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=第301回= 江戸開城(えどかいじょう)

江戸開城とは、1868年の官軍の攻撃に対し、江戸城を無血で明け渡した出
来事を言います。

1868年2月、新政府は、江戸に逃れた「徳川慶喜」を朝敵とみなし「有栖
川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王」を大総督宮に任命し、東海・
東山・北陸の3道に分かれて征討軍を派遣しました。そして、東国の諸藩
主に勤王を誓わせながら、江戸城総攻撃を目指し、進軍しました。

こうした動きの中、慶喜は、上野寛永寺に謹慎し、恭順の意志を示しまし
たが、大総督府は、江戸城総攻撃を3月15日と定めました。

このとき、局外中立を表明していたイギリス公使「パークス」は、江戸が
戦場になるのをおそれ、新政府に江戸城総攻撃の中止を申し入れました。

そして、緊迫した情況の中で、旧幕府陸軍総裁の「勝海舟」と大総督府参
謀の「西郷隆盛」が談判、江戸城の無血開城が決まったのです。


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=第302回= 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)

奥羽越列藩同盟とは、戊辰戦争の際、奥羽・北越の諸藩が、官軍に抗戦す
るために結んだ軍事同盟のことです。1868年、仙台・米沢の両藩の主唱に
より東北25藩と越後の6藩が参加しました。

鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津軍は、江戸に引き揚げた後、帰藩し、藩主
「松平容保(まつだいらかたもり)」は、隠居して恭順の意を示していまし
た。

しかし、東北諸藩に会津藩追討令が出され、諸藩は、会津藩の赦免を願い
出たものの拒否されたため同盟を結成し、新政府に抵抗しました。

舞台を北越・東北地方に移した戊辰戦争は、激戦となりましたが、新政府
軍が、長岡城をおとし、会津藩が降伏したことで大勢が決まり、諸藩も恭
順して同盟は崩壊しました。


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=第303回= 五稜郭の戦い(ごりょうかくのたたかい)

五稜郭の戦いとは、旧幕府軍と新政府軍の戦いである「戊辰戦争」の最後
となった戦いで、箱館戦争ともいいます。

旧幕府軍の艦隊を率いた「榎本武揚(えのもとたけあき)」は、1868年8月、
旧幕臣をのせて江戸湾を出発し、10月には、仙台で敗走する旧幕臣を同乗
させ、蝦夷地に向かいました。

そして、10月末から11月に、箱館の五稜郭や松前の福山城を占領し、五稜
郭に拠点を置き、12月には、榎本を総裁とする政権を樹立しました。この
政権は、明治新政府に敵対するものではなく、北海道に領地を求めたもの
でした。

しかし、翌1869年4月、新政府軍は、江差近くに上陸し、5月に、箱館五
稜郭をめぐる戦いが行われ、旧幕府軍は、新政府軍に敗れることになりま
す。これにより、1年半におよんだ戊辰戦争は終結しました。


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=第304回= 明治維新(めいじいしん)

明治維新とは、19世紀後半、江戸時代の幕藩体制から明治の近代天皇制に
移り変わった政治変革の総称を言います。

1868年、260年 以上の歴史を誇る江戸幕府は、薩摩藩や長州藩など西南雄
藩を中心とする勢力に倒されました。そして、新政府は、殖産興業・富国
強兵をスローガンとし、さまざまな政策を実施することになります。

この大変革により、日本は、近代国家としての体裁を整えていきました。


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=第305回= 五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)

五箇条の御誓文とは、1868年3月14日に発表された明治新政府の基本方針
のことです。明治天皇が、五箇条の国是を神々に誓うという形で出されま
した。

誓文は、第1条の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」以下、会議政治
を理想とし、世論の尊重や開国和親の方針を示しています。

原型は、福井藩士の由利公正(ゆりきみまさ)が起草した「議事之体大意」
をもとに、土佐藩公議派の福岡孝弟(ふくおかたかちか)により加筆・修正
された「会盟」5か条です。これは、列侯会議の開催を前提にその盟約書
として書かれたもので、天皇と大名が盟約するかたちで国是を定めようと
するものでした。

その後、天皇と大名が盟約する案に、三条実美らが反対、政府顧問の木戸
孝允がさらに手を加えました。中でも第1条の「列侯会議ヲ興シ万機公論
ニ決スベシ」の「列侯会議」が「広ク会議」に修正されたことで、より天
皇の主体性が前面に示されました。

尚、原文は、次のとおりです。

 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン
   事ヲ要ス
 一 旧来ノ陋習を破リ天地ノ公道ニ基クベシ
 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ


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=第306回= 五榜の掲示(ごぼうのけいじ)<明治時代>

五榜の掲示とは、五箇条のご誓文の出された翌日(1868年3月15日)に、明
治新政府が立てた高札のことです。

新政府の対民衆政策の基本が示されたのですが、全体的に、旧幕府の人民
取締り令とかわりがなく、五箇条のご誓文で示された理想や開明的な姿勢
が、いかに表面的なものだったかがわかります。

この日、政府は、旧幕府の高札を撤去し、代わりに人民のまもるべき5つ
の太政官札の掲示を命じました。内容は、

 第1札 五倫の道徳の遵守と殺人・放火・強盗の禁止
 第2札 徒党・強訴・逃散の禁止
 第3札 キリスト教・邪宗門の禁止
 第4札 外国人への暴行の禁止
 第5札 士民の国外脱走を禁止

