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=第261回= 上知令(あげちれい・じょうちれい)<江戸時代>

上知令とは、天保の改革で、「水野忠邦」が、江戸・大坂周辺の大名や旗本
の領地を直轄領にしようとした法令のことです。

上知とは、幕府による「知行地」の取り上げのことで、対外的な危機感の高
まる中、江戸や大坂周辺の防備体制整備のために行われました。また、領有
権の入り組む両地域の支配関係を整理し、幕府の支配を強化する狙いもあっ
たようです。

しかし、代知を与えられても減収となる大名や旗本はもちろん、年貢が増え
て困る農民らが、それぞれ、激しく反対運動をおこしたため、上知令は撤回
されることになります。そして、この失敗により、水野忠邦は、老中をやめ
させられ、天保の改革は、終わりを告げました。


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=第262回= 株仲間(かぶなかま)<江戸時代>

株仲間とは、江戸時代、独占的な商取引を許可された「商工業者の同業組合」
のことです。幕府、諸藩から株札の交付を認められ、月行事、その他の役員
が置かれ、寄合を開いて意思を決定しました。

中世の「商工業者の同業組合」である「座」は、織田信長らの楽市・楽座政
策で、禁止されましたが、江戸時代初期の鎖国前には、外国貿易の統制や盗
品の取り締まりのために、生糸輸入商人など、一部、仲間組織が認められて
いました。そして、1694年に、江戸に十組問屋(とくみといや)仲間が成立し
てからは、彼らが商品の流通に独占的な力を持つようになります。

株仲間は、享保の改革で公認され、「田沼時代」に急増しました。これは、
財政が窮乏していた幕府や諸藩が、営業税としての「冥加金」収入に目をつ
けて積極的に公認したためです。しかし、仲間以外の営業を排他的に禁止す
るという、流通・販売の独占に対して生産者や在郷商人が反発し、多くの訴
訟行動が起きました。

そこで、「天保の改革」では、すべての「株仲間の解散」が命じられ、商品
売買の自由化が図られました。ところが、かえって商品の流通が滞り、物価
も下がらなかっため、結局、幕府は、新規に仲間に加入できる自由を保証し
た「株仲間再興令」を出すことになります。

開国後は、仲間外の商人が横浜を中心に営業を拡大するようになり、株仲間
組織もしだいに機能しなくなりました。そして、明治新政府は「商法大意」
で、株仲間の人数増減を自由にし、それまでの冥加金・上納金を廃止するこ
とを徹底させたため、特権的な株仲間組織は姿を消しました。


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=第263回= 問屋制家内工業(といやせいかないこうぎょう)

問屋制家内工業とは、問屋商人が、「原料」や「器具」を自宅で家内労働を
いとなむ生産者に「前貸し」し、生産物を「買いとる」工業形態のことです。
織物や製糸業を中心に、18世紀から広まり、19世紀に発達しました。

この形態は、農村の豊富で安価な余剰労働力を活用し、需要の多少に応じて
雇用量を調節できるという利点がありました。また、働く側でも手工業と農
作業とをうまく調節していたようです。

明治中期以降は、機械制大工業の成長で解体しましたが、織物や和紙、漆器
など、機械化の遅れた分野では、その後も長く存続しました。


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=第264回= 工場制手工業(こうじょうせいしゅこうぎょう)

工場制手工業とは、労働者が「1ヶ所」に集まって、分業を取り入れ、手工
業生産を行う工業形態のことです。

自宅で、家内労働を営む生産者を対象にしていた「問屋制家内工業」とは違
い、労働者が「工場」で働くという形を取っていますので、資本主義生産の
初期段階といっていいでしょう。

日本では、すでに、17世紀に、摂津の伊丹や灘などの酒造業で、この形態が
見られました。また、19世紀には、尾張の綿織物、足利、桐生の絹織物、川
口の鋳物業などに見ることができます。

