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=第281回= 領事裁判権(りょうじさいばんけん)

領事裁判権とは、治外法権の1つで、在留外国人が起こした事件を本国の
「領事」が裁判する権利を言います。日本では、安政の五カ国条約で、各
国に対して認めたため、国権が大きく侵害されることになりました。

明治政府は、この不平等な取り決めの改正に努力しましたが、なかなか成
功しませんでした。しかし、1886年に、紀伊半島沖で英国の貨物船が難破
した際、イギリス人船長や乗務員は脱出したものの、日本人乗客は、全員
溺死した事件(「ノルマントン号事件」)で、日本人を見殺しにしたイギリ
ス人船長が、神戸の領事裁判で、いったんは無罪となったため、国民の不
満は、一気に高まりました。

結局、1894年、日清戦争直前に「日英通商航海条約」が調印され、この不
平等は解消されることになります。また、他の欧米諸国とも同様の条約を
調印し、各国に認められていた領事裁判権は撤廃されました。


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=第282回= 関税自主権(かんぜいじしゅけん)

関税自主権とは、貿易の際、「自国の関税率を自主的に定めることができ
る権利」を言います。関税とは、輸入や輸出の際にかかる税金のことです
が、輸入品に税金をかけることにより、自国の産業を保護したり、税収入
を得たりできるので、重要な権利です。

しかし、安政の五カ国条約では、関税率を貿易相手国との話し合いで定め
る「協定関税制」だったため、この権利がありませんでした。そのため、
強国の意見が強制されることが多く、大変な不利益を招きました。

そのため、明治政府は、条約改正の重要課題として改正に努力しましたが、
なかなか進まず、この「関税自主権の回復」が達成されたのは、「日米通
商航海条約」が結ばれた「1911年」のことでした。


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=第283回= 安政の大獄(あんせいのたいごく)<江戸時代>

安政の大獄とは、1858から59年に、大老「井伊直弼」の専制政治に反対し
た「親藩・外様大名」「公卿」「幕臣」「志士」ら 100名以上が、処分さ
れた政治弾圧のことです。

主な処罰者は、次のとおりです

<一橋派の幕臣> 川路聖謨(かわじとしあきら)、岩瀬忠震(ただなり)

<水戸前藩主> 徳川斉昭・・・謹慎

<尾張藩主> 徳川慶恕(よしくみ)・・・謹慎・隠居

<福井藩主> 松平慶永・・・謹慎・隠居

<長州藩士> 吉田松陰・・・処刑

<福井藩士> 橋本佐内・・・処刑

<尊攘派> 梅田雲浜・・・逮捕・獄死、頼三樹三郎・・・逮捕・処刑

こうした大量処罰は、直弼への激しい反発を生みました。中でも水戸藩は、
斉昭以下が処罰され、更に勅諚の朝廷への返上を命じられたため、尊攘派
の藩士らは憤激し、1860年に「桜田門外の変」を起こすことになります。
この事件で、直弼は暗殺され、安政の大獄は終わりました。


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=第284回= 桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)<江戸時代>

桜田門外の変とは、1860年3月3日、尊王攘夷派の水戸浪士17人と薩摩浪
士1人が、大老の「井伊直弼(いいなおすけ)」を江戸城桜田門外で暗殺し
た事件のことです。その結果、幕府の権威は失墜し、政局の一大転機とな
りました。

1858年、直弼は、孝明天皇の許しをえないまま日米修好通商条約に調印し
ましたが、これに激怒した天皇は、同年「水戸藩」と「幕府」へ勅書を出
して幕府を批判しました。

前例のない事態に危機感をもった直弼は、反対派の大名・公家・志士らを
弾圧。特に水戸藩には厳しい態度でのぞみ、前藩主徳川斉昭を水戸に永蟄
居したばかりでなく、家老の安島帯刀(たてわき)を切腹させたのをはじめ
として、4人の水戸藩士が刑死しました。

いっぽう、直弼は、水戸藩が受けた密勅を無効にするため、朝廷に圧力を
かけ、水戸藩に密勅返納をせまることになります。水戸藩内は、賛成か反
対かで激しく争われましたが、結局、藩主「徳川慶篤(よしあつ)」は返納
を決意しました。

しかし、以前から直弼暗殺を計画していた急進的な尊攘派の水戸藩士らは、
これをきっかけに計画を具体化させ、3月3日の上巳(じょうし)の節句に
登城する直弼を桜田門外で待ち伏せ、午前9時ごろ、18人の浪士は60人余
りをひきつれた直弼の駕篭を襲って暗殺に成功したのです。


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=第285回= 金銀比価問題(きんぎんひかもんだい)<江戸時代>

金銀比価問題とは、開国後、外国との貿易を始めた日本が、金と銀の交換
比率の相違により、多量の金貨が海外に流出して経済が混乱した問題を言
います。

当時の日本は、金1に対して、銀5で交換していましたが、外国は、金1
に対して、銀15で交換していたため、外国人は、大量の銀貨を持ち込んで、
日本の金貨を手に入れました。

そこで、幕府は、金貨の品質を大幅に引き下げる改鋳によって、これを防
ぎましたが、貨幣の実質的な価値が下がったため、物価上昇に拍車をかけ
る結果になりました。そして、これが貿易に対する反感となり、攘夷運動
が起こる一因となったのです。


