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=第321回= 樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)

樺太・千島交換条約とは、1875年、日本とロシアの間で国境を確定するた
めに調印された条約のことです。日本側の代表は、特命全権公使「榎本武
揚(えのもとたけあき)」で、榎本は、ロシアの首都サンクト・ペテルブル
グで、アジア局長スツレモフと交渉を重ね、首相兼外相のゴルチャコフと
調印をかわしました。

日本とロシアの国境は、1854年に締結された日露和親条約によって、千島
列島では、択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれ、南を日本領、北を
ロシア領としていました。しかし、樺太(サハリン)では、アイヌによる交
易活動もあって、両国民が雑居していたため、樺太には、両国間の境界を
設けませんでした。

明治維新後、樺太では、両国民の紛争がたえず、交渉が重ねられましたが、
国境確定までにいたらず、1873年には、開拓次官「黒田清隆」が、北海道
開拓を最優先して、利益の出ない樺太経営を放棄することを提案しました。

この条約で、宗谷海峡を国境に樺太全島は、ロシア領となり、千島列島全
島が日本領土となりました。しかし、日露間の北方領土問題は、この条約
が、どの時点で失効したかをめぐって現在も紛糾しています。


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=第322回= 殖産興業(しょくさんこうぎょう)

殖産興業とは、明治時代前期に、政府が推進した「産業育成政策」のこと
で、官営模範工場や直営事業場などを中心に行いました。

新政府は、アジアに進出した欧米列強に対抗するため、富国強兵を急ぎま
した。そのため、産業を振興し、生産を増やす必要がありました。

1870年、政府は、統括官庁として工部省を設置し、本格的に近代工業の移
入に乗り出し、1873年、岩倉使節団の帰国後、内務省を設置し、殖産興業
の推進機関としました。

しかし、内務省による殖産興業政策も綿業・蚕糸業以外に、あまり成果が
がなく、民間へのよけいな干渉と浪費だとして非難されたこともありまし
た。後に、民業育成へと方針が転換し、官営事業は縮小され、1884年以降、
鉄道・電信・郵便などを除き、政商などを中心に民間に払い下げられるこ
とになります。


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=第323回= 富国強兵(ふこくきょうへい)

富国強兵とは、経済発展と軍事力強化による近代国家の形成を目標とした
明治時代初期のスローガンです。

江戸時代末期に開国した日本は、アジアに進出していた欧米列強に対抗す
るため、経済を発展させて国の財政を豊かにし、軍備を充実させて、欧米
列強に負けない武力を持つ必要がありました。

そこで、地租改正により、財政収入の基礎を確立し、徴兵令によって近代
的な軍隊が作られました。

また、近代産業の育成、農業の近代化、貨幣や金融制度の整備、交通や通
信機関の発達などの「殖産興業」政策も、富国強兵を目指して進められま
した。


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=第324回= 富岡製糸場(とみおかせいしじょう)

富岡製糸場とは、明治政府が、群馬県の富岡に開業した製糸の「官営模範
工場」のことです。富岡は、周辺の養蚕地帯から優良な繭が供給できるこ
とと製糸に必要な水が豊富だったことから選ばれました。

この工場を指導したのは、フランス人技師ポール・ブリューナで、フラン
ス製の機械を使用し、近代的熟練工を養成しました。

働く女工の中には、士族や豪農の娘が多く、彼女らは、技術を習得し、帰
郷して、地元の製糸場に富岡の新技術を教えたため、富岡製糸場は、技術
を広める役割も果たしました。

そして、1893年、官業払下げで三井家の経営となり、その後、1902年に、
原合名会社、1938年に、片倉製糸(戦後、片倉工業)へと移り、1987年に、
操業を停止しました。


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=第325回= 文明開化(ぶんめいかいか)

文明開化とは、西洋文明の導入によって政治・経済制度が大きく変化し、
人々の生活習慣にも影響した明治時代前期の社会動向をいいます。

明治維新後のあいつぐ変化は、文明国にむけての進歩だと喧伝されたこと
もあり、時代風潮を簡潔に表現する言葉として新聞・雑誌や小説に頻繁に
使用され、当時の流行語となりました。

文明開化は、俗謡にもうたわれ、「チョンマゲ頭をたたいてみれば因循姑
息の音がする、ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」は、特
に有名です。

尚、「文明開化」という新熟語は、福沢諭吉が「西洋事情」外編の中で英
語のシビリゼーションの訳語としてはじめて使いました。


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=第326回= 士族反乱(しぞくはんらん)<明治時代>

士族反乱とは、1874年〜1878年に、新政府の政策に不満をもつ士族が起こ
した反乱のことです。

明治維新後、武士の特権は、次々に剥奪されていきました。徴兵制が施行
され、秩禄処分が進行する中、大多数の士族は、軍人や官僚にもなれず、
将来への不安からくる不平不満を持っていました。

