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=第241回= 小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)<江戸時代>

小石川養生所とは、江戸時代、幕府が「小石川薬園」内においた医療施設の
ことです。看病人のいない「極貧の病人」を収容し「無料で」治療を行いま
した。

この養生所は、8代将軍「徳川吉宗」のとき、「目安箱」に入れられた投書
によって作られたことで有名です。投書したのは「小川笙船(おがわしょう
せん)」という町医師で、1722年のことでした。目安箱を設けたことによる
大きな成果の1つと言えるでしょう。

この施設は、町奉行の管轄のもと、与力・同心のほか、医師が交代で詰め、
治療にあたりました。また、1843年からは町医師が交代して詰めるようにな
り、明治元年には、医学所の付属施設となりました。現在は、東京大学付属
小石川植物園になっています。


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=第242回= 上米(あげまい)<江戸時代・1722〜1731年>

上米とは、8代将軍「徳川吉宗」のとき、諸大名に石高1万石につき 100石
ずつ出させた「献上米」のことです。

当時の幕府の財政は、たいへん逼迫しており、旗本や御家人に支給する切米
や扶持米にも不足するほどでした。そこで、1722年、財政窮乏を理由に、大
名に米を献上させたのです。

その代償として、大名は「参勤交代」による江戸在府期間が半分に減らされ
たり、普請の手伝いが中止されたりしました。そして、財政状況が回復した、
1731年には、上米は廃止され、参勤交代も元に戻ることになりました。


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=第243回= 公事方御定書(くじかたおさだめがき)<江戸時代>

公事方御定書とは、江戸時代、8代将軍「徳川吉宗」の命令でつくられた
幕府の「司法内規集」のことで「裁判や刑の基準」を定めたものです。

吉宗が、主に庶民を対象とする法典の編纂を計画し、老中の松平乗邑ほか、
寺社奉行、町奉行、勘定奉行の「三奉行」が作業を担当しました。有名な、
町奉行の「大岡忠相」も、編纂にあたっています。そして、「吉宗」自身
の意見も入れ、1742年に完成しました。

御定書は、上下2巻から構成され、上巻は、裁判に関する81通の基本法が
定められました。また、「下巻」は、追加分をふくむ 103条の先例や刑法
規定を載せたことから「御定書百箇条」ともいいます。

実際の裁きの中では、この御定書に記された刑罰に、情状を考慮して量刑
に軽重が加えられました。


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=第244回= 田沼時代(たぬまじだい)<江戸時代>

田沼時代とは、江戸時代中期、「田沼意次(たぬまおきつぐ)」が幕政の実権
を握っていた時代を言います。

意次は、1734年、徳川吉宗の長男「家重(9代将軍)」付きの小姓となり、以
後、出世を続け、1758年には、大名になりました。このころから、幕政へ参
加するようになり、1767年には「側用人」に、1772年には、老中にと出世を
続け「田沼時代」を現出しました。

意次の政治は、積極的な経済政策に特徴があり、商品流通に課税するために
「株仲間」を大幅に公認して、「冥加金(みょうがきん)」を徴収するなど、
従来の年貢に頼った方法を改めました。

また「蝦夷地の開発計画」や「印旛沼の干拓」なども推進しました。しかし、
この積極政策が、商業資本と権力を深く結びつけ、賄賂が横行し、幕府内部
に反発を招くことになります。

そして、「天明の飢饉」で、一般民衆や困窮する下級武士を救済できなかっ
たため、失脚への道を早めることになり、10代将軍「徳川家治」の死ととも
に失脚し、田沼時代は終わりを告げました。


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=第245回= 三大飢饉(さんだいききん)<江戸時代>

三大飢饉とは、江戸時代に襲った「享保の飢饉」「天明の飢饉」「天保の
飢饉」を言います。いずれも被害が大きく、「百姓一揆」や「打ちこわし」
の激増など社会に大きな影響を与えました。概略は次のとおりです。

【享保の飢饉(きょうほうのききん)】

1732年(享保17年)に、「中国」「四国」「九州」と「近畿の一部」を襲っ
た大飢饉。前年からの「天候不順」のため作物の成育が悪く、大量発生し
た「害虫」が、稲を食いつくしたことから大飢饉となる。江戸では「打ち
こわし」が起こる。

【天明の飢饉(てんめいのききん)】

天明年間(1781〜89年)に「全国」を襲った飢饉。「長雨」「浅間山の噴火」
「冷害」「水害」などが主な原因。特に、1783年は、大凶作となり「東北
地方」を中心に深刻な被害が出た。餓死者は、仙台藩だけでも30万人とい
われる。