で、第1〜3札は、定三札とよばれて永世法とされ、第4〜5札は、覚札
と呼ばれ、一時的な掲示とされました。

しかし、諸外国からの抗議により、1871年10月、政府はまず第5札を取り
外し、更に、1873年2月には、すべての高札の撤去が命じられました。


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=第307回= 版籍奉還(はんせきほうかん)<明治時代>

版籍奉還とは、1869年、諸藩主が「領地(版図)」と「領民(戸籍)」を朝廷
に返上した改革のことです。明治政府の中央集権化政策の1つで、「大久
保利通」「木戸孝允」らが建議しました。

新政府は、財源の確保のため、各藩の領地献納を検討していました。そし
て、1868年、姫路藩による版籍奉還の願い出をきっかけに、版籍奉還構想
を具体化することになります。

翌1869年、大久保利通・広沢真臣・板垣退助らは、京都で会合し、薩長土
肥の4藩主が、連名で版籍奉還を願い出る建白書を提出することに合意し、
4藩主が、建白書を提出しました。また、これに同調して、版籍奉還を願
い出る藩主も相次ぎました。

この年、箱館戦争に勝利し、戊辰戦争に決着をつけた新政府は、藩主を東
京に集め、版籍奉還の是非について諮問し、異論のないことを確認しまし
た。そして、諸藩の建白を受理・許可し、奉還建白書を提出していなかっ
た藩主14名には、提出を強制しました。

最終的に奉還した藩主の数は、274名 で、各藩主は、あらためて天皇から
知藩事に任命されました。


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=第308回= 廃藩置県(はいはんちけん)<明治時代>

廃藩置県とは、1871年、明治政府が、旧幕府以来の大名領である「藩」を
廃止し「県」を設置した政治改革のことです。この改革により、幕藩体制
は廃絶され、中央集権的な国家体制が確立しました。

1869年には、版籍奉還が行われましたが、旧藩主を知藩事に任命するとい
う形をとっていたので、軍令権や徴税権は、依然として藩が握っていて、
政府が目指す強力な中央集権化には、程遠いものでした。

そこで、政府は、岩倉具視を勅使として鹿児島に派遣し、薩摩藩の「西郷
隆盛」に上京を命じて、政府首脳陣に加えました。また、薩摩・長州・土
佐の3藩から「御親兵」を募って組織し、武力を固めました。

そして、1871年、7月14日、在京の知藩事を皇居に集め、明治天皇から廃
藩置県が命じられることになります。これにより、それまでの知藩事は免
職され、各府県には、中央政府が任命した府知事・県令が派遣されること
になりました。

府県は、はじめ3府 302県でしたが、11月には、整理統合されて3府72県
となり、県治条例も布達されて統一的な地方制度ができあがっていきまし
た。尚、1888年には、3府43県となり、定着することになります。


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=第309回= 藩閥政府(はんばつせいふ)<明治時代>

藩閥政府とは、明治維新で中心的役割をはたした薩・長・土・肥の4藩、
特に、薩長出身者が、政府の要職を独占したことを言います。

彼らは、非常に人的結合が強く、政官界や軍の要職を占め、権力を長く独
占したため、排他性による弊害が生じました。

1867年、王政復古の大号令とともに生まれた維新政府は、当初は、皇族・
公家・大名・諸藩士の集まりでしたが、戊辰戦争を経て、廃藩置県がおこ
なわれるころになると、4藩の出身者が中央と地方の要職を占めるように
なります。

そして、1885年に、内閣制度が成立しましたが、「伊藤博文」は、薩長閥
の均衡の上に初代内閣総理大臣となりました。その後も、伊藤と長州の山
県有朋、薩摩の黒田清隆、松方正義などが首相となり、また元老となって
政治の中枢にいつづけました。


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=第310回= 徴兵令(ちょうへいれい)<明治時代>

徴兵令とは、国民皆兵の方針により、満20歳以上の男子を兵籍に編入し、
兵役につかせるという法令のことです。1873年、明治政府によって出され
ました。

徴兵制とは、国民に兵役を義務づけて兵力を調達する制度で、近代の徴兵
制は、18世紀末のフランスにはじまり、19世紀になるとドイツ、イタリア
などが採用しました。

日本では、1872年に、徴兵の詔がだされ、翌年、徴兵令が布告されて始ま
りました。当時の明治政府は、十分な直属軍事力を持っていなかったため、
常備軍の拡充が急がれていました。そこで、フランスにならった徴兵制を
採用することになります。

しかし、1873年の布告では、家の存続をはかるため広範囲の兵役免除規定
があり、金銭による代人制も認められていました。そのため、1879年と83
年に一部を改正し、89年に大改正されました。大改正では、それまでの免
役規定と代人制をやめて国民皆兵が実現し、満17〜40歳の男子に兵役が義
務づけられました。また、同じ年に発布された大日本帝国憲法では、兵役
は臣民の義務とされました。

その後も戦争のたびに改定され、1927年には徴兵令から兵役法にあらため
られましたが、1945年の第2次世界大戦の敗戦により廃止されました。


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