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=第271回= 藩校(はんこう)<江戸時代>

藩校とは、江戸時代、諸藩が設立した「教育機関」のことで、藩学ともいい
ます。最古のものは、1641年に、岡山藩主「池田光政」が設立した「花畠教
場(はなばたけきょうじょう)」ですが、多くは、江戸時代後期に設立され、
発展期には、250校を数え、ほぼ全藩に作られました。

内容や規模は、藩によってさまざまでしたが、藩士の子弟はすべて強制的に
入学させ、庶民の子弟は原則的に入学できないことが多かったようです。

また、江戸後期には、多くの藩が、財政的危機に直面し、藩政改革のための
人材が必要なり、その人材を育成するために藩校を設立するケースもありま
した。そのため、藩士の忠誠心をやしなう人格教育から、富国強兵のための
実学教育を目指すものも多くなりました。

代表的な藩校は、次のとおりです。

岡山藩:花畠教場(1641年設立) 最古の藩校

 米沢藩:興譲館(1697) 会津藩:日新館(1799) 長州藩:明倫館(1719)
 熊本藩:時習館(1755) 薩摩藩:造士館(1773) 水戸藩:弘道館(1841)


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=第272回= 寺子屋(てらこや)<江戸時代〜明治初頭>

寺子屋とは、江戸時代から明治初頭に普及した「庶民の教育機関」のこと
で「手習所(てならいじょ)」ともいいます。

教師は、村役人や牢人、僧侶、神官、医師や町人などで、「読み、書き、
そろばん」を中心に日常生活に役立つもの教えました。また、「道徳」教
育も行われました。

生徒は、だいたい6歳から13歳で、20〜30人程度で行われました。教科書
として「庭訓往来」「商売往来」など書簡を手本とした往来物や、「実語
教」などの道徳教科書が使われました。

寺子屋の起源は、戦国時代にさかのぼることができますが、爆発的に増加
したのは「天保年間(1830〜44年)」で、貨幣経済の発展を背景に増えまし
た。その際、幕府や藩の保護や統制を受けることは少なかったようです。

明治以後は、小学校教育の普及により衰退しましたが、近代教育制度の基
礎を築いた意義は、非常に大きいものと言えるでしょう。


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=第273回= 宝暦事件(ほうれきじけん)<江戸時代・1758年>

宝暦事件とは、1758年に、京都で公家たちに尊王論を説いていた朱子学者
で神道家の「竹内式部(たけのうちしきぶ)」が追放された事件です。江戸
幕府による尊王論弾圧事件の一つで「ほうりゃくじけん」とも読みます。

竹内式部は、垂加神道にもとづき、「日本書紀」などを若手の公卿たちに
講義していましたが、その内容には、朝廷の政権回復の心構えを説いて、
幕府を非難する一面もありました。そして、式部の教えに共鳴し、それを
天皇に進講する公卿も現れました。

こうした動きに対し、前関白の一条道香(いちじょうみちか)は、朝幕関係
の悪化をおそれ、公卿たちを謹慎させました。また、式部は京都所司代に
告発され、翌年、重追放となりました。


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=第274回= 明和事件(めいわじけん)<江戸時代>

明和事件とは、1766〜67年に「山県大弐(やまがただいに)」「藤井右門」
らが、江戸幕府への謀反の容疑で逮捕・処刑された事件のことです。

1758年の宝暦事件とあわせ「宝暦・明和事件」と呼ばれることもあります。

山県大弐は、江戸日本橋で、儒学・兵学の塾を開いていましたが、兵学の
講義の中で、幕府の要害の地を例に解説したり、百姓一揆は兵乱の兆候、
行幸もできない天皇は囚人同様、などの過激な発言をしていました

そして、宝暦事件で、竹内式部の相棒だった藤井右門と甲府・江戸城攻撃
の軍略を述べたことから、弟子に危ぶまれ、密告されて、大弐と右門は、
死刑となったのです。

また、そのとばっちりを受けて、宝暦事件で、重追放になっていた「竹内
式部」も八丈島へ流罪となりました。


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=第275回= ペリーの来航 <1853年>

ペリーは、「アメリカ」の海軍軍人で、日本の開国を目指し、1853年、サ
スケハナ号など4隻をひきいて「浦賀」に来航しました。そして、日本中
を、いわゆる「黒船来航」の大パニックにおとしいれました。

江戸幕府は、長崎へ回航するように要求しましたが、ペリーは、老中に相
当する閣僚クラスとの面会を要求し、ついに、「フィルモア大統領」の国
書を渡すことに成功します。また、翌年の再来航と日本側の回答を約束さ
せて、引き上げました。

ペリーはいったん中国に退去し、約束どおり、翌1854年に再び来航。今度
は、7隻の軍艦を率いて、いきなり江戸湾に侵入し、幕府をあわてさせま
した。老中「阿部正弘」は、通商には応じられないものの、石炭・食料の
供給、遭難船員の救助は認めると回答し、「日米和親条約(神奈川条約)」
が結ばれることになります。これにより、200年 以上続いた鎖国が破られ
ることになりました。