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=第286回= 生麦事件(なまむぎじけん)<江戸時代・1862年>

生麦事件とは、武蔵国生麦村(現在の横浜市鶴見区)で「薩摩藩士」が「イ
ギリス人」を殺傷した事件です。

1862年8月21日、薩摩藩の中心人物「島津久光」一行が江戸から帰る途中、
騎馬で川崎大師の見物に訪れていたイギリス商人リチャードソンら4人と
出くわしました。

彼らは、大名行列の前でも、馬からも降りず、立ち往生していたため、こ
れを無礼として、久光の従士が切りかかり、3名を殺傷しました。

この事件で、イギリス側には、実力報復の声もありましたが、イギリス代
理公使ニールは本国政府の指令に基づき、幕府に、謝罪と賠償金10万ポン
ド、薩摩藩に、犯人の死刑と賠償金2万5000ポンドを要求しました。

幕府は、翌年、これに応じましたが、薩摩藩は、拒否したため、イギリス
と薩摩藩が交戦する事態(薩英戦争)になりました。


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=第287回= 尊王攘夷論(そんのうじょういろん)<江戸時代>

尊王攘夷論とは、天皇の伝統的権威を尊ぶ崇拝思想「尊王論」と、外国人
排斥思想「攘夷論」が結びついた政治理論を言います。

もともとは、尊王論も攘夷論も、ともに封建思想であり、江戸時代を通じ
て存在していましたが、幕末になり、度重なる外圧によって両者が一体化
しました。

特に、1858年の日米修好通商条約で、勅許を得ないまま条約調印を強行し
た大老「井伊直弼」の行動は、尊王にも攘夷にも反するとして激しい批判
をうけました。

その結果、1860年には「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されたほか、ア
メリカ総領事ハリスの通訳ヒュースケンも江戸で暗殺され、翌年、イギリ
ス仮公使館が襲われるなど、攘夷運動が激しくなってきたのです。

やがて、長州藩の下級武士を中心とした尊王攘夷派は、尊王攘夷運動を討
幕運動に発展させて、明治維新に導いていきますが、尊王論も攘夷論も、
本来、鎖国や幕藩体制の維持のためのものであり、討幕を目指すような性
格を持つものではありませんでした。

外国からの圧迫という危機によって、両者が結びつき、紆余曲折を経て、
討幕運動という予期せぬものに発展していったのです。


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=第288回= 坂下門外の変(さかいしたもんがいのへん)<江戸時代>

坂下門外の変とは、1862年、老中首座の「安藤信正」が、尊攘派の志士6
名によって傷つけられた事件を言います。

安藤信正は、大老の井伊直弼が、桜田門外の変で暗殺された後、老中首座
になり公武合体を推進しました。そして、孝明天皇の妹「和宮」を、14代
将軍「徳川家茂」に降嫁することに成功しました。

しかし、この政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、坂下門外で、
水戸脱藩士らに襲われることになります。この事件で、信正は、死には至
りませんでしたが、失脚しました。


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=第289回= 薩英戦争(さつえいせんそう)<江戸時代・1863年>

薩英戦争とは、生麦事件の謝罪・賠償問題を原因として起きた「薩摩藩」
と「イギリス」艦隊の戦争のことです。

前年の生麦事件に関して、江戸幕府は、イギリス側の要求に応じましたが、
薩摩藩は、犯人の処刑と賠償金2万5000ポンドの要求を拒否しました。

そこで、イギリスは、1863年6月、7隻の艦隊を鹿児島湾に入れ、交渉を
はじめましたが進展しなかったため、イギリスは、桜島近くに停泊してい
た薩摩藩船3隻を捕獲しました。これを見た薩摩藩は、ただちに開戦命令
を出し、いっせいに砲撃を開始して、3日間戦いました。

この戦いで、イギリス側は、戦死者13人、負傷者50人、薩摩藩側は、戦死
者5人、負傷者十数人と、双方かなりの被害を受けましたが、イギリス艦
のアームストロング砲は、薩摩藩の4倍の射程距離を持ち、洋式工場の集
成館、鋳銭所や城下町の1割を焼失させたため、薩摩藩は、攘夷の無謀さ
を痛感することになります。

この戦争の結果、薩摩藩は、幕府の立て替えで賠償金を支払いました。そ
して、薩摩藩は、西洋文明の優秀さを理解し、イギリス側も薩摩藩の開国
論を知り、両者は急速に接近するようになったのです。


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=第290回= 八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)

八月十八日の政変とは、文久3年8月18日に、公武合体派の「薩摩藩」や
「会津藩」などが、孝明天皇・中川宮らと組んで、尊王攘夷派の中心だっ
た「長州藩」勢力を京都から追放した事件です。

尊王攘夷派は「討幕」と「王政復古」の実現を目指し、孝明天皇の大和行
幸を計画し、8月13日に天皇の詔をひきだすことに成功しましたが、これ
に反対する公武合体派は、薩摩・会津藩兵が、御所を警備する中で、18日
未明に、行幸延期と「三条実美(さんじょうさねとみ)」ら急進派公卿の参
内停止、「長州藩」の「宮門警備解任」を決定しました。

その結果、三条をはじめとする尊攘派公卿7人は、長州藩士とともに長州
に逃れることになります。これを「七卿落ち(しちきょうおち)」といい、
7人の官位は取り上げられ、朝廷から絶縁状態とされました。


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