これらの工場は、やがて多量の「賃金労働者」を生みだすことになりました。
また、「分業に基づく協業」という新しい「生産形態」を作ったため、後に
機械による本格的な工場生産の条件を作ったという点で、非常に大きな意味
を持ちました。


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=第265回= 化政文化(かせいぶんか)<江戸時代>

化政文化とは、11代将軍「徳川家斉」の治世「文化・文政期(1804〜30年)」
に「江戸」を中心に発達した「町人文化」のことです。文化・文政を略し、
通称「化政」と呼ばれています。

この時代は、江戸の経済的地位が上昇したため、文化の中心が、大坂から江
戸に移りました。そして、「通(つう)」や「粋(いき)」という洗練された独
自の美意識が生まれ、はでを卑しみ、野暮を笑うという江戸趣味が根付いて
いきます。

また、文化の大衆化も進み、市中に盛り場が繁栄し、見世物、寄席に人が集
まり、文芸作品も「庶民の生活」を題材にしたものが多くなりました。

◎ 主な作者、作品をあげておきます。

【文学】

 ・滑稽本:十返舎一九(「東海道中膝栗毛」など)
      式亭 三馬(「浮世風呂」「浮世床」など)

 ・読 本:滝沢 馬琴(「南総里見八犬伝」など)
      上田 秋成(「雨月物語」など)

 ・洒落本・黄表紙:山東京伝

 ・人情本:為永春水

 ・俳 諧:与謝蕪村、小林一茶など

 ・狂 歌:太田南畝(蜀山人)

 ・川 柳:柄井川柳(「誹風柳多留」など)

【美術】

 ・浮世絵:鈴木春信による錦絵(多色刷り)の発明

      喜多川歌麿(美人画)
      葛飾 北斎(「富嶽三十六景」など)
      歌川(安藤)広重(「東海道五十三次」など)
      東洲斎写楽(役者絵)

 ・写生画:円山応挙

 ・西洋画:司馬江漢


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=第266回= 国学(こくがく)<江戸時代中期成立>

国学とは、日本古代の文献を研究し「日本民族固有の精神」を究明しようと
いう学問や学派をいいます。仏教や儒教などの外国文化の影響を「受けてい
ない」古代社会に民族精神の源流を求めました。

近世古典研究の出発点とされているのは、水戸藩主「徳川光圀」の依頼を受
けて「万葉集」の注釈書である「万葉代匠記(まんようだいしょうき)」を著
した「契沖(けいちゅう)」で「古学の始祖」と呼ばれています。

「万葉集研究」は、荷田春満(かだのあずままろ)に引き継がれ、このころよ
り「国学」と呼ばれるようになりました。そして、春満の弟子の「賀茂真淵
(かものまぶち)」は、国学の全分野にわたって研究の指針と課題を示し「万
葉集」を研究し、そのうえ「古事記」を研究すれば、古道は自然に明らかに
なると説きました。

国学を大成したのは、真淵の弟子の「本居宣長(もとおりのりなが)」です。
宣長は、著書「古事記伝」で、古代人の心をありのままに知ろうと「古事記」
の写本校訂や考証などをして、春満や真淵以来の古道の全体像を明らかにし
ました。


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=第267回= 洋学(ようがく)<江戸時代>

洋学とは「西洋学」の意味で、江戸時代に発展した西洋学術の総称です。ス
ペインやポルトガルの影響が強かった初期は、「南蛮学」あるいは「蛮学」
と呼ばれ、オランダの影響が強かった中期は「蘭学」、イギリス、ドイツ、
フランスなどの影響も出てきた幕末には「洋学」と名称を変えていきました。

実際に、洋学と呼ばれるようになったのは幕末ですから、狭義では、幕末期
のものだけを指す場合もあります。

開国後は、対外危機が深刻化していたため「西洋軍事科学」を中心として、
それまでのオランダだけでなく、イギリスやドイツ、フランスなどの学術も
積極的に受け入れるようになり、洋式の軍制を導入したり、洋式の工場が建
設されたりしました。

