☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第221回= 武家諸法度(ぶけしょはっと)<江戸時代>

武家諸法度とは、江戸幕府が「大名を統制」するために制定した基本法令
のことです。「大坂の陣」終了後の1615年にはじめて出され、以後、何度
か改訂されました。

まず、2代将軍「秀忠」のときに、徳川家康が「以心崇伝」らに命じて起
草させました。これを「元和令」といい、13カ条で、各条には注釈がつけ
られました。内容的には、「文武弓馬の道をたしなむこと」「法度にそむ
いた者をかくまうことの禁止」「謀反人や殺害をおかした者を追放」「幕
府の許可をえない婚姻の禁止」などが定められました。また、この法令の
直前に定められた「一国一城令」と関連して「居城の補修はかならず幕府
に報告すること」「新規の築城は禁止すること」も明記されました。

その後、1635年に、3代将軍「家光」の時代に大改訂が、行われました。
起草は「林羅山」で「寛永令」と呼びます。こちらは、19カ条で、大きな
改訂点として「参勤交代」が明記されました。

以後、将軍が代わるたびに何回か改訂が行われましたが、1717年、8代将
軍「吉宗」が、代替わりの公布にあたってこれを廃止し、5代将軍「綱吉」
による法度を採用し、以後、代々それを用いることになりました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第222回= 参勤交代(さんきんこうたい)<江戸時代>

参勤交代とは、江戸幕府の「大名統制策」の一つです。原則として、江戸
と領国に1年交代でいることが義務づけられ、妻子は、江戸住みを強制さ
れました。

1635年の「武家諸法度」の大改定でが明文化され、諸大名は、毎年4月に
江戸と領国を行き来することになりましたが、これにより、江戸藩邸の経
費や大名行列による経費などがかさみ、諸大名の財政窮乏の原因になりま
す。一方、江戸や宿場町などの繁栄をもたらしました。

尚、例外として水戸家は、参勤交代はせず、江戸に定住しました。また、
遠方の対馬の宗氏は3年に1回、蝦夷地の松前氏は5年に1回とされまし
た。また、1862年の幕政改革で大名の在府期間が大幅に緩和され、妻子の
領国居住も自由となりました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第223回= 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

禁中並公家諸法度とは、江戸幕府が、「天皇や公家」の行動を規定した法令
のことです。1615年、「以心崇伝」によって起草されました。それまでも、
徳川家康は、幕府の権力を安定させるために天皇の権限を制限してきました
が、その仕上げとしての意味を持ちます。

この法令は、全17カ条からなり、第1条で天皇の務めは諸芸能にあり、中で
も学問が第一であるとしました。また、後条で、太政大臣、左右大臣、親王
ほかの席次や、摂政・関白の任免、公家の昇進、改元のしかたなども定めて
います。また、僧の位や勅許紫衣の条件、関白や武家伝奏からの申し渡しに
違反した者は流罪と明記するなど、朝廷の行動をいちじるしく規制するもの
でした。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第224回= 紫衣事件(しえじけん)<江戸時代・1627年>

紫衣事件とは、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が、幕府に計らず与えた
「紫衣」を幕府が取り上げた事件のことです。「紫衣」とは、高位・高徳
の僧に着用が許される紫色の法衣のことで、本来は、朝廷が与えるもので
したが、「禁中並公家諸法度」により、幕府に計らないで与えることがで
きなくなりました。

この事件に反抗した僧「沢庵」は流罪になり、後水尾天皇は、幕府の横暴
に反発する形で、譲位することになりました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第225回= 島原の乱(しまばらのらん)<江戸時代・1637〜38年>

島原の乱とは、九州の島原半島と天草諸島のキリシタン農民が主体となって
おこした一揆のことで「島原・天草一揆」ともいいます。「天草四郎」を盟
主として、3万8000人の農民が「原城」に籠りました。

島原や天草は、キリシタンの中心地だったので、厳しい宗門改めがおこなわ
れていただけでなく、天草領主「寺沢氏」島原領主「松倉氏」は、財政難も
あって高率な年貢の負担を強いていました。年貢負担をしぶればキリシタン
として弾圧されるという悪政に反抗し、ついに一揆が起こったのです。

まず、1637年10月、島原半島南部で一揆がおき、やがて、全藩に広がりまし
た。天草でも、天草四郎の出身地を中心に一揆がおこり、島原勢の応援をえ
て富岡城を襲いました。そして、両一揆勢は合流し、廃城となっていた「原
城」を修復してたてこもりました。

幕府は、「板倉重昌」を派遣し、島原藩のほか近隣3藩に鎮圧を命じました
が、足並みのそろわない攻撃が続き、板倉重昌は戦死しました。そして、次
に派遣された、徳川家光の側近「松平信綱」は、全九州の大名を動員し、12
万人で、原城を厳重に包囲して、一揆勢の食料がつきるのを待ち、1638年2
月に総攻撃をかけ、子供をふくむほぼ全員を殺し、乱を鎮圧したのです。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第226回= 宗門改(しゅうもんあらため)<江戸時代>

