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=第311回= 地租改正(ちそかいせい)<明治時代>

地租改正とは、明治政府がおこなった「土地制度・租税制度」の大改革の
ことです。新政府の財政基盤を確立するために行われました。

当時、明治政府の主要な財源は、旧幕府時代を引き継いだ年貢だったので、
財政は困難をきわめていました。そこで、廃藩を機会に、石高制による貢
租制度の廃止をめざしました。

まず、1871年、地価を定めて地券を発行し、土地に対する私的所有権を認
めました。そして、この地券制度をもとに、1873年「地租改正条例」を公
布しました。

内容は、課税の基準を「地価」とし、地価の3%を「金納」させるという
もので、土地所有権者に納税義務を課しました。これにより、それまでの
収穫高を基準に物納という形が改められ、豊凶にかかわらず、政府は、安
定した収入を得ることができるようになりました。

しかし、地価の算定根拠の収穫料は、実際の収穫量より過大なものだった
ので、各地で、地租改正反対一揆がおき、1877年、地租は 2.5%に減額さ
れることになります。


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=第312回= 四民平等(しみんびょうどう)<明治時代>

四民平等とは、封建的な身分制度であった「士農工商」を撤廃し、華族・
士族・平民の3族籍に再編されたことを言います。平民には、苗字が与え
られ、華士族との通婚や職業移転の自由が認められ、形の上では、平等が
実現しました。

華族とは、公卿、大名や維新の功臣、士族とは、旧幕臣や旧藩士、平民と
は、農工商に与えられた呼称です。また、江戸時代に、えた・非人と呼ば
れていた人々も、追って平民とされました。

しかし、実際には、皇族(天皇の一族)のほかに、華族、士族を編成した上
での、平民だったことや、えた・非人の差別解消のための積極的な政策を
実施しなかったことから、完全な平等は実現しませんでした。


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=第313回= 秩禄処分(ちつろくしょぶん)<明治時代>

秩禄処分とは、1876年、明治政府が、封建的秩禄制度を廃止したことを言
います。

1869年、旧来の公家・領主・武士は、華族や士族となりましたが、政府は、
廃藩置県後、江戸時代からの家禄と、維新時の功績への賞典禄を支給して
いました。そして、それは成立まもない政府の財政支出の40%以上を占め、
財政を圧迫していました。そのため、政府は、財政負担を減らすために処
分を実行する必要がありました。

まず、1873年、家禄税制によって、家禄が高額であるほど税負担が高くな
るようにしました。同時に家禄奉還制も交布し、家禄の返還を希望する者
への優遇策を設け、家禄者を減らしました。

そして、1875年には、家禄・賞典禄とも定額の現金支給とし、76年には、
金禄公債証書発行条例により、前年からの金禄はすべてやめ、秩禄処分が
断行されました。


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=第314回= 廃刀令(はいとうれい)<明治時代>

廃刀令とは、1876年、明治政府が、軍人・警察官以外の帯刀を禁止させた
命令のことです。

廃藩置県後、政府は、士族の身分的特権の解消に努め、1871年に、脱刀の
自由を認めました。そして、徴兵制が施行され、士族の軍事職の専有制を
廃止しました。

1875年、陸軍卿「山県有朋(やまがたありとも)」は、国軍の権限を確立す
るため、軍以外の武装を解消すべきであるという考えから、士族の脱刀の
自由を一歩進め、帯刀を禁止する必要があると建言し、翌1876年、廃刀令
が布告されました。

この布告により、特権を失った士族の不満は、ますます高まり、以後、士
族反乱の一因となりました。


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=第315回= 岩倉使節団(いわくらしせつだん)<明治時代>

岩倉使節団とは、1871〜73年に「岩倉具視(いわくらともみ)」を特命全権
大使とし、アメリカとヨーロッパを訪れた明治政府の使節団のことです。

条約改正の予備交渉の意図を持って派遣されました。

派遣されたのは、大使の「岩倉具視」のほか、副使としての「木戸孝允」
「大久保利通」「伊藤博文」「山口尚芳」に加え、新政府の要人や、各省
の書記官、理事官、随行員など、ほぼ50名前後でした。

また、約60名の留学生が同行し、中には、後に女子英学塾(津田塾大学)を
創立する「津田梅子」ら5人の女子留学生や、後に民権思想の普及につと
めた「中江兆民」らがいました。

使節団一行は、サンフランシスコからアメリカ入りし、大陸横断鉄道で、
ワシントンに着き、国書を渡す儀式の後、予備交渉に入りました。しかし、
会談を重ねても交渉はまったく成果をあげませんでした。

そこで、一行は、予備交渉をやめ、それからは、社会政治制度と文物の調
査研究がおもな目的となります。

その後、一行は、イギリスへ向かい、岩倉らは、ビクトリア女王に謁見、
ついでヨーロッパ大陸を訪れ、フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・
ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア・スイスと
まわりました。

