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=第291回= 新選組(しんせんぐみ)<江戸時代>

新選組(新撰組)とは、「江戸幕府」が武芸にすぐれた浪士を集めて作った
武力組織のことです。京都郊外の壬生村(みぶむら)に屯所を置いて尊王攘
夷派や討幕派を弾圧したので、壬生浪人として恐れられました。

1862年暮れに組織された浪士組は、翌63年2月、将軍「徳川家茂」を警固
して上洛しました。そして、そのまま京都に残り「近藤勇(こんどういさ
み)」「土方歳三(ひじかたとしぞう)」を中心に「新選組」が結成された
のです。隊員は、初め20人前後でしたが、最盛期には、約200人 にまでふ
くらみました。

この組織は、京都守護職の「松平容保(まつだいらかたもり)」の指揮の元、
京都の治安維持を名目に尊攘・討幕志士を弾圧しました。特に、1864年の
「池田屋事件」が有名で、京都三条河原町の池田屋に集合した尊攘派を急
襲し、約30名を激闘の末、殺害または捕縛し大きな打撃を与えました。

しかし、1868年の「鳥羽・伏見の戦い」では、旧幕府軍に参加したものの
敗北しました。

その後、近藤勇は、新選組の残党で、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を
組織して甲州勝沼で、官軍に抗戦しましたが敗れ、土方歳三は、旧幕府軍
として東北各地を転戦し「榎本武揚(えのもとたけあき)」とともに箱館へ
渡りましたが「五稜郭の戦い」で戦死しました。


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=第292回= 池田屋事件(いけだやじけん)

池田屋事件とは、1864年、新選組が、京都三条河原町の旅館「池田屋」に
集合していた「尊王攘夷派」を襲撃した事件です。

八月十八日の政変で、長州藩の勢力が京都から一掃されたため、尊王攘夷
派は、窮地に立たされていました。そこで、彼らは、勢力を挽回すべく、
京都に放火し、その混乱に乗じて「中川宮朝彦親王」や「徳川慶喜」「松
平容保」らを暗殺し「孝明天皇」を拉致する計画を練りました。

しかし、新選組に捕らえられた尊攘派の「古高俊太郎」の自白により、こ
の計画が発覚したため、新選組は、ただちに捜索を開始、池田屋で謀議中
の尊攘派を発見し、近藤勇ら僅か数名で斬り込みました。そして、激闘の
末、約30名を殺害または捕縛しました。

この事件をきっかけに、長州藩は、強硬派に引きずられる形で挙兵、上洛
し、禁門の変を起こすことになるのです。


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=第293回= 禁門の変(きんもんのへん)<江戸時代・1864年>

禁門の変とは、「長州藩」の急進派が、薩摩、会津、桑名の藩兵と皇居内
外で交戦した武力衝突事件のことで、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)
ともいいます。

八月十八日の政変で、京都を追われた長州藩の急進派は、「池田屋事件」
を機に入京し、先発隊が、七卿や藩主の免罪を願いましたが、聞きいれら
れなかったため、京都内外で、薩摩、会津、桑名などの藩兵と交戦するこ
とになります。一時は御所へせまる勢いでしたが、結局、敗走しました。

この戦いで、京都の町は大火となり約3万戸が焼失しました。また、幕府
は、これを機に第1次長州征伐を決定することになります。


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=第294回= 長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)<江戸時代>

長州征伐とは、幕末に江戸幕府がおこなった2度にわたる「長州藩」への
攻撃のことで、第1次は、1864年、第2次は、1865〜66年におこなわれま
した。

第1次は、「禁門の変」における長州藩の皇居への発砲をきっかけに、幕
府は、長州藩追討の勅許を得て出兵しました。それに対し、長州藩は、四
国艦隊下関砲撃事件の後、藩内の実権を握っていた保守派は、幕府に恭順
の意思をしめし、禁門の変を指揮した3家老らを処罰しました。

第2次は、長州藩内で「高杉晋作」らが実権を握り、討幕の動きを強めた
ため、幕府は、再び長州征伐の勅許を得ました。そして、1866年8月、幕
府軍と長州軍の戦いがはじまりましたが、朝廷や諸藩にはこの戦いに対す
る反対論が強く、更に、同年1月に結ばれた薩長同盟の影響で、戦局は、
長州藩有利に進みました。

結局、幕府は、将軍「徳川家茂(いえもち)」の病没を機に8月に停戦、9
月に、長州藩と休戦協定を結ぶことになります。この長州征伐の失敗で、
幕府の崩壊を決定的なものにしました。


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=第295回= 四国艦隊下関砲撃事件 <江戸時代>

四国艦隊下関砲撃事件とは、1864年、「アメリカ」「イギリス」「フラン
ス」「オランダ」の4カ国艦隊が、下関の砲台を砲撃して長州藩を屈伏さ
せた事件のことです。

前年の1863年に、長州藩は、尊王攘夷派が、幕府に約束させた攘夷決行の
期限だった5月10日に、下関海峡を通過するアメリカ商船、フランス・オ
ランダ軍艦を砲撃しました。

そのため、この砲撃の報復として、翌1864年8月、四国艦隊は、軍艦17隻、
大砲 288門、兵員約5000名で下関を攻撃し、3日間で下関砲台をことごと
く破壊しました。

同年7月の禁門の変に続き、この四国艦隊下関砲撃事件の敗北により、長
州藩内の攘夷派は没落し、保守派主導にうつることになります。しかし、
この事件により、攘夷の不可能を悟り、開国を主張する勢力が台頭するき
っかけにもなりました。


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=第296回= 薩長同盟(さっちょうどうめい)<江戸時代>

