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=第211回= 幕藩体制(ばくはんたいせい)<江戸時代>

幕藩体制とは、江戸時代の「社会体制」のことで、幕府と諸藩が本百姓を
基盤にして構成した「封建的支配体制」をいいます。強力な領主権を持つ
将軍と大名が、土地と人民を統治しました。

この体制は、武士と庶民の身分差別を明確にし、厳しい統制の上に成り立
っていました。そして、原則として、すべての土地の価値を米の生産力に
おきかえる「石高制」を採用し、全国的な流通による諸年貢の換金、領主
経済の維持が保証されました。


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=第212回= 老中(ろうじゅう)<江戸時代>

老中とは、江戸幕府に置かれた、国政全体を総括する役職で、常置の最高
職です。老中の上に、幕府最高職である「大老」が置かれる場合もありま
したが、大老は、非常のときのみに置かれました。

定員は、通常4〜5人で、原則として、2万5千石以上の「譜代大名」が
務め、月番制で、大目付・町奉行・遠国奉行らの指揮監督や、朝廷、公家、
門跡および大名、外国に関する事柄、大規模な土木工事や知行割りなどの
政務をこなしました。


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=第213回= 若年寄(わかどしより)<江戸時代>

若年寄とは、「旗本」や「御家人」を監督する江戸幕府の職名です。熟達
した年寄、つまり「老中」が全国の支配を担当したのに対して、将軍家内
部の諸事を統括しました。定員は、3〜5名で、「譜代大名」から選ばれ、
老中同様、月番制で任務に当たりました。

この役職は、3代将軍「徳川家光」が「松平信綱」ら側近6人が幕政に参
加する足場をかためるため、まず日常の雑務を担当させ、後に、老中土井
利勝や酒井忠勝らとの間で職務を分けたところから始まります。

そして、彼らは当時六人衆とよばれ、老中につぐ重職とされましたが、う
ち4人はまもなく老中へ昇格したため、若年寄は存在意義を失い、いった
ん廃止されます。その後、復活し、あらためて管轄する役職もきめられま
したが、しだいに中枢へ昇進するために経験する職の1つとなっていきま
した。


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=第214回= 大目付(おおめつけ)<江戸時代>

大目付とは、老中の下で「大名」や、老中が管轄する「幕府役人」を監督
する江戸幕府の役職です。「旗本」より選任され、4〜5名が任にあたり
ました。

この役職は、1632年に「柳生宗矩」らが任命された「総目付」にはじまり
ます。このころは、まだ幕府も安定していなかったので、将軍の力を強化
する目的で置かれていました。そのため、総目付は、大名だけでなく、旗
本や全幕府役人の行状や勤務状況などを将軍へ直接伝える役目を与えられ
ていたのです。

大目付も、基本的には、この権限をうけつぎましたが、幕府政治が安定す
るとともに、老中から大名への通達事務全般の取り扱いや江戸城内の大名
の座席や作法などを監督することがおもな職務となりました。また、「宗
門改め」に関与し、勘定奉行とともに五街道宿場の業務などをとりしきる
「道中奉行」を兼任しました。


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=第215回= 寺社奉行(じしゃぶぎょう)<江戸時代>

寺社奉行とは、江戸時代に、町奉行、勘定奉行とともに「三奉行」と呼ば
れた幕府の重職の一つです。三奉行の中では最高の格式を持ち、将軍直属
で、譜代大名から選任されました。定員は、4〜5名で、全国の寺社と寺
社領を管轄する役目を務めました。

鎌倉幕府や室町幕府でも、この役職はありましたが、こちらは、主に、寺
社関係の訴訟を処理するもので、江戸時代のものとは異なります。また、
幕府開設当初は、家康の信任の厚かった「以心崇伝(いしんすうでん)」と
京都所司代の「板倉勝重」に寺社関係の政務を任されていました。しかし、
後に、職制の整備によって寺社奉行職が設置されたのです。

彼らは、江戸市中の寺社については、各人が担当区域をわけて監察し、江
戸市中を除く門前居住者、各種宗教者などの訴訟は、1ヶ月交替の「月番」
が自らの屋敷を役宅にして扱いました。また、問題が重大だったり、幕府
領や藩領などほかの支配地にもかかわる場合は、評定所で採決しました。


