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=第251回= フェートン号事件 <江戸時代>

フェートン号事件とは、1808年、「イギリス」の軍艦フェートン号が長崎港
に「不法侵入」した事件です。偽って「オランダの国旗」をかかげて入港し、
手続きのため、長崎奉行所の役人に同行したオランダ商館員2人を人質にし
て、水と食料を要求しました。

当時、オランダは、ナポレオン戦争によって、フランスの属国になっており、
イギリスとは、敵対関係にありました。また、イギリスは、東アジアにおけ
るオランダの商圏を奪うため、オランダの船を捕獲する目的もありましたが、
そのとき、長崎にはオランダ船がいなかったこともあり、水や食料を与えら
れると人質を解放して退去しました。

この事件により、長崎奉行の「松平康英」は切腹し、長崎警備を担当してい
た佐賀藩主の「鍋島斉直」も処分を受けました。そして、幕府は、長崎港の
外国船入港の検査を厳しくしましたが、その後もイギリス船の来航が相次い
だため、1825年に「異国船打払令」出すことになります。

この「異国船打払令」を出すきっかけとなった事件とも言えるでしょう。


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=第252回= 異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)<江戸時代>

異国船打払令とは、1825年、江戸幕府が出した「外国船に対する取り扱い」
についての法令です。沿岸に近づく外国船を、ためらわず打ち払うよう命じ
たことから「無二念打払令(むにねんうちはらいれい)ともいいます。

もともと幕府は、外国の漂着船に対して穏便な扱いをしていましたが、日本
に通商を求めてきて断られたロシアが、たびたび略奪行為をしたり、イギリ
ス船「フェートン号」の長崎港不法侵入事件や、イギリス捕鯨船の常陸大津
浜・薩摩宝島上陸事件などがあり、すべての外国船(清・蘭船を除く)を打ち
払うという強行措置を定めました。

しかし、マカオで保護した日本人漂流民を送還するため来航した、アメリカ
の商船「モリソン号」にも、この打払令にしたがって砲撃を加えたため、批
判が高まり、後に「蛮社の獄」をひきおこすことになります。

そして、アヘン戦争で清が敗戦したことが知らされると、幕府は、この強行
措置を改めざるを得なくなり、1842年、幕府は、打払令を緩和して「薪水給
与令(しんすいきょうよれい)」を出しました。


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=第253回= モリソン号事件 <江戸時代・1837年>

モリソン号事件とは、アメリカの商船「モリソン号」を、浦賀沖と鹿児島湾
で砲撃し、退去させた事件のことです。浦賀奉行と薩摩藩は「異国船打払令」
に基づき、ためらうことなく、これを砲撃しました。

しかし、この船は、非武装で、日本人漂流民7名を伴い、漂流民送還と通商
交渉のため来航したことがわかったため、幕府の対外強硬策に対し、批判が
高まりました。

そして、渡辺崋山が「慎機論(しんきろん)」を、高野長英が「戊戌夢物語(ぼ
じゅつゆめものがたり)」を著し、この事件の無謀さを説きましたが、幕府は、
批判を許さず「蛮社の獄」を引き起こすことになるのです。


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=第254回= 蛮社の獄(ばんしゃのごく)<江戸時代・1839年>

蛮社の獄とは、江戸幕府が「渡辺崋山」や「高野長英」などの「洋学者」を
弾圧した事件のことです。

蛮社とは、蘭学や西洋事情を研究するグループのことで、当時、洋学の大家
である「渡辺崋山」のもとには、多くの人材が集まっていました。主なメン
バーは、蘭学者の「高野長英」「小関三英」、開明派の幕臣の「川路聖謨」
「江川太郎左衛門」「羽倉外記」などです。

1837年のモリソン号事件の後、幕府は江戸湾防備を強めましたが、モリソン
号の再来航の情報が伝わると、崋山は「慎機論」を、長英は「戊戌夢物語」
を著し、あくまで異国船打払令を守ろうとする幕府の強硬策を批判しました。

結局、この著書が、幕府を批判しているとして崋山と長英は、逮捕され、崋
山が、国もとでの蟄居、長英が、永牢の処分となったのです。


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=第255回= 大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)<江戸時代>

大塩平八郎の乱とは、元大坂東町奉行所与力で陽明学者の「大塩平八郎」が、
大坂で起こした反乱のことです。天保の大飢饉における幕府の対応に不満を
持ち、1837年2月19日に、同志とともに決起しました。

この前年には、大坂市中にも餓死者が出るほど深刻な飢饉でしたが、大坂町
奉行は、何の手も打たず、豪商も米の買い占めをおこなったため、米価がは
ねあがりました。そこで、大塩は、町奉行に市民の救済を申し入れたり、豪
商に義捐金を出すように求めましたが無視されたため、蜂起を決意しました。