薩長同盟とは、討幕の中心となった「薩摩藩」と「長州藩」が1866年に結
んだ軍事同盟のことで、薩長連合、あるいは、薩長盟約ともいいいます。

1863年に起きた「八月十八日の政変」以来、長州藩の政治的立場は急速に
低下し、この政変や「禁門の変」などで敵対した薩摩藩との関係は悪化し
ていました。

しかし、第2次長州征伐をひかえて、薩摩藩は、幕府による専制化反対の
立場に傾き、長州藩も孤立状況から抜け出す必要がありました。

この両者を仲介したのが、土佐藩出身の「坂本竜馬」と「中岡慎太郎」で
す。犬猿の仲の二つの藩を結びつけたのです。

1866年1月21日、京都の薩摩藩邸で、薩摩藩の「西郷隆盛」・「小松帯刀
(こまつたてわき)」、長州藩の「桂小五郎(木戸孝允)」との間で同盟は成
立しました。

内容は、幕府の長州征伐に対して、薩摩藩は、長州藩を支援し、朝廷に対
する長州藩の名誉回復をはかることなどの6カ条でした。この同盟は、両
藩有志の密約で、具体的に武力討幕を目的としたものではありませんでし
たが、第2次長州征伐で、長州藩が幕府を破ったことで、薩長両藩は、討
幕の中心勢力となっていくのです。


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=第297回= 大政奉還(たいせいほうかん)

大政奉還とは、1867年10月14日、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」が、朝廷
に政権返上を願い出て、翌日、天皇の許しを得たことをいいます。

幕府は、江戸時代を通じて、国の統治権を持ち、独裁的に政治を動かして
きましたが、討幕運動が盛んになる中、政治の大権を朝廷に返すことによ
り、討幕運動の出鼻をくじこうとしました。

そして、幕府解体後、将軍を議長とし、徳川氏主導の政局運営を確保する
狙いがあったのです。

はやくから大政奉還を主張していたのは、土佐藩で、「坂本龍馬」の「船
中八策」の構想にもとづき「後藤象二郎」らが、藩論を大政奉還に統一し
ました。そして、後藤は、土佐藩前藩主の「山内豊信」に働きかけ、幕府
に大政奉還の建白書を提出しました。

一方、薩摩藩は、公卿「岩倉具視」の工作を通じて、武力討幕を計画して
いました。10月14日に、薩摩・長州両藩に「討幕の密勅」が出されました
が、これが、くしくも大政奉還と同じ日で、翌日に大政奉還が勅許された
ため、実行されることはありませんでした。

しかし、武力討幕でなければ日本は変わらない考えた討幕派は、12月9日、
「王政復古の大号令」を出し、慶喜の官職と土地を返上させる辞官納地を
決定し、挑発しました。

これにより、旧幕府軍と新政府軍の戦いが始まり、旧幕府軍は敗北したた
め、大政奉還のもくろみは崩れ去ったのです。


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=第298回= 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)

王政復古の大号令とは、大政奉還により江戸幕府が倒れ、政権が明治政府
へ移る過程で、新政府側が、1867年12月9日に出した宣言のことで、薩摩
藩士の「大久保利通」「西郷隆盛」や公卿の「岩倉具視」らが行いました。

15代将軍「徳川慶喜」は、1867年10月、大政奉還を行い、政権を朝廷に返
還しましたが、これは、朝廷側に政権を担当する実力がともなわず、実質
的な権力は徳川家に残ると踏んでのことでした。

しかし、これに気づいた朝廷側は、あくまで徳川家の無力化をはかるため、
「摂政・関白と幕府」を廃絶し、「総裁・議定(ぎじょう)・参与」の三職
を置くこと、「諸事を神武天皇創業のころに復帰」することなどを宣言し
ました。

その目的は、徳川家のいっさいの参政権をうばってしまうことだったため、
同年、幕府方と朝廷方の間で「戊辰戦争」が始まりますが、翌年、朝廷方
が勝利し、江戸幕府は、完全に滅びました。


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=第299回= 戊辰戦争(ぼしんせんそう)

戊辰戦争とは、王政復古の大号令によって成立した新政権が、旧幕府勢力
や諸藩軍を平定していく一連の戦争のことを言います。

戦争は、まず、1868年(明治元年)の「鳥羽・伏見の戦い」にはじまりまし
た。そして、官軍の東征、江戸の開城、越後の長岡城攻防戦や奥羽越列藩
同盟の中心、会津若松城攻撃などがあり、翌年の「五稜郭の戦い」で、旧
幕府軍が降伏するまで続きました。

尚、戊辰戦争は、戦争のはじまった1868年の干支が「戊辰」であることか
ら、こうよばれています。


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=第300回= 鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)

鳥羽・伏見の戦いとは、戊辰戦争の発端となった戦いです。

1867年12月の「王政復古の大号令」によるクーデタ後、新政権は、薩摩・
長州藩を中心とする「武力討幕派」と、旧幕府も含めた平和的諸藩連合を
めざす土佐藩ら「公議政体派」が、微妙な力関係で構成されていました。

そして、翌1868年1月3日、慶喜の辞官納地などの処置に憤慨した大坂の
幕府の兵が、大挙入京し、戦いが始まりました。その結果、薩長軍が、徳
川慶喜ひきいる会津・桑名藩兵に勝利し、慶喜追討令が発せられ、東征軍
が形成されることになります。

慶喜は、大坂城を出て大坂を出帆、海路、江戸に逃げました。これをうけ
て、西日本の諸藩は、新政府に忠誠を誓うこととなり、三井らの富商も新
政府支持にまわりました。


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