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=第81回= 源平の争乱 〜第3期〜 <1184年2月〜1185年3月>

いよいよ源平の争乱も最終段階です。源氏,平氏の両勢力が瀬戸内海を舞
台に大激突しました。主な戦いは次のとおりです。

1184年2月 一ノ谷の戦い・・・摂津国(現在の兵庫県)
        ↓
1185年2月 屋島の戦い・・・・讃岐国(現在の香川県)
        ↓
1185年3月 壇ノ浦の戦い・・・長門国(現在の山口県)

「一ノ谷の戦」は,義経が鵯越(ひよどりごえ)の断崖を騎馬のままかけくだ
って平氏の陣を奇襲したことで有名です。この戦いで有力武将をうたれた平
氏は,「屋島」に逃れました。

平氏は,当時瀬戸内海を中心に勢力圏を維持していましたので「屋島」を根
拠地としたのです。

源氏は,範頼が九州へわたり,平氏を挟撃する作戦をとりました。義経は,
大嵐の中をわずか5艘の船で屋島にわたり,平氏の背後から奇襲攻撃を仕掛
け,平氏は海上へのがれました。

そして,彦島(山口県下関市)を拠点とした平氏が最後の決戦にのぞんだ戦い
が「壇ノ浦の戦い」です。はじめは,平氏が有利でしたが,源氏は,熊野と
伊予の水軍を味方につけ勝利し,平氏は滅亡したのです。


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=第82回= 守護(しゅご)

守護とは,鎌倉時代,室町時代におかれた『武家の軍事的行政官』です。
1185年,源義経の追討を理由として,全国に設置することが公認され,頼
朝に任命権が与えられました。

鎌倉時代は,原則として「国ごと」に1人が,有力御家人から任命され,
権限は,謀反人の追討,殺害人などの逮捕,皇居や京都または鎌倉の警固
などでした。国内の御家人たちを指揮して「治安維持」と「警察権」を行
使するとともに,戦時の際には国内の武士の指揮にあたる任務をもってい
たのです。

鎌倉時代末期になると,国内の地頭・御家人を支配し,荘園を侵略して領
主化の方向にすすみました。また,室町時代になり,南北朝期以降は,権
限も広がり,しだいに地域権力として自立して,守護大名へと変質してい
くことになりますが,この辺は,守護大名を勉強するときに説明します。


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=第83回= 地頭(じとう)<おもに鎌倉時代>

地頭とは「荘園」や「公領」ごとにおかれた役職名です。おもに『年貢の
徴収・納入』と『土地の管理』や治安維持にあたりました。

平氏政権のもとでも一部に置かれていましたが,事実上『源頼朝』が任命
権を得た1185年以降と考えていいでしょう。そして,承久の乱(1221年)を
機に,上皇側に加わった公家や武士の領地を没収し,手柄を立てた御家人
を新たに任命しました。これを「新補地頭」といい,承久の乱以前の地頭
を「本舗地頭」呼んでいます。

そして,地頭は,現地の実力者として徐々に力を伸ばし,荘園を侵略して
いくことになります。しかし,室町時代に入り,南北朝の内乱をへて,守
護が領国支配をすすめるようになると,地頭は有力な守護の被官となって
実態をうしなっていくことになります。


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=第84回= 鎌倉幕府(かまくらばくふ)

鎌倉幕府は,源頼朝が鎌倉におこした『武家政権』です。
成立時期は,通常言われている1192年だけでなく,諸説があります。

 ・1180年説:頼朝が平氏打倒の挙兵をし,鎌倉を根拠に関東の経営に着
       手し侍所を設置した。

 ・1183年説:頼朝が後白河法皇から東国行政権を公認された。

 ・1184年説:侍所にくわえて公文所・問注所が設置され鎌倉幕府の基本
       的機構が整備された。

 ・1185年説:頼朝が守護・地頭設置の勅許をえた。

 ・1190年説:頼朝が朝廷から日本国惣追捕使(そうついぶし)の地位を認
       められた。

 ・1192年説:頼朝が征夷大将軍に任命された。

このように諸説があり,決定的なものはありませんが,1333年に足利尊氏
や新田義貞らによって滅ぼされるまで続くことになります。


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=第85回= 侍所(さむらいどころ)<鎌倉時代,室町時代>

