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=第341回= 群馬事件(ぐんまじけん)<明治時代・1884年>

群馬事件とは、1884年5月、群馬県で起きた自由党急進派と負債農民によ
る蜂起事件で、福島事件、秩父事件とならぶ自由民権運動の三大激化事件
の1つです。政府の弾圧と自由党幹部の妥協に憤った急進派が、困窮する
農民を組織して政府転覆を叫び、妙義山の麓に集結し、蜂起を企てました。

まず、警察や高崎鎮台を襲撃する計画を立てましたが、参加者が少なかっ
たこともあり、鎮台襲撃を中止し、富岡の警察署を襲うことを決定しまし
た。そのとき、農民側から、富岡までの途中にあった豪農の岡部為作宅を
襲う提案がなされ、決行することになりました。岡部家から借金をしてい
る者が少なくなかったためです。そして、岡部宅を襲い、家屋などを焼き
払いました。

しかし、この時点で農民は解散したため、事件は終息に向かいます。企て
は失敗し、46人が処罰されました。

この事件は、蜂起の規模は小さかったものの、自由党員と負債農民が結び
ついた点で、歴史的な意味を持ちます。そして、4カ月後の加波山事件、
半年後の秩父事件へと広がっていくのです。


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=第342回= 秩父事件(ちちぶじけん)<明治時代・1884年>

秩父事件とは、1884年、埼玉県秩父郡を中心に起こった蜂起事件で、自由
民権運動最大規模の激化事件として知られています。

当時、財政の最高責任者の大蔵卿「松方正義」は、厳しい緊縮政策をとっ
ていたため、デフレが進み、小企業や農民を圧迫していました。

秩父地方の農民も、生活の基盤としていた養蚕・製糸業に大きな打撃を受
け、さらに、地方税の増税、学校費の負担、秩父新道工事の賦役などが加
わり、多くの農民が負債をかかえるようになっていました。

そのような状況の中、1884年2月、自由党の「大井憲太郎」が、秩父で遊
説したのを機に、農民指導者たちが、自由党に入党し、自由民権運動と結
びついていきます。

その後、組織は拡大し、9月には「秩父困民党」が結成されました。総理
は、「田代栄助」で、借金の10年据え置きや、学校費の廃止、地方税の減
免などを要求して、請願運動をしましたが、ことごとく拒否されたため、
約1万の農民が蜂起したのです。

農民軍は、警官や役人を追い払い、高利貸しを襲撃しました。秩父現地の
警察は、壊滅状態になったため、政府は、憲兵隊や鎮台兵を差し向け、埼
玉、群馬の警察も加えて鎮圧しました。そして、総理の田代栄助ほか数名
を死刑とし、多くの者を、厳刑に処しました。


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=第343回= 内閣制度(ないかくせいど)<明治時代・1885年>

内閣制度は、1885年、太政官制に代わりに創設された内閣を行政府の最高
機関とする制度のことです。大日本帝国憲法制定に先だって導入されまし
た。初代内閣総理大臣は、「伊藤博文(いとうひろぶみ)」です。

内閣は、天皇により、内閣総理大臣が指名され、総理大臣が、外務、内務、
大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、逓信、農商務の各大臣を率いて組織しま
した。

ただし、宮内省・宮内大臣は、内閣には含まれず、宮中に仕えるものとさ
れ、内閣は、宮中に対して府中と呼ばれます。

初代内閣のメンバーは、次のとおり。

【内閣総理大臣】伊藤博文(いとう ひろぶみ)

  【外務大臣】井上 馨(いのうえ かおる)

  【内務大臣】山県有朋(やまがた ありとも)

  【大蔵大臣】松方正義(まつかた まさよし)

  【陸軍大臣】大山 巌(おおやま いわお)

  【海軍大臣】西郷従道(さいごう つぐみち)

  【司法大臣】山田顕義(やまだ あきよし)

  【文部大臣】森 有礼(もり ありのり)

  【逓信大臣】榎本武揚(えのもと たけあき)

 【農商務大臣】谷 干城(たに たてき)

※ ホームページに、日本の内閣年表があります。参考にしてください。


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=第344回= 三大事件建白運動 <明治時代・1887年>

三大事件建白運動とは、1887年、内外問題に対しておこされた政治運動の
ことです。「外交失策の挽回」「地租軽減」「言論と集会の自由」の3つ
の要求をかかげて行われました。中心人物は「片岡健吉」で、低迷してい
た自由民権派を活気づけました。

外交失策とは、外務大臣「井上馨」が進めてきた欧米との条約改正交渉を
指します。改正案には、外国人への全国全面開放、外国人判事の任用など
の項目が含まれていたため、国家主権の侵害だということで、国民だけで
なく政府内部からも批判されました。農商務大臣の「谷干城」は、この案
に反対して辞職しています。また、井上馨も、この一件で辞任しました。

この件を機に、3つの要求を掲げた民権運動家の反政府運動は、1道3府
35県の代表者が参加するほどの盛り上がりをみせました。しかし、政府は、
「保安条例」を出し、約 570人の活動家を皇居外三里の地に追放し、運動
を抑えました。


