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=第231回= 由井正雪の乱(ゆいしょうせつのらん)<江戸時代・1651年>

由井正雪の乱とは、軍学者「由井正雪」を首謀者とする浪人たちがくわだて
た「幕府転覆未遂事件」のことで「慶安事件」とか「慶安の変」という場合
もあります。

事件の正式な幕府の記録が残っていないめ、正確なことを知るのは困難です
が、正雪が、自殺するときに残したという遺書によれば、反乱の目的は天下
の政道がみだれて上下を困窮させているため、政治を正そうとしたものだと
いうことです。また、反乱に参加した者たちに浪人が多く、正雪らは、家光
の代までの改易で生じた多くの浪人たちの不満を代表し、浪人問題の解決を
幕府に求めたものとも考えられています。

結局、事件は、複数の者からの密告により、老中に伝えられたため、幕府は、
大規模な鎮圧にのりだしました。そして、由井正雪は、駿府で自殺、中心的
な共謀者の一人「丸橋忠弥」は、江戸で逮捕され、事件は、未遂に終わるこ
とになります。

しかし、乱後は、幕府も、浪人の発生を防ぐ方向に向かうことになります。
また、この事件を題材に書かれた実録本「慶安太平記」は大人気になり、後
に、歌舞伎にも脚色されました。


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=第232回= 明暦の大火(めいれきのたいか)<江戸時代・1657年>

明暦の大火とは、1657年(明暦3年)1月に、江戸でおきた大火災のことで、
別名「振袖火事」といいます。この火災により、多くの大名屋敷や、寺社、
仏閣が焼失しただけでなく、江戸城も類焼し、江戸市街地の約55%が焼け、
死者数が、10万人を超える大惨事となりました。

振袖火事の名は、3人の娘の死に関係する振袖を供養のため焼いたところ、
風にあおられて出火したからといわれていますが、真偽は定かではありま
せん。

火災後に、幕府は、災害対策を実施し、大名や旗本には、参勤交代を緩和
したり、恩賜銀を与えたりしました。また、町人にも16万両相当の銀1万
貫が支給されました。市街地の改造も大いに進むことになり、道幅が広い
「広小路」を設置するなどして、延焼を防ぐ対策も施されました。

尚、焼失した江戸城は、後に再建されましたが、天守閣の再建が実現する
ことはありませんでした。


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=第233回= 元禄文化(げんろくぶんか)<江戸時代>

元禄文化とは、5代将軍「徳川綱吉」の治世の「元禄年間(1688〜1703年)」
に上方(かみがた・大坂、京都)を中心に発達した「町人文化」です。日本
の文化史上はじめて町人階層が担い手となったため、封建的な武家文化に
対し、人間的で華麗な文化が開花しました。

特徴は、人間と社会を現実的、肯定的にとらえる傾向が強い点で、現世を
「浮き世」とする発想は町人ならではのものでした。

◎ 主な作品をあげておきます。

【小説】(作:すべて井原西鶴)

「好色一代男」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」

【脚本】(作:すべて近松門左衛門)

「曽根崎心中」「冥土の飛脚」「心中天網島」「国性爺合戦」

【俳文・句集】(作:いずれも松尾芭蕉)

「笈の小文(おいのこぶみ)」「奥の細道」

【美術】

「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)」(作:尾形光琳)
「見返り美人」(作:菱川師宣)


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=第234回= 側用人(そばようにん)<江戸時代>

側用人とは、江戸時代に、将軍の側近として、将軍の命令や将軍への上申を
老中にとりつぐ役職のことです。将軍の厚い信任を背景に、老中を超える大
きな権勢をふるうこともありました。

はじめてこの職に任命されたのは、5代将軍「徳川綱吉」が、館林藩主時代
の家老だった「牧野成貞」で、その後、就任した「柳沢吉保」は、甲府15万
石を領するなど、大老格の待遇を受けました。

また、6代将軍「家宣」、7代将軍「家継」の時代は、「間部詮房(まなべ
あきふさ)が、10代将軍「家治」のもとでは「田沼意次」が有名です。

側用人は、もともと身分や家柄が低いことが多く、いわゆる「成り上がり者」
として反感を買うこともありましたが、田沼意次のときにはじめて側用人か
ら老中に昇進する道がひらけ、意次は、強大な権限をもって名実ともに幕府
政治の頂点に立つことになります。


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=第235回= 生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)<江戸時代>

生類憐みの令とは、江戸時代、5代将軍「徳川綱吉」が出した、極端な動物
愛護令のことです。発令当時、綱吉は、世継ぎがないことに悩んでいました。
そこで、僧の「隆光」に「将軍は、戌(いぬ)年生まれなので、世継ぎがほし
かったら犬を愛護するとよい」と勧められたのを機に発令が始まったといわ
れています。

法令の対象は、犬だけでなく、猪、鹿などの野獣や野鳥、牛や馬、捨て子な
どでしたが、1687年以降、犬に関して極端化し、95年には、江戸西郊の四谷
や大久保、中野に犬小屋が設置されました。特に、中野の犬小屋の総面積は、
16万坪におよび、10万匹の野犬を収容できるものでした。