しかし、乱は、1日で鎮圧され、平八郎と養子の格之助は、自殺。他に、処
罰された者は、死刑となった40人を含め、合計750人にもおよびました。

乱は、平定されたものの、元奉行所出身の大塩の蜂起は、幕府に大きなショ
ックを与えました。また、この事件は、たちまち全国に知れわたり、6月に
は、越後国柏崎で「大塩門弟」という旗印をかかげた「生田万の乱(いくた
よろずのらん)」が起きるなど、大きな影響を与えました。


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=第256回= 百姓一揆(ひゃくしょういっき)<江戸時代>

百姓一揆とは、江戸時代の「農民の反抗運動」をいいます。兵農分離により、
武器を奪われ、徒党を組んで結集することを厳しく禁じられた、この時代の
農民は、生活や生産をおびやかされると、集団の力で権力に対抗しました。

百姓一揆は、発生した時期により、性格が異なります。17世紀前半までは、
土着して新たに百姓となった旧小領主や浪人らが、新しい幕藩領主の支配に
抵抗する「武力一揆」が起こりました。その最後の闘争が「島原・天草一揆
(島原の乱)<1637〜38年>」です。

その後、村役人クラスの者が、百姓の意見を代表して、現地の代官をへずに
直接領主層に願い出る「代表越訴(おっそ)型一揆」や全村民による「惣百姓
一揆」「世直し一揆」など、3000件以上の一揆が知られています。


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=第257回= 打ちこわし(うちこわし)<江戸時代>

打ちこわしとは、江戸時代、町人や農民が、集団で「豪商や豪農」の屋敷や
家財などを破壊した行動を言います。特に、「天明の大飢饉」以降、多発す
るようになりました。

打ちこわしは無差別ではなく、対象は、主に、「村役人」「米商人」「金融
業者」などに限られ、家財の破壊とともに借金証文や必要書類などが破棄さ
れました。その際、隣家に迷惑をかけないよう配慮され、とくに火事をおこ
さないよう、十分な注意が払われていたと言われています。


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=第258回= 天保の改革(てんぽうのかいかく)<江戸時代>

天保の改革とは、老中「水野忠邦」のもとでおこなわれた改革政治のことで、
「享保の改革」「寛政の改革」とともに、江戸幕府の三大改革の1つです。
1841年より行われましたが、僅か2年で失敗に終わりました。

改革前は、大御所「徳川家斉(とくがわいえなり)」が、ぜいたくな生活を続
け、家斉側近による無政策な政治がはびこっていました。国内では、「天保
の飢饉」の影響などで、大規模な「百姓一揆」や「打ちこわし」が起き、対
外的には、1837年に「モリソン号事件」が発生したため、徳川幕府は、危機
的状況に陥っていました。

こうした内憂外患の中、徳川家斉が没すると、老中首座の「水野忠邦」は、
幕府の政治改革を開始し、倹約をすすめ風俗を是正する施策を次々と行いま
したが、上知令の発令により、猛反発をくらい失脚することになります。

主な改革の項目は、次のとおりです。詳しくは、次号以降、個々に取り上げ
ます。

「人返し令」「株仲間の解散」「薪水給与令」「上知令」「倹約令」


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=第259回= 人返し令(ひとかえしれい)<江戸時代>

人返し令とは、江戸時代、「水野忠邦」が行った「天保の改革」の一つで、
「人返しの法」ともいいます。

当時は、天保の飢饉の影響で、農地は荒廃し、江戸には、たくさんの農民が
流入していました。そこで、幕府は、1843年に、農民の出稼ぎを禁止し、江
戸に流入した下層民を「強制的に帰農」させ、農村の再建を図ろうとしたの
です。

しかし、それほどの効果はなく、逆に、無宿者や浪人なども江戸を追われ、
江戸の周辺の農村の治安が悪化するという悪影響もあったようです。


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=第260回= 薪水給与令(しんすいきゅうよれい)<江戸時代・1842年>

薪水給与令とは、1842年、江戸幕府の老中「水野忠邦」のもとに発令された
「外国船の取り扱いに関する法令」のことで、来航した外国船に対して、薪
(たきぎ)や水、食料などを与え、すみやかに退去させることを命じました。

江戸幕府は、1825年に「異国船打払令」を出し、外国船に対する強硬姿勢を
とってきましたが、1837年に「モリソン号事件」が起き、その姿勢に対して
再検討がはじまっていました。

そこに、中国でアヘン戦争(1840〜42年)が起こり、中国が敗れただけでなく、
オランダより、イギリス艦隊が、日本に来航して開国を迫るという情報が伝
えられたため、幕府は、危機を回避するため、打払令を緩和したのです。


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