この不満を解消するため、朝鮮侵略に士族を活用しようと、征韓論が強く
なっていきます。しかし、1873年、政府内部で、征韓論が敗れ、西郷隆盛
や板垣退助などが下野すると、不平士族が結党し、組織的な政府批判行動
を取り始めるようになりました。

まず、1874年に、佐賀では、征韓論に敗れ下野した元司法卿の「江藤新平」
を擁し「佐賀の乱」が起こりましたが、大久保利通らの政府軍はこれを徹
底的に鎮圧し、呼応する動きを抑えました。

しかし、1876年に廃刀令が出され、更に最終的な秩禄処分が行われると、
収入を失った士族の怒りは頂点に達し、熊本県で「神風連の乱」、福岡県
で「秋月の乱」、山口県で「萩の乱」と立て続けに反乱が起きました。

密接な連絡をとった連続蜂起でなかったため個別に鎮圧されましたが、翌
1877年、西郷隆盛ら鹿児島県士族による「西南戦争」が起きました。

この反乱が終結後、士族反乱は終息に向かい、1878年、大久保利通が暗殺
された「紀尾井坂の変」が最後となりました。以後、政府に対する抵抗は、
自由民権運動に移っていくことになります。


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=第327回= 西南戦争(せいなんせんそう)<明治時代・1877年>

西南戦争とは、九州で起きた最後で最大の「士族反乱」のことで西南の役
と呼ばれることもあります。1877年に、鹿児島の私学校生を中心とした士
族が「西郷隆盛」を擁して挙兵しました。

戦いは、鹿児島県から熊本鎮台へ向かって進んだ西郷軍に、九州各地から
多くの不平士族が参加してはじめられました。しかし、西郷軍は、熊本城
に置かれた熊本鎮台を攻めるものの落すことができず、博多から南下した
政府軍と激しく交戦することになります。

そして、田原坂で敗退すると、その後は守勢にまわり、海軍による輸送力
で次々と員数を増していく政府軍に押されるようになりました。

政府軍は、できてまもない徴兵軍でしたが、新式装備でかため、火力で圧
倒しました。西郷軍は、熊本県南部から宮崎県を転戦したものの、支えき
れず解散することになります。

西郷らは、一部の者とともに、鹿児島の城山にこもりましたが、結局、主
な者が、自刃・戦死して終結しました。

この戦いが鎮圧されたことにより、政府軍の実力が認められ、士族反乱に
終止符が打たれます。そして、以後は、言論による反抗の世に変わってい
きました。


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=第328回= 紀尾井坂の変(きおいざかのへん)<明治時代・1878年>

紀尾井坂の変とは、参議兼内務卿の「大久保利通」が、石川県士族「島田
一良」らに暗殺された事件のことです。1878年5月14日、自邸を出て、赤
坂仮皇居に向かう途中の紀尾井坂下で刺殺されました。

前年、「木戸孝允」が病没し、西南戦争で「西郷隆盛」が自刃すると、維
新の三傑中、大久保のみが政府に留まり、独裁政治家として君臨していま
したが、この事件により、維新の三傑の活動は終わりました。


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=第329回= 自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)<明治時代>

自由民権運動とは、明治時代前期に、自由と民主的な権利の獲得を目指し
た政治運動のことです。政府に対して、国会の開設、憲法の制定、地租の
軽減、地方自治の実現、不平等条約撤廃などを要求しました。

当時の政府は、薩長中心の藩閥政治で、天皇制による絶対主義的国家の建
設をもくろんでいました。それに対し、この運動は、西欧流の立憲制度に
よる民主主義的な国家を作ろうというものでした。

この運動の拡大に伴い、危機感を持った政府は、言論統制をする「讒謗律」
「新聞紙条例」「出版条例」「集会条例」などできびしく弾圧しました。

これに激怒した民権派は、平和的な手段ではなく武力による直接行動で政
府を打倒して要求を実現しようとしたため「福島事件」「群馬事件」「加
波山事件」「秩父事件」などの激化事件をひきおこしました。

しかし、政府は、これらの事件を武力で制圧して弾圧を強化したため、運
動はしだいに退潮していきます。そして、民権派の中でも、内部分裂もあ
って、大同団結運動を最後に衰退していきました。


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=第330回= 民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)

民撰議院設立の建白書とは、「国会の開設」を要求した建白書のことです。
1874年1月、征韓論に敗れ、下野していた「板垣退助」「副島種臣」「後
藤象二郎」「江藤新平」らが、「愛国公党」を結成し、政府に提出しまし
た。

政府は、時期尚早ということで、この建白書を無視しましたが、翌日、内
容を、新聞「日新真事誌」に発表したために、社会的な関心事となり、以
後、国会開設に向けての活動が活発になっていきます。

この建白書が、世論に大きな影響を与え、自由民権運動の口火となったの
です。


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