この極端な政策によって、綱吉は、「犬公方」と呼ばれましたが、法令は、
綱吉の死後、廃止されました。


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=第236回= 正徳の治(しょうとくのち)<江戸時代>

正徳の治とは、江戸時代、6代将軍「徳川家宣」と7代将軍「家継」2代の
治世下で、「新井白石」が中心となって行った政治をいいます。悪名の高か
った「生類憐みの令」を廃止するなど、5代将軍「綱吉」の政治をあらため、
幕府の権威を再建することに努めました。

具体的には、7代将軍「家継」と皇女の婚姻をまとめ、「閑院宮家(かんい
んのみやけ)」を創設し、朝廷と幕府の関係の安定をはかったり、「朝鮮通
信使」の待遇を簡素化して経費を大幅に節約し、朝鮮国王からの国書の宛名
を「日本国大君(たいくん)殿下」から「日本国王」にあらためさせ、将軍の
地位を明確にしました。

経済政策では、1714年に、質の悪い「元禄小判」をあらため「正徳小判」発
行して、貨幣の質を家康時代の「慶長小判」と同率に戻し、インフレーショ
ンをおさえようとしました。また、長崎貿易では、金銀の流出がおびただし
かったので、「海舶互市新例(かいはくごししんれい)」を発し、金銀の海外
流出を防ぐために貿易額を制限しました。

しかし、これらの政策は、理想主義的で現実にそぐわず、かえって社会の混
乱をまねく結果となり、譜代勢力からの反感を表面化させました。そして、
7代将軍「家継」が死去し、かわって紀州藩主「徳川吉宗」が将軍に就任す
ると、白石らは幕府政治から退けられるようになりました。


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=第237回= 五街道(ごかいどう)<江戸時代>

五街道とは、江戸時代、「江戸日本橋」を起点とした「幹線道路」のことで、
「東海道」「中山道」「日光道中」「奥州道中」「甲州道中」の5つをいい
ます。道筋は、慶長〜元和年間(1596〜1624年)に、ほぼ定められました。

各街道には、「宿(しゅく)」が置かれ、宿泊施設が整えられ、旅客や荷物の
運搬、通信などのために、人馬が常置されました。

各街道について、簡単に記しておきます。

 ・東海道:江戸〜京都間に、品川〜大津の53宿

 ・中山道:江戸〜草津間に、板橋〜守山の67宿(草津で東海道と合流)

 ・甲州道中:江戸〜下諏訪間に、内藤新宿〜上諏訪の44宿(下諏訪で中山
       道と合流)

 ・日光道中:江戸〜日光間に、千住〜鉢石(はついし)の21宿

 ・奥州道中:江戸〜白河間に、27宿(ただし、江戸〜宇都宮までは、日光
       道中と重複)

また、説によって、東海道を大坂までと考えたり、奥州道中を、江戸〜青森
と考えたりすることもあります。


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=第238回= 享保の改革(きょうほうのかいかく)<江戸時代>

享保の改革とは、8代将軍「徳川吉宗」のもとでおこなわれた改革政治のこ
とで、「寛政の改革」「天保の改革」とともに、江戸幕府の三大改革の1つ
です。

17世紀の後半になると、全国的な商品生産の発達と貨幣経済の広がりにより、
物価の上昇と貨幣の混乱をまねき、幕府財政は、完全に行き詰まっていまし
た。こうした時期に、将軍の座についた「吉宗」は、当時、実権を握ってい
た「間部詮房(まなべあきふさ)」や「新井白石」などをしりぞけ、それまで
の側用人政治をやめて、旧来の老中をはじめとする「譜代層」を尊重する姿
勢をとりました。

主な改革の項目は、次のとおりです。詳しくは、次号以降、個々に取り上げ
ます。

 「相対済し令」の発令、「目安箱」の設置、「漢訳洋書の輸入の緩和」
 「上げ米の制」を制定、「株仲間」の公認、「足高の制」の制定
 「公事方御定書」の制定 など


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=第239回= 相対済し令(あいたいすましれい)<江戸時代>

相対済し令とは、「金銭貸借に関する訴訟」は、奉行所では受け付けず「当
事者間」で処理するように命じた法令のことです。激増した訴訟を処理する
ための対応策で、債権者と債務者が話し合って解決するようにに命じ、奉行
所の負担を減らしました。

この法令は、1661年、江戸町人の売掛金訴訟をとりあげないことを江戸市中
に通達したのが最初で、その後もたびたび発令されましたが「徳川吉宗」の
「享保の改革」の一環として、1719年に出されたものが特に有名です。


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=第240回= 目安箱(めやすばこ)<江戸時代>

目安箱とは、1721年に、8代将軍「徳川吉宗」が、民衆の意思を政治に生か
すため、江戸城の評定所前に置いた「投書箱」のことです。

「目安」とは「訴状」のことをいい、庶民から、政治上の有益な意見や不満
などを取り上げるだけでなく、役人の不正などの訴えも受け付けました。

この箱は、常時設置されていたわけではなく、毎月、評定所の式日にあたる
2・11・21日の3日間、午前中だけ設置されました。また、目安状には、本
人の名前・住所を明記しなければなりませんでしたので不当な訴えなどは、
逆に処分の対象となりました。

中身は、徳川吉宗が、自ら開箱し、他見を許しませんでした。そして、その
中から「小石川養生所の設置」や「江戸の防火対策」などの成果が生まれる
ことになったのです。


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