宗門改とは、江戸時代に、幕府が、キリシタン禁制にもとづく信者の摘発
のためにはじめた信仰調査のことです。のちに「宗門人別改帳」がつくら
れ、民衆の統制制度・戸籍制度の役割もはたしました。

幕府は、1613年、「禁教令」を出して、キリスト教信者への迫害をはじめ
ましたが、摘発の中心は訴えによるもので、長崎や九州地方では、聖母マ
リアの聖画像などを踏ませる「踏絵」がおこなわました。

特に、島原の乱の後、幕府は「宗門改」の徹底と称し、寺院に証明させる
「寺請」を全国に強制し、諸藩に宗門奉行を置きました。そして、1671年
には幕府領に「宗門人別改帳」を作成にすることが命じられ、各藩にした
がわせることになります。この帳簿は、宗旨の登録だけでなく、一戸の家
族構成、人の移動などについても把握できる資料となりました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第227回= 村方三役(むらかたさんやく)<江戸時代>

村方三役とは、江戸時代に、郡代や代官の指示を受けて村政にあたった
農民の中心的存在である「名主」「組頭」「百姓代」のことを言います。
身分は、百姓でしたが、本百姓、水呑百姓を統轄しました。

「名主(なぬし)」は、村の長を指し、村民の代表として領主や他村との
折衝にあたるとともに、年貢の割り当てや法令の伝達などの責任を負い
ました。「組頭(くみがしら)」は、名主の補佐役で、いくつかの組にわ
けられた村の組ごとの長として選任された者で、1つの村で1名から3
名がなりました。また、「百姓代」は、村民の代表で、名主や組頭を監
視する役目を持ち、年貢の負担割り当てなどに立ち合いました。こちら
も、1つの村で、1名から3名が選ばれましたが、藩によってはおかれ
ないところもあったようです。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第228回= 五人組(ごにんぐみ)<江戸時代>

五人組とは、江戸時代、年貢の納入や治安維持のために、何軒かを1つの
単位として組をつくらせ「連帯責任」を負わせた組織のことです。5軒で
1組とすることが多かったので、五人組と呼ばれました。

寛永年間(1624〜44年)に、幕府直轄領や旗本領を中心に実施され、やがて
大名領にもおよび、全国的に制度化されていきました。当初は、キリシタ
ン禁止にともなう信者を摘発する目的もありましたが、基本的に、小百姓
が「年貢」や「夫役」にたえきれず、他領へにげだすことを防止し「相互
監視」と「連帯責任」で、確実に、それらを徴収するために作られたもの
と思われます。

年貢を完納するためには、平素より耕作を助け合う必要があったので、時
代とともに「相互扶助的」性格を強めていきました。また、新年の「寄合」
で、名主が、五人組の掟書である「五人組帳前書」と読み聞かせ、法令を
周知徹底させる単位だったともいえるでしょう。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第229回= 田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)

田畑永代売買禁止令とは、江戸時代、1643年に、幕府によって出された、
「農民が田畑を売買することを禁止」した法令のことです。禁止の理由は、
豊かな農家は、田畑を買い集め、ますます豊かになるのに対し、貧しい農
家は、売却によって、ますます没落するからということですが、寛永の大
凶作で多くの農民が田畑を売却して流浪したため、年貢を負担する農民層
の解体を防ぐという意味もあったようです。

しかし、売買は禁止されていても、質入れは禁止しなかったため、発令後
も、質地という形で、事実上の売買は行われました。そして、後に、幕府
が、質流れを認めるようになると、禁令は、有名無実のものになりました
が、明治維新後の1872年まで存続しました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第230回= 慶安の御触書(けいあんのおふれがき)<江戸時代>

慶安の御触書とは、江戸幕府が、1649年に公布した「農民」に対する心得
が書かれた触書のことです。全32カ条で、農業経営だけでなく、「農民の
日々の生活態度」にまで、詳細に触れています。

内容は、「法令遵守」「耕作奨励」「衣食住の制限」などですが、例えば、
朝に草をかり、日中に耕作をし、晩に縄をなって俵をつくれと「勤勉」を
説いたり、食料を大切にして粟(あわ)・稗(ひえ)・菜などをつくって米を
多く食べるなとか、衣類は、布・木綿にせよとか、具体的に「節約」を求
めています。そして、それらを守り、年貢さえ納めれば、百姓ほど心易き
ものはないと結んでいます。


★ バックナンバー目次へ ★ ★ TOPのページへ ★ ★ 次へ(231〜240) ★