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=第216回= 町奉行(まちぶぎょう)<江戸時代>

町奉行とは、江戸時代に、寺社奉行、勘定奉行とともに「三奉行」と呼ば
れた役職の一つです。「老中」が支配する奉行職で、旗本より選任されま
した。武家地や寺社地には権限がおよびませんでしたが、町方に関する行
政・司法・警察を管轄し、配下には「与力」や「同心」が所属しました。

員数は2名で「北町奉行所」と「南町奉行所」が、1ヶ月交替の「月番」
で務めましたが、1人、または、3人だった時期もありました。奉行所の
位置も変遷しましたが、19世紀になって「南町奉行所」が数寄屋橋、「北
町奉行所」が呉服橋に定着するようになりました。


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=第217回= 勘定奉行(かんじょうぶぎょう)<江戸時代>

勘定奉行とは、主に「財政」をつかさどる江戸幕府の役職で、寺社奉行、
町奉行とともに「三奉行」と呼ばれた重職の一つです。老中によって支配
される役職で「旗本」が就任しました。定員は、4名で、幕府領の租税の
徴収や訴訟などを担当しました。

奉行のもとで実際の業務をこなした勘定所は、1721年に、関八州の公私領
や八州以外の幕僚の訴訟を担当する「公事方(くじかた)」と租税の出納や
財政を担当する「勝手方(かってかた)」とに分けられ、翌年、奉行も2人
ずつ公事方と勝手方にわかれ、1年交代で務めるように定められました。


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=第218回= 京都所司代(きょうとしょしだい)

京都所司代とは、室町幕府の所司代に由来し、「織豊政権」や「江戸幕府」
が、京都においた出先機関の長官職のことです。京都の守衛や朝廷の監察、
公家や社寺に関係する政務などを行いました。老中につぐ重職とされ、大
坂城代・寺社奉行・奏者番を務めた「譜代大名」が就任しました。

信長と秀吉は、朝廷対策や寺社統制および京都の治安維持のため、この職
を置きましたが、家康も関ヶ原の戦後すぐに、おもに治安維持のためこの
体制を引き継ぎました。江戸幕府の開幕後には、「板倉勝重」「重宗」父
子が就任し、施政の基礎をつくりあげました。


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=第219回= 旗本(はたもと)<江戸時代>

旗本とは、もともとは、戦場で主将の旗がたつ本陣を意味し、転じて、本
陣で主将を護衛する「直属軍団」を指すようになった言葉です。

江戸時代では、徳川将軍家の直属家臣団である「直参(じきさん)」の中で、
「1万石以下」で、将軍に「御目見(おめみえ)」できる者をいいます。同
じ直参でも、御目見ができない者は「御家人」と呼ばれました。

旗本の数は、享保年間で、約5000人でしたが、旗本、御家人とその家来を
合わせて、俗に「旗本八万騎」と呼ばれました。また、旗本の給与は、領
地を与えられる「知行取」と、米を支給される「蔵米取」があり、知行地
は、江戸近辺や東海地方に多く、合計約 300万石ほどありました。


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=第220回= 江戸時代の大名(えどじだいのだいみょう)

江戸時代の大名は、将軍直属の武家で、石高「1万石」以上の所領を認め
られていた者をいいます。徳川将軍家との関係によって、「親藩」「譜代」
「外様」に分類されました。また、大名の所領は、つねに改易・転封の対
象となっており、幕府の統制策の根幹の一つでもありました。

このうち「親藩大名」は、徳川家の「直系一門」からとりたてられた大名
のことをいい、御三家、御三卿、越前、会津松平家などをはじめとし、こ
れに準ずる者を含め、幕末には、約20家が存在しました。

また、「譜代大名」は、原則として「関ヶ原の戦い以前の家臣」が大名に
なったもので、三河以来の徳川家の家臣や、武田、北条の遺臣で家康に仕
えたものも含まれます。石高は少なくとも、「幕府の要職」につくことが
できました。最高は、彦根藩「井伊氏」の35万石で、幕末には、約 150家
が存在しました。

「外様大名」は、「関ケ原の戦い以降に、徳川家に服属した大名」を指し
ます。最大は、加賀藩「前田氏」の102万石で、幕末には、約100家存在し
ました。

尚、「大名の家臣で1万石以上」の者も、数多く存在しましたが、彼らは、
陪臣と呼ばれ、大名扱いにはなりません。


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