侍所とは,鎌倉幕府の『中央の政治機関』の1つで,1180年に源頼朝が設
置しました。主な任務は『御家人の統制』で,戦時には『軍隊の指揮』に
あたり,大番役(おおばんやく)などの軍事奉仕に関する命令,治安維持に
関する指令を守護や御家人へ伝達するなどもしました。

頼朝は,侍所の別当(長官)に『和田義盛』を,所司(次官)には『梶原景時』
を任命しスタートしました。その後,和田義盛がほろぼされると執権北条
氏の兼職となりましたが,北条時頼が執権をやめて以降,実権は頭人(とう
にん)にうつりました。

室町幕府も,鎌倉幕府にならって侍所をおきましたが,この時代は長官を
『所司』あるいは『頭人』といい,中期以降,山名・赤松・一色・京極の
4氏,いわゆる四職が交代で就任するようになりました。設置当初は御家
人統制機関でしたが,管領制が確立すると,京都市中の治安維持を業務と
するようになりました。


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=第86回= 政所(まんどころ)

政所は,律令制の時代からあり,室町時代にも引き継がれますが,ここで
は,鎌倉時代の政所についてのみ解説します。

政所を一言で言うと『一般政務や財政事務』をつかさどる中央の機関です。
1184年,源頼朝は,大江広元らの京の官人をむかえ「公文所」を開設しま
した。そして,1190年に頼朝が,右近衛大将に任命されると,近衛大将の
家司は摂関・大臣と同列であるという貴族社会の慣習にしたがい,1191年,
公文所は『政所』とあらためられ,長官である別当には大江広元が任命さ
れました。

当初は,幕府の行政事務や訴訟など幅広い職務に関係していましたが,引
付衆が設置されたりして,幕府機構が充実してくると,政所の役割は,財
政関係に限定されるようになりました。


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=第87回= 問注所(もんちゅうじょ)<鎌倉・室町時代>

問注所とは,鎌倉・室町幕府の『訴訟・裁判処理機関』です。
1184年源頼朝が設置しました。まだ頼朝が征夷大将軍になる前のことです。
長官は「執事」とよばれ,貴族出身の「三善康信(みよしやすのぶ)」が初
代の執事を務めました。以後,執事は三善氏が世襲することになります。
権限も次第に拡大し,鎌倉をのぞく東国の刑事事件以外の裁判をあつかう
ようになりました。

しかし,1249年に「引付衆(ひきつけしゅう)」が設置されると,御家人の
土地をめぐる訴訟は引付衆の担当になり,問柱所は土地以外の一般財産で
ある動産物権や債権などの訴訟をあつかう雑務沙汰(ざつむざた)と,一般
訴訟の受理にかぎって処理するようになり,鎌倉末期になると雑務沙汰だ
けに権限が縮小していきました。

室町幕府も鎌倉幕府同様に問注所をおきました。はじめは鎌倉幕府の問注
所の権限を継承していましたが,まもなく裁判機能をうしない,記録の保
管や,文書のチェックなどをする機関になっていきました。


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=第88回= 御家人(ごけにん)

御家人とは,鎌倉時代に『将軍と主従関係をむすんだ武士』のことです。
以後,内容的には違いはありますが,江戸時代まで続きました。

もともと貴族や武家の棟梁につかえた武士は「家人」と呼ばれていました
が,鎌倉幕府の成立後,将軍への敬意から「将軍の家人」に対し「御」の
字をつけて「御家人」とよぶようになりました。当初は,頼朝の挙兵に応
じて結集した東国の武士が中心でしたが,幕府の支配が全国におよぶと,
西国にも御家人がふえていきました。

