易(せんそうえき)と号し、「織田信長」や「豊臣秀吉」に仕
えました。特に、秀吉には重用され、単なる茶人としてではなく、側近と
して政治にも深くかかわりました。

しかし、1589年、秀吉の怒りに触れ、自刃を命じられることになります。
罪状は、大徳寺山門を修築した際、そこに自分の木像を安置したことや、
不当な値段で茶器を売買したことなどとされていますが、実際は、豊臣政
権内部の権力闘争に巻き込まれたものと考えられます。

茶人としての利休は、「妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)」に代表され
る草庵の茶室を考案し、茶会の形式や作法、道具にいたるまで独創的な工
夫をこらし、禅の精神も取り入れ「侘茶(わびちゃ)」を大成しました。ち
なみに妙喜庵は、臨済宗の禅院です。


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=第209回= 関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)<1600年>

関ヶ原の戦いとは「天下分け目の関ケ原」と称されるように、全国の大名
のほとんどが「徳川家康」ひきいる東軍と「石田三成」を中心とする西軍
にに分かれて戦った合戦のことです。1600年9月15日、双方の主力が、美
濃国「関ヶ原」で激突し、東軍が勝利を収めました。

豊臣秀吉の死後、豊臣家の内部では、三成ら「文吏派」と、加藤清正や福
島正則らの「武将派」が激しく対立していました。そして、武将派は、家
康、三成は、前田利家を頼って、バランスを取っていましたが、1599年、
前田利家の死にともない、清正・正則らが三成を襲撃し、三成は、家康の
仲介もあって居城へひきこもる結果となるのです。

この事件を機に、家康は、伏見城本丸にはいり、ほかの五大老を次々と帰
国させ、五大老の権限をひとりで振るうことになります。

その後、会津に帰国した五大老のひとり「上杉景勝」は、城の修築や築造、
領内の道路網の修理などをしたため、戦争準備ではないかという疑いをも
たれました。家康は、景勝に弁明のため上洛するよう促しましたが、拒ま
れたため、諸大名をひきいて会津へ向かいました。これを見た三成は、つ
いに挙兵することになりますが、この会津遠征は、三成に挙兵させるため
の誘導だったのではないかともいわれています。

三成は、浅野長政をのぞく4人の奉行で協議し、五大老の「毛利輝元」を
盟主にすえて、これまでの家康の行為を非難する檄文を発し挙兵しました。
西軍は、伏見城を攻略し、伊勢へ侵攻。また、丹後国田辺城や近江国大津
城を攻撃して、畿内をほぼ勢力下に置き、美濃・尾張へ進出しました。

下野小山で、三成の挙兵を聞いた家康は、小山に徳川配下の兵力をわずか
に残し、伊達政宗ら東北勢に上杉氏をまかせ、諸大名中心の主力を東海道
沿いに、子の秀忠や譜代を中心とした軍勢は中山道沿いに西へ向かわせま
した。

そして、1600年9月15日午前8時ごろ、関ケ原での決戦が始まります。戦況
は、一進一退を繰り返しましたが、昼すぎに松尾山にいた「小早川秀秋」
の大軍が東軍へ寝返ったのを機に、一気に東軍が有利になり、午後2時す
ぎには東軍の勝利が決まりました。

勝利した家康は、大坂城に入り、首謀者として、石田三成や小西行長らの
首を京都六条河原にさらしました。そして、西軍の毛利輝元や上杉景勝ら
の所領を大きく減らし、そのほかの多くの大名を改易し、東軍の功労者に
所領を与え、事実上の天下統一者として、豊臣氏による大名配置を塗り替
えたのです。


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=第210回= 徳川家康(とくがわいえやす)<1542〜1616年>

徳川家康は、言うまでもなく江戸幕府開いた武将です。豊臣秀吉によって
いったんは、全国統一が完成されましたが、関ケ原の戦いなどを経て、再
統一し、260年もの長き江戸時代の基礎を作りました。

家康は、三河国岡崎城主松平広忠の子として生まれ、幼名を「竹千代」と
いいました。6歳で今川氏へ人質に出されましが、途中で織田方にとらえ
られ、2年後に人質交換で今川氏に移されるなど、19歳まで人質生活を送
ります。

しかし、1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が死んだのを機に自立し、翌
年、織田信長と同盟関係をむすび、1563年には、家臣団を二分した三河一
向一揆を乗り切り三河の統一をはたしました。

そして、「松平」から「徳川」に改姓。その後、「三方ヶ原の戦い」での
大敗や、妻の「築山殿(つきやまどの)」と長男の「信康」を死においやる
などの犠牲をはらいながらも、信長との同盟関係をたもって東海地方に大
勢力を築いていきます。

1582年の本能寺の変後、天下統一をすすめる羽柴秀吉と敵対するようにな
リましたが、「小牧・長久手の戦い」で和睦。1590年には、秀吉により北
条氏の旧領である関東へ移封され、江戸を本拠地とすることになります。
そして、豊臣政権下で最大の所領をもつ有力大名として独自の位置を維持
しました。

秀吉の死後は五大老の筆頭として政務をとりしきり、「関ヶ原の戦い」に
勝利し、1603年には、「征夷大将軍」に任じられ、名実ともに全国の武家
に君臨する権限を得て江戸幕府を開くことになったのです。


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