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=第276回= 日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)<江戸時代>

日米和親条約とは、1854年3月31日、江戸幕府がアメリカと調印した条約
のことです。鎖国をやぶった最初の条約で、神奈川条約ともいいます。

前年、アメリカ大統領フィルモアの国書を受け取った幕府は、開国要求へ
の明確な回答を用意できず、再来日した、ペリーの威嚇的な態度に圧倒さ
れ、この条約を結ぶことになります。

条約の内容は、アメリカ船に、薪・水・食料・石炭などを供給するために
「下田」「箱館(函館)」を開港することや、漂流民の救助・引き渡し、下
田にアメリカ人遊歩区域の設定すること、片務的最恵国待遇などです。

また、このアメリカとの条約の締結を機に、イギリス・ロシア・オランダ
とも、ほぼ同様の条約を結びました。


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=第277回= 日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)

日米修好通商条約とは、1858年7月29日(旧暦:安政5年6月19日)、日本
が、アメリカと結んだ最初の通商条約のことです。日本側の全権は、下田
奉行「井上清直」と目付の「岩瀬忠震(いわせただなり)」で、アメリカ側
の全権は、駐日総領事の「ハリス」でした。

1954年に結ばれた「日米和親条約」により、1856年に下田に赴任した初代
領事の「ハリス」は、通商条約の締結を強く求めましが、老中首座の「堀
田正睦(ほったまさよし)」は、孝明天皇の許可を得ることができませんで
した。当時、朝廷では、攘夷の空気が強かったためです。

しかし、1856年に始まった「アロー号事件」の結果として、1858年に、清
が、イギリス、フランスと「天津条約」を結ぶと、ハリスは、日本への侵
略を防ぐには、友好的なアメリカとアヘンの輸入禁止条項を含む通商条約
を結ぶべきだと強く説きました。

そのため、大老「井伊直弼(いいなおすけ)」は、天皇の許可のないまま独
断で通商条約を結ぶことになったのです。

内容は、「神奈川」「長崎」「箱館(函館)」「新潟」「兵庫」の5港の開
港と、江戸、大坂の開市、「領事裁判権」の設定、自由貿易、輸入関税の
協定制度、片務的最恵国待遇の設定などです。

しかし、実際は、神奈川にかわって横浜、兵庫にかわって神戸が開港され
ました。


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=第278回= 安政の五カ国条約(あんせいのごかこくじょうやく)

安政五カ国条約とは、1858年、江戸幕府が「アメリカ」「オランダ」「イ
ギリス」「フランス」「ロシア」の5カ国と締結した修好通商条約の総称
です。天皇の許可を得ずに調印したため「安政仮条約」ともいいます。

各条約は、日米修好通商条約とほぼ同じで、「領事裁判権」「協定関税」
「片務的最恵国待遇」という不平等な条項や「神奈川(実際は横浜)」「長
崎」「箱館(函館)」「新潟」「兵庫(実際は神戸)」の開港、江戸・大坂の
開市、自由貿易、開港場での居留地設定などでした。


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=第279回= 不平等条約(ふびょうどうじょうやく)

不平等条約とは、条約締結国が、互いに平等でなく、強国が一方的に利益
を受ける条約のことを言います。16世紀のキリスト教国が、イスラム教国
と結んだ条約にはじまり、19世紀にはヨーロッパ諸国がアジア諸国に強制
しました。

日本では、1854年以降に結んだ、アメリカ、オランダ、イギリス、ロシア
との和親条約で定められた「片務的最恵国待遇」、1858年の安政の五カ国
条約で定められた「領事裁判権」「協定関税制」の3つが、主な不平等の
部分で、以後、この規定に苦しめられることになります。

その一方で、明治政府は、朝鮮や清に対しては不平等条約を強制しました。
1876年に結ばれた「日朝修好条規」では、「片務的最恵国待遇」「領事裁
判権」「無関税特権」が、1896年の「日清通商航海条約」では、「片務的
最恵国待遇」「領事裁判権」「協定関税制」を定めています。


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=第280回= 最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)

最恵国待遇とは、通商条約などで、締約国が、最も恩恵的な地位にある第
三国(最恵国)と同等に待遇することです。つまり、相手国に対して、いか
なる第三国よりも不利に扱わないということです。

例えば、関税に関する最恵国待遇では、第三国産品に課している関税率の
中で最も低い税率を適用します。

内容は、条約ごとに異なりますが、主に、通商・航海・経済活動・内国関
税・領事などでした。

1854年の日米和親条約にはじまる一連の諸外国との条約は、日本だけが一
方的に強制される「片務的最恵国待遇」条項を含んでいたため、19世紀後
半の日本の国際的地位の低さを位置づけ、条約改正の大きな課題のひとつ
となりました。


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