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=第345回= 保安条例(ほあんじょうれい)<明治時代・1887年>

保安条例とは、1887年12月25日に公布、施行された、反政府運動を弾圧し
た法令のことです。秘密結社、秘密集会、秘密出版の禁止、屋外の集会運
動の制限などを定めました。

この条例は、三大事件建白運動や大同団結運動などの自由民権運動の高揚
に対し、内務大臣「山県有朋」は、民権論者を東京から追放し、運動を弾
圧する目的で制定したものです。

そして、「尾崎行雄」「片岡健吉」「中江兆民」「星亨」らが、皇居から
3里以遠への退去を命じられました。しかし、片岡ら11名が拒否して投獄
されています。尚、この条例が、廃止されるのは、1898年です。


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=第346回= 大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)

大同団結運動とは、1886年から89年に展開された自由民権運動諸派の統一
的な反政府運動のことです。三大事件建白運動と呼応して、旧自由党と立
憲改進党の有志が集まり、全国有志大懇親会が開かれ、小異を捨てて大同
を旨とする反政府運動が提唱されました。

これに対し、政府は、保安条例を制定して弾圧しました。また、1888年に
は「大隈重信」を外相に入閣させて運動を分断、さらに89年には、中心人
物の「後藤象二郎」を逓信相にして運動から離れさせたため、この運動は
終わりを告げることになります。


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=第347回= 枢密院(すうみついん)

枢密院とは、天皇の諮問に応えて重要な国務を審議する機関のことです。
1888年、大日本帝国憲法の草案などを審議するために設置され、初代議長
に「伊藤博文」が就任し、帝国憲法制定後、恒久機関となりました。

創設の狙いは、議会開設後に予想される藩閥政府と議会との対立の際に、
調停者として機能させることで、諮問事項は、「憲法および憲法付属法令
の改正案」「重要な勅令」「外国との条約および行政組織計画」「その他
特に諮問された事項」などでした。

1900年、山県有朋内閣は、天皇の御沙汰書によって枢密院への諮問事項を
拡大し、権限が強化しました。そして、政党内閣が出現すると、枢密院は、
政府の民主的政策や国際協調外交にことごとく反対し、1925年の普通選挙
法の制定のときには治安維持法との抱き合わせをはかりました。

また、1927年には、台湾銀行救済の緊急勅令を否決して若槻礼次郎内閣を
倒し、1930年のロンドン海軍軍縮条約の批准では、統帥権干犯問題で浜口
雄幸内閣を攻撃しました。

しかし、1931年の満州事変以後、政党勢力が後退し、軍部の台頭が顕著に
なるにつれ影響力は低下しました。そして、戦後、日本国憲法の施行によ
り廃止されることになります。


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=第348回= 大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)

大日本帝国憲法は、アジア初の近代憲法で、「明治憲法」とも呼ばれます。
君主権の強いドイツの憲法を見本にし、伊藤博文らの起草で、1889年2月
11日に発布されました。

この憲法は、天皇を元首とし、国民を臣民とした「主権在君制」で、強大
な天皇大権が存在しましたが、臣民の権利を定める権利宣言を憲法典の重
要な構成要素としたほか、大臣責任制、司法権の独立などを定めており、
近代的立憲体制が整ったと言ってよいでしょう。

しかし、皇室自律主義や統帥権の独立、軍部大臣現役武官制、特別裁判所
の存在などの例外が、他の法令や慣習で認められたため、大正時代にみら
れた議院内閣制的な運用の足かせとなり、崩壊の原因ともなりました。

そして、この憲法は、太平洋戦争後の、1947年5月3日に「日本国憲法」
が施行されるとともに廃止されることになります。


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=第349回= 帝国議会(ていこくぎかい)

帝国議会とは、大日本帝国憲法下における最高立法機関のことです。衆議
院と貴族院の二院制で、1890年11月から1947年3月まで、57年間存続しま
した。

1889年、大日本帝国憲法が発布され、翌1890年に、最初の衆議院議員選挙
が行われ、開始されましたが、天皇大権が強かったため、議会は、権限が
弱く、協賛機関にすぎませんでした。

そして、1947年の日本国憲法の施行とともに、帝国議会は、国会となり、
現在に至ります。


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=第350回= 貴族院(きぞくいん)<1890年〜1947年>

貴族院とは、大日本帝国憲法の下で、立法機関として、衆議院とともに帝
国議会を構成していた議院のことで、世襲または互選による皇族・華族議
員と、天皇が任命する勅選議員で構成されました。

勅選議員とは、官僚や軍人などの国家勲功者や学識者、各府県1人選ばれ
た多額納税者のことです。

貴族院は、予算の先議権こそありませんでしたが、そのほかは、衆議院と
ほぼ同等の権限を持ち、立法権行使において、しばしば衆議院の議決を制
限し、国民の意思を政治に反映させる機能を弱めました。

尚、この議院は、第二次世界大戦後、1947年の日本国憲法の施行にともな
い消滅することになります。


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