鎌倉幕府は,『将軍』と『御家人』の間にむすばれた『御恩』と『奉公』
を基本とした『主従関係』の上に成立していましたので,将軍の御家人に
なれば「守護」や「地頭」に任命され,本領安堵として父祖伝来の領地の
保持がみとめられるほか,新たな領地があたえられる「新恩給与」朝廷へ
の官位推薦などの『御恩』をうけられました。

逆に,御家人は「戦時の出陣」や平時の「京都大番役」「鎌倉大番役」と
いった京都・鎌倉の警固などの軍役,将軍の御所造営など,さまざまな経
済負担を『奉公』として義務づけられました。

室町時代にも御家人の呼称はみられますが,武家の家柄をしめすもので実
質はうしなわれていました。また,江戸時代には,1万石以下の幕臣のう
ち,将軍に御目見えできる者を「旗本」御目見えできない者を「御家人」
とよびました。


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=第89回= 執権(しっけん)<鎌倉時代>

執権とは,鎌倉幕府において『将軍を助け政治を統轄』する役職名です。
本来は,朝廷における言葉で,上皇に仕える院司(いんし)を統轄する役目
を呼んでいましたが,13世紀中ごろから幕府の実権を掌握している北条氏
を執権というようになりました。

1203年,北条時政が大江広元とならんで政所別当となり,のちに権勢をの
ばし,執権と称しました。時政の後をついだ子の義時は,1213年に鎌倉中
を戦火に巻き込んだ和田合戦の末に,侍所別当の和田義盛をほろぼし,政
所と侍所の両別当を兼任して幕府の実権をにぎりました。そして,名目だ
けの将軍にかわり政務を統轄する執権の地位を不動のものにしたのです。
以後,執権は,北条氏によって世襲されることになります。


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=第90回= 承久の乱(じょうきゅうのらん)<鎌倉時代・1221年>

承久の乱とは,1221年に『朝廷と鎌倉幕府の間におきた争乱』です。

当時,朝廷の政治は「後鳥羽上皇」の独裁でしたが,上皇は,はじめ生母
の弟である坊門信清の娘を将軍「源実朝」の妻にするなど,幕府との融和
路線をとっていました。

しかし,1219年,3代将軍「源実朝」が殺されると,上皇は,弱体化して
いた公家勢力の回復をはかる好機と考え,討幕の決意をかためたのです。

幕政の実権をにぎる執権「北条義時」は,子供のなかった実朝のあとの将
軍に,上皇の皇子をむかえようとしましたが,上皇は,これを拒絶。結局,
頼朝の遠縁にあたる九条道家の子,頼経が将軍としてむかえられることに
なりました。

1221年,上皇は「北条義時」追討の命をだし,諸国の武士につたえ,つい
に挙兵しました。しかし,上皇の呼びかけに応じた武士は,予期に反して
少なかったのです。

これは,頼朝の妻で尼将軍ともよばれた「北条政子」が檄を飛ばし,上皇
の命令で揺れる御家人たちの結束を高めたことが大きな要因でした。幕府
は,執権「北条義時」を中心に結束をかため,義時は子の泰時を大将に,
弟の時房を副将として軍勢を東海道から京都に向かわせ,東山道や北陸道
からも攻めさせました。そして,1ヶ月たらずのうちに京都を占領したの
です。

乱後,幕府は「後鳥羽上皇」を隠岐に「順徳上皇」を佐渡にながしました。
また「土御門上皇(つちみかどじょうこう)」は自らすすんで土佐にながさ
れ,のち阿波にうつり死にました。

この勝利で,幕府は,上皇方の公卿や武士の所領を没収し,新補地頭を設
置し,さらに朝廷監視のために「六波羅探題」を置いて幕府の権力を西国
に対しても強化し,幕府の基礎をかためたのです。


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