また、英語をはじめとする外国語の学習が盛んとなり、法律・経済・統計な
どの社会科学、歴史・哲学などの人文科学も学ぶようになりました。

幕府や諸藩は、留学生を派遣して、洋学を奨励するようなり、明治政府はこ
れをさらに推し進めて学問の近代化を行いました。


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=第268回= 蘭学(らんがく)<江戸時代>

蘭学とは「オランダ語」を通じて学ばれた学問の総称です。8代将軍「徳川
吉宗」の時代に、漢籍洋書の輸入禁止が緩和され、本格的に発展しするよう
になりました。

蘭学は、特に、『医学』や『天文暦学』『世界地理学や西洋事情』などの分
野で発展しました。

『医学』の分野では、「杉田玄白」「前野良沢」らがオランダ語の解剖書を
翻訳して「解体新書」(1774年)を刊行し、『天文暦学』の分野では、オラン
ダ通詞だった「志筑忠雄(しづきただお)」が「暦象新書」(1802)を翻訳し、
「ニュートン力学」や「地動説」を紹介しました。

また、天文・地理学者で、天文方の「高橋景保」の建議により、幕府天文台
に「蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)」(1811年)という「蘭書翻訳局」
を設置し、蘭学を保護しました。

『世界地理学や西洋事情』も、当時の西欧列強のアジア進出という対外危機
を背景に発達しましたが、幕府は、これらの学問のもつ反封建的な面をおさ
えるため、社会批判や、幕府批判に対しては、「林子平」の処罰や「蛮社の
獄」など、徹底的に弾圧を加えました。


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=第269回= 心学(しんがく)<江戸時代>

心学とは、18世紀初めに「石田梅岩」がはじめた「庶民的学問」のことです。
通俗道徳の意味で使われる心学と区別するため「石門(せきもん)心学」とも
いいいます。

梅岩は儒教・仏教・神道・道教の説を取り入れ、営利追求の正当性と商業の
社会的意義を認め、商人の存在意義を主張しました。

この時代は、商業の発達とともに、商人たちの力は強くなっていましたが、
社会的地位は低いものでした。それゆえ、梅岩のこの考え方は、商人たちに
歓迎されました。

しかし、梅岩はさらにすすんで、階層による人間の格差を否定し人間の尊厳
性を主張し、真の人間となるための道を説きました。こうして忠孝・倹約・
正直などの町人道徳が、心学道講話を通じて町人の間に広まっていくことに
なります。

梅岩の死後も、門弟の「手島堵庵(てしまとあん)」が、京都に心学舎を建設
して、教えを更に簡素化し、普及に努めました。

また、堵庵の門弟「中沢道二(なかざわどうに)」は、江戸にくだり、道話と
いう軽妙な語り口で江戸に心学をひろめ、最盛期を築きました。


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=第270回= 解体新書(かいたいしんしょ)<江戸時代>

解体新書とは、1774年に刊行された日本で初めての「翻訳解剖書」で、本文
4巻と図版1巻で成り立っています。江戸中期の蘭方医「前野良沢」を中心
に「杉田玄白」らが、ドイツ人クルムスが書いた「解剖図譜」のオランダ語
訳「ターヘル=アナトミア」を翻訳しました。図版は、平賀源内に洋画を学
んだ小田野直武によって描かれたものです。

1771年に、現在の東京都荒川区にあった「小塚原(こづかっぱら)刑場」で行
われた死体の「腑分け(解剖)」に参加した良沢、玄白らは、持参したクルム
スの解剖図の正確さに驚き、翻訳作業をはじめることになります。その苦労
は、玄白の「蘭学事始(らんがくことはじめ)」で詳しく述べられています。

この書が刊行されたことにより、西洋医学の重要性が広く認識され、オラン
ダ書の翻訳も盛んになりました。


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