【天保の飢饉(てんぽうのききん)】

1833〜36年(天保4〜7)の「全国的」な飢饉。「大洪水」と「冷害」が主な
原因。特に奥羽の被害は大きかった。全国の餓死者、病死者は、20〜30万
人といわれる。「百姓一揆」が激増した。


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=第246回= 寛政の改革(かんせいのかいかく)<江戸時代>

寛政の改革とは、1787〜93年に、老中「松平定信」が行った政治改革のこと
で、「享保の改革(徳川吉宗)」「天保の改革(水野忠邦)」とならぶ、江戸時
代の三大改革の一つです。

改革の直前は、田沼意次による政治が行われていましたが、「天明の飢饉」
の被害で農村の荒廃がすすみ、貧窮農民が都市に流れ込むという深刻な都市
問題もかかえていました。

そこで、天明の飢饉で、被害を最小限におさえた、白河藩主「松平定信」が
藩政改革の実績をかわれ「老中首座」となり、実権を握るようになったので
す。尚、定信は、8代将軍「徳川吉宗」の孫にあたります。

主な改革の項目は、次のとおりです。詳しくは、次号以降、個々に取り上げ
ます。

 「囲い米」「旧里帰農令」「棄捐令(きえんれい)」「寛政異学の禁」


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=第247回= 棄捐令(きえんれい)<江戸時代>

棄捐令とは、江戸時代、旗本や御家人の財政を救済するために「札差」に、
「債務の破棄」を命じた法令のことです。1789年に「寛政の改革」の一環と
して「松平定信」によって命じられました。

18世紀後半、江戸の「札差」などの豪商は、ぜいたくで華美な生活を送って
いましたが、旗本や御家人の窮乏は深刻化していました。そこで、彼らを救
済するために、6年以前の借財は「帳消し」、以後の借財についても「低利
の年賦返済」としたのです。

しかし、この法令により、旗本らの債務は一時的になくなったものの、以後
の新規の貸し付けを拒否されたため、窮乏状態から脱出することはできませ
んでした。また、札差については、幕府が営業資金の貸付などを行ったため、
廃業に追い込まれる業者は、あまりありませんでした。

尚、1843年の「天保の改革」でも、類似の法が発令されています。


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=第248回= 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)<江戸時代>

寛政異学の禁とは、「松平定信」によって行われた「寛政の改革」の1つで、
「朱子学」以外の学問を禁止したものです。儒学のうち「朱子学」を「正学」
とし、それ以外の学派を「異学」として、聖堂学問所で教えることを禁止し
ました。

当時、儒学は、古学派や折衷学派などが流行し、幕府が官学としていた朱子
学は、ふるいませんでした。そこで、松平定信は、幕臣の士風を立て直すた
め、朱子学以外の学問の禁止を命じたのです。

これは、あくまでも「幕府の教育機関」の学制改革で、諸藩に命じたもので
はありませんでしたが、その後、幕府が、官吏登用試験の内容に朱子学を用
いたり、昌平坂学問所を幕府直轄とするなどしたため、一般でも朱子学が盛
んになりました。特に、藩校を新設した藩では積極的に朱子学者を採用する
ようになりました。


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=第249回= 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)<江戸時代>

昌平坂学問所とは、江戸の湯島にあった「幕府直轄の教育施設」です。もと
もとは、「林家」の家塾でしたが、1797年に、幕府直轄となりました。正式
名は「学問所」といい、昌平坂に面していたので「昌平坂学問所」と呼ばれ
ました。

この学問所では、毎月の定日に経書の講義や会読、小試・大試などの試験も
行われました。また、教育施設としてだけでなく、幕府の編纂事業なども行
いました。

明治維新では、学問所は新政府に接収され、1869年、昌平学校として再開し、
同年、大学となりますが、翌年の「学制」改正で休校になり、そのまま廃校
となりました。


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=第250回= 人足寄場(にんそくよせば)<江戸時代>

人足寄場とは、江戸幕府が、江戸隅田川の石川島においた「授産施設」のこ
とです。軽犯罪者を収容し、職業技術を授け、教化を行いました。

天明の飢饉後、無宿者や浮浪人が増えて治安が悪化したため、老中の「松平
定信」が、1790年に、彼らを人足として「職業技術」を授ける施設を作った
のが始まりで、1792年からは「寄場奉行」が置かれ、町奉行からきた「寄場
同心」といっしょに管理しました。

人足の主な仕事は、紙すき、大工、左官、髪結、米つきなどで、柿色に白い
水玉の着物が一率に与えられました。また、後に、仕事の1つとして「油絞
り」が導入されると、寄場の大きな収入源となりました。


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