そして、1873年7月、マルセイユを出港し、完成したばかりのスエズ運河
を通り、インド洋へ出て、東南アジアを経由し、帰国しました。


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=第316回= 征韓論(せいかんろん)

征韓論とは、朝鮮の鎖国排外政策を武力で打破し、国交を開き、勢力を伸
ばしていこうという外交政策論のことです。

江戸後期、国学が盛んになると朝鮮蔑視論がおこり、アヘン戦争の実態を
知った人々の間に、欧米の強大な軍事力に対抗するため、朝鮮を侵略して
国力を高めようという考えが生まれました。

江戸幕府は、対馬の宗氏を使って朝鮮と通商してましたが、明治政府は、
外務省が外交をおこなうことにして宗氏を排除し、対朝外交の一新をはか
りました。しかし、当時の朝鮮は、排外鎖国政策をとっており、政府の望
む形の国交交渉は進みませんでした。

そこで、1873年、打開策として使節の派遣と、居留民保護を名目とした派
兵が計画され、まず、西郷隆盛を正使として派遣することを決めました。
しかし、帰国した岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通らは内政改革や国力
充実の優先を主張して反対したため、決定をくつがえして正使派遣は中止
されました。

これにより、西郷隆盛や板垣退助ら征韓論を唱える政府首脳は辞職し、政
府は分裂することになります。しかし、大久保らの内治優先論も、朝鮮侵
略そのものを否定したわけではなく、方法と時期がちがうだけのことでし
た。大久保らは、1875年に、江華島事件をおこし、朝鮮を開国させました。


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=第317回= 日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)<明治時代>

日清修好条規とは、1871年、日本と中国の清の間に結ばれた初めての修好
通商条約のことです。国交を開き、親交関係を結ぶことを定め、修好条規
18条の他、通商章程、海関税則を含みます。

この条約は、日本が外国と結んだ最初の「対等条約」で、相互に開港し相
互に領事裁判権を認めることなどを定めました。

明治政府は、当初、清とドイツが結んだ条約と同様の草案を提出し、中国
において欧米列強なみの特権を得ようとしましたが、結果として、欧米列
強間との不平等条約の中心だった領事裁判権と、協定関税率をお互い承認
しあうという変則的な対等条約となりました。

しかし、政府内部に、この内容への不満もあったため、批准書が交換され
たのは、1873年になってからです。そして、1894年に、日清戦争がはじま
り効力を失いました。


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=第318回= 台湾出兵(たいわんしゅっぺい)<明治時代・1874年>

台湾出兵とは、1874年、日本が清国の台湾に出兵した事件のことで、征台
の役ともいいます。

1871年、台湾に漂着した琉球諸島の漁民66名のうち54名が殺害されるとい
う事件が起きました。明治政府は、琉球諸島民は日本人であるとし、その
責任を追及しましたが、清国は、台湾先住民は統治外にあるとし、責任を
取らなかったため、出兵することになります。

当時は、征韓論論争による明治6年の政変後、権力をにぎっていた「大久
保利通」らが出兵計画をすすめ、西郷隆盛の弟「西郷従道」に指揮をとら
せました。

1874年4月、出兵直前に、イギリス・アメリカの反対で政府は中止を決定
しましたが、西郷従道は独断で派兵し、6月初めには台湾をほぼ制圧しま
した。

そして、駐清イギリス公使ウェードの調停により、「日清互換条款」を結
び、解決することになります。これにより、日本は、清国より、琉球を日
本領とする事実上の承認と賠償金を得、琉球王国を併合する「琉球処分」
に乗り出すことになります。


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=第319回= 江華島事件(こうかとうじけん)<明治時代>

江華島事件とは、1875年、日本と朝鮮の間で起きた武力衝突事件のことで、
雲揚号事件ともいいます。

明治政府は、朝鮮との国交交渉が進まなかったので、軍艦を派遣して挑発す
る方針を立て、雲揚号などの軍艦を予告なしに釜山に入港させました。

これに対し、朝鮮は抗議しましたが、それを無視し、雲揚号は、首都漢城を
守る重要な防衛線である江華水域に入ったため、朝鮮は、江華島南端の砲台
から砲撃しました。

これを見た雲揚号は、ただちに応戦し、砲台に損害を与え、江華島の南の永
宗島の要塞を襲撃、上陸して占領することになります。

その結果、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対を抑え、日本との国交回復を
検討することになり、翌1876年、朝鮮にとって不利な「日朝修好条規」が締
結されました。


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=第320回= 日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)<明治時代>

日朝修好条規とは、「江華島事件」後、1876年に、日本と朝鮮の間で締結さ
れた修好条約のことで「江華条約」ともいいます。

日本側の全権は、黒田清隆・井上馨で、釜山のほか2港の開港、日本の領事
裁判権の承認、無関税特権の獲得など、朝鮮にとって不利な内容でした。

後に、開港する釜山以外の2港は、仁